後編<楓>6
演奏会の後、俺は奥に呼ばれた。お盆の上の値段のつかないボトルと二つのグラスに、これから起きることを想像していた。
「失礼します」
中に入ると、龍二だけが座っていた。壁際に秘書がいるだけで、女性もいなかった。
「美晴。来たか、まあ座れ」
龍二は表面上和やかに俺を招いた。俺は龍二の正面のソファーに掛けると、お盆をテーブルに置く。
「酒は飲める口らしいな」
「少し」
「謙遜しなくていい」
龍二は手ずからシャンパンを注いでそのグラスを俺に差し出す。俺は素直にそれを受け取った。
ただ口をつけなかったのは、この伯父は薬を盛るくらい平気でやるからだった。
「お久しぶりです。といっても新年会以来ですから、一月ぶりくらいでしょうが」
「遥花を連れて来いと言ったのに、今年も来たのはお前一人だったな」
「安樹は父と恒例の旅行だったので」
この伯父は母が死んだことを認めていないように振舞っているが、実際はわかっているのだと思う。俺が安樹に置き換えても、彼は眉一つ動かさなかった。
「いつまで逃げられるかな」
「そうですか? 竜之介の嫁にする手は難しいですよ。安樹は完全にあいつを嫌ってますから」
「連れ戻すだけならいつでもできる」
残酷な笑みをたたえて、龍二は喉を鳴らす。
「ただそれでは遥花がかわいそうな気がしてな。少し試してみることにしたんだ」
「……それが」
俺は冷ややかな光を目に浮かべて言う。
「安樹を龍二さんの愛人にしてしまうことですか」
「愛人などと。私はただ、遥花を庇護下に置いて大切に慈しみたいだけだ」
大して変わりはないだろう。俺は心の中で舌打ちする。
「美晴。お前が兄として心配するのはもっともだよ。私も遥花の兄だ。側から離したくない気持ちはよくわかる」
幼い頃恐怖で見上げた目を、俺は今も恐れている。
「だがお前はまだ若い。妹だけに熱を入れていては、手に入るものも入らなくなるぞ」
俺が安樹から離れない限り、俺が手にするものを片っ端から奪う。伯父はそういう脅しもちらつかせてきた。
「伯父としてそれもかわいそうに思う。私は遥花の子に不自由させるつもりはない。むしろ出来うる限り手を貸してやりたいと思っている」
龍二は悪魔のように優しい声色で言葉を紡ぐ。
「お前は何が欲しい? この伯父に教えてくれないか」
たぶん、俺が金といえば一生生活に苦しまないほどのものを龍二は与えてくれるだろう。遊びならば俺が知らないような世界をも教えてくれるに違いない。
「俺は龍二さんの世界の住民ではありませんから。平穏無事に暮らせれば満足です」
「平穏に暮らしたいと思っていても、案外そうはいかないものさ」
龍二の瞳の奥には、俺の破滅のシナリオでさえ描かれているのかもしれなかった。彼の地位をもってすれば、人間一人を社会から抹殺することもできてしまう。
「……もし、世界が今のままでないとしても」
でもこの伯父が俺に強く出られない最大の理由を、俺は知っている。
「安樹が一緒にいてくれる。ずっとそうしてきたように」
俺と安樹は一心同体で、俺に何かすればそれはすべて安樹にも返ってくる。
龍二は表情を変えなかったが、一瞬の沈黙に不愉快がにじみ出た気がした。
俺は赤ん坊の頃からつないでいた彼女の手を離さないように、今は俺の方が大きくなってしまった手で包みこむように守っていく。
「安樹には俺が必要です」
断言した俺の前で、空気が淀んだ気がした。
「……身の程を知らない若造が」
暗闇そのもののような目で俺を見据えて、龍二はひときわ低い声を出した。
「お前は年々父親に似てくる。遥花は自分といるのが一番幸せなのだと言い切った、あの忌々しい男に」
腹の読めない父を思い出して、俺は苦笑する。あの父には確かに外見はそっくりだが、中身が似ているといわれると複雑な気分だ。
「注げ」
龍二は俺にシャンパンを示す。唐突な言葉に俺は一瞬不審に思ったが、注いでもらったのだから返すこと自体は間違っていない。
俺はシャンパンの瓶を取ってグラスに注ごうとして、その手が龍二に掴まれて顔を上げた。
「その強気がどこまでもつかな?」
力をこめられて俺の手からシャンパンが滑り落ちたのが、スローモーションのように見えた。
瓶の割れる音に、慌てた足取りで奥の部屋に飛び込んできた二人がいた。
「これは……?」
たぶんそろそろ様子を見に来ようとしていたのだろう。鈴子ママと、安樹だった。
「会長にシャンパンをかけるなんて、従業員にどういう教育をしている!」
そういうことかと、俺は怒声を響かせた秘書を冷めた目で見る。
「レオ君が?」
鈴子ママが俺を振り返る。たぶんここで俺がどう言っても俺のせいにされることはわかっていたし、鈴子ママも龍二の言うことには逆らえないだろう。
「鈴子を責めるのはよせ。どういう意図があったのかは知らんが、そこのボーイが突然したことだ」
秘書を手で制して、龍二は俺を見る。
さあどうするとその目は言っている気がした。クリーニング代などと甘いことは言わさず、たぶん全額弁償させてくる。この男のスーツは大学生の小遣い程度では払いきれない。
「待った」
俺の前に割り込んできたのは安樹だった。
「正直に教えて、ミハル。どういうことだ?」
安樹なら、このタイミングで話しかけてくると思っていた。
俺は何も言わなかった。ただ安樹の琥珀の瞳を見返しただけだった。
「……わかった」
それで安樹にはすべて伝わった。
くるりと振り向くと、安樹は深く頭を下げる。
「申し訳ありません。弁償は私がさせて頂きます」
「違うだろう。そこのボーイがしたことだ」
「手が滑っただけです」
安樹はゆっくりと顔を上げる。その顔を見て、龍二が眉をひそめたのがわかった。
「私の弟です。私の今までの給料すべてと、これから貯める分で弁償しますので、どうかお許しください」
俺を庇うように背中に隠しながら安樹は淡々と言う。
俺からは見えないが、今安樹の目にはまぎれもない敵意があるのだろう。
「はるかが頼むのであれば、なかったことにしてもいいぞ」
「私は今日限りでこのお店をやめさせて頂きます」
鈴子ママが慌てた様子で安樹に振り向いた。
「待って。浅井さんは、はるかちゃんの働きでなかったことにすると仰ってるのよ」
「私は今後浅井さんにお会いするつもりはありません。頂いたものもすべてお返しします」
安樹は俺に危害を加えようとするものを許したりはしない。
俺を守るためなら、安樹はどれだけでも強くなれるのを知っている。
「お金の方は他で働いてどうにか工面します」
「申し訳ありませんでした」
俺と安樹はそろって頭を深く下げた。
弁償費用は重くつくかもしれないが、安樹の心はこれで完全に龍二から離れた。
ただ龍二が安樹に嫌われるのを覚悟しているなら、愛人になるよう強いる可能性もある。
龍二に手を掴まれた時、否応なしにリスクの高い賭けに巻き込まれたと思った。
けれど龍二は安樹の体を欲しがっているようには見えなかった。そんなことは絶対に妨害するつもりだが、安樹の心を欲しがっているのなら、俺と安樹にはまだ時間がある。
「困ったな。私は何かはるかの気に障ることをしただろうか」
龍二は安樹の前に来ていた。そっと頭を上げさせると、その肩に手を置いて尋ねる。
「やめたくなったんです。それと、私ははるかではありません」
安樹の声は冷ややかだ。敵と認めた者にはどんな相手でも強い態度を崩さない安樹らしかった。
「君、先ほどから会長に失礼なことを」
「いい」
龍二は秘書を軽く黙らせると、顎に手を当てて呟く。
「ふうん。私が乞うても、今まで通りに付き合ってはくれないと?」
「はい」
安樹ははっきりと頷いた。それに龍二は惜しそうな顔をしたが、すぐに息をつく。
「そうか。決心は固いようだな」
龍二は面白そうな光を目に宿した。彼の安樹への興味が再燃したのを感じた。
俺たちの母親、遥花は気の強い人だと聞いている。そもそも逆らうくらいの女性が龍二の好みなのだから厄介だ。
屈みこんで安樹の耳に口を寄せて、彼は囁く。
「すぐに迎えに行く。……逃げられると思うなよ、安樹」
安樹はびくりとして身を引きかけたが、龍二が離れたので慌てて背筋を伸ばす。
「弁償のことははるかに免じて不問にする」
それだけ告げて、龍二は去って行った。
賭けは俺たちの勝ちだったが、今後のことを考えると安心はできないだろう。
「あすちゃん? 大丈夫?」
「……あの人」
片づけをしながら、安樹は青ざめた顔で呟いた。
「何で私の名前知ってるんだろう?」
俺は少し考えて答える。
「病院に行った時があったでしょ? その時に聞いたんだよ、きっと」
「そっか……ならいいんだ」
安樹はそれで納得したようで、ふいに俺の頬に触れる。
「ミハル。あの人と二人きりになんてさせてごめん。怖かったろ?」
俺を心配してくれるのがわかって、俺は微笑む。
「平気だよ。あすちゃんはすぐに来てくれたしね。僕を庇ってくれてありがとう」
「私がミハルを庇うのは当たり前だよ」
安樹は照れ隠しに早口で告げる。
「ミハル以上に信じてる人なんていないんだから」
その言葉があれは、俺は決して負けない。俺は安樹をぎゅっと抱きしめた。
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