よい

松風 陽氷

よい

 目が覚めた。僕は深緑の端が少し剥げた鞄を背負っていて、いつも通りの電車が、いつも通りの時間に、いつも通りの駅に着いた。空が橙と濃紺のグラデーションになっていて、脚と背中と肩が重怠かった。そうか、帰り道か。やけに周りが煩かった。色は強いし音は大きい、何だろう、感覚が過敏になっているんだ。左手のプラ袋の中からカシャカシャと錠剤やらカプセルやらの擦れる音がした。今日も薬は増えた。こうも家とバイトと病院の行き来しかしない日々を送っていると、絶妙に死にたくなってくる。診療代だって、薬代だって、数重ねれば馬鹿にならない。でも、辞めることは許されていない。僕の「人生」においては。

投薬を辞めたら死ぬ。僕自身は「それがなんだ、一石二鳥じゃあないか」だなんて思うのだが、生憎僕は生かされている。つまり死ぬことは許されていないのだ。

 生まれたくなかったよ、全く。

 家に着いたら、母がいなかった。フライパンにナポリタンが入っていた。夕飯を置いて行くだけ優しい母なのだろう。僅かでもちゃんと母性本能は生きているらしい。妙に陰のあるナポリタンだった。ポップ体より明朝体が似合いそうなナポリタンだった。細く切ったピーマンを綺麗に除いて茶碗によそった。ピーマンの美味しさなんて分からないし、分かりたくもない。冷めたナポリタンを食す。一口、麺を一本、普通の味を不味そうに食べている自覚はある。でも、ここには僕以外誰もいないんだ。温かさなんてここには無いんだ。どんな食べ方をしたってどんな作法だって、僕の勝手だろう。食欲が無いんだ。ふと思い立ってコンビニへ行こうとした。酒とエナジードリンクを買うんだ。寂しさと虚しさのやり込め方なんてカフェインとアルコールの摂取以外知らない。こんな生活を送ってるから薬が抜けねぇんだろって、思う人もいるんだろうな。でも、お生憎様、内科的なお薬じゃあねぇんだ。俗に言う頭がイカれちまった人に処方されるお薬さ。全く、嫌になっちまう。 よくね、度々脳味噌の奥の方で声が聞こえるんだ。「だぁれもすくっちゃぁくれないよぉ」ってね。酷いじゃないか、まったく。

 歩く足が行き着いた先は、コンビニじゃなくて五番街だった。僕は慣れない店に入るのは気が引けるタイプの人間だから、慣れてる飲み屋にばかり入る。そこで、いつもと同じものを頼む。

「すいません、金魚一つ」

「はい、金魚一つですね、三百円です!」

 そういう店なのだ。黒い前掛けのお姉ちゃんの化粧は今日も決まってた。アイシャドウと口元のピアスと四角い氷がキラキラしてら。煙草とアルコールの空気に溶けてく匂いがして、なぜだか何処も彼処もベタベタしている。橙色のランプが吊っていて、壁の角には野球しか流さないテレビ。そういう店なのだ。目の前のジョッキを一口。

「やっぱり辛いや。……金魚は好かん」

 誰にも聞こえない様に小さくそう呟いて、一気に全部飲み干した。僕は元来、唐辛子的に辛いのは駄目なんだ。どうも好きになれない。カレーのルーはいつだって甘口だ。金魚というのは辛い。唐辛子を一本割ってそれをを浮かせた酎ハイのことだ。全国共通だかそれともここだけなのかは知らない。飲み干してウォークマンの中の好きな曲を聴く。そうして、酔いが回ってくる迄まぁ、暇潰しである。快感が恥じらいを超えた時、初めて人は酔えるんだ。周りを見てみると、おっさんばかりだった。バーコード頭のおっさんや、スカジャンをキメたおっさん。目の前のおっさんは若い女の子の肩に手を回して引き寄せていた。隅っこでは一人のみの不細工が煙草を吹かしていた。こういう下らない空間が、僕は大好きだ。上品さを三分の二くらい失ってる、そういう空間。僕みたいな人間も、生きて良いんだと思える。ささくれを掻き毟った。そんなに痛くない。きっとそろそろ酔いが回ってきたんだ。煙たいカオスは人に暴力さえ振らなきゃ何でも許してくれる様な気がした。机の木目を眺めながら、隣のコールをぼんやりと聞いていた。きっとシラフじゃ臭いって思うこの空気は、堕ちた僕を救ってくれる蜘蛛の糸な気がした。少しで良いから、天国を、ちょっとばかし見てみたいと思ったんだ。母に嘘を吐いて帰りが遅くなると連絡した。こうやって、人は堕ちていくんだなぁ。刹那周りのおっさんが全員ジャガイモに見えた。芽が生えて全部、腐ってしまったら、面白いのに。うん、明らかに酔ってる。あぁ、今度来る時は小説を持って来よう。何もすることが無いまま酒を飲むってのは、随分楽しくない。つまらないな。


 ねぇ、氷がカランと落ちるまでの間、さ、僕の話を聞いていてくれよ。


 僕は母親から犯されたんだ。初めては九歳の頃。信じられないって、思うかい?本当の事なんだ、これが。いやぁ、人生って分からないよね、本当に。こういう人っているんだよ、実際。ちょっと愚痴っても良いかい? あの人は「可愛い、可愛い」って言いながら腰を振ってた。気持ち悪かったし、何より怖かったよね。正直、今思うと何で拒否しなかったんだとか思うけど、無理だよ。それは、象の踏み付けに抗えって言うようなもんさ。人間なら、無理。まぁ不可能だよ。僕は人間だったから、勿論無理だった。母親の踏み付けに九歳の僕が抗う術なんて、無かったんだよ。十歳になってからも、そんな事が二回あった。小学校の五年生になって、やっと、「何でこの人はこんなこと僕にするんだろう」って思ったんだ。そう思えるようになったんだ。……あぁ、父親はって?いないよ。僕が産まれる前にはもういなかったらしい、と言うか……実際分からない、と言うか。父もいないし母は僕を性的対象として見てるし。僕は気が付けば孤独だった。寂しかったよ、だァれも分かっちゃくれないんだもの、僕の気持ちなんて。僕の周りで肉親に犯されたなんて友人はいなかったからね。まぁ、そんな事普通言えないだろうけど、ぼくと同じ様にね、誰にも言えないだろうさ。だから、僕の笑顔の下はいつだって孤独だった。孤独が当たり前だった、なんなら孤独であることに気が付かなかった、孤独であることが普通だと思っていたからね、感覚では。でも、孤独は寂しいものだって、教えてくれた人がいる。古い友人さ。幼馴染み、腐れ縁、なんて言うのかな。彼がいて良かったぁ。僕は彼のおかげで真人間の感覚を忘れないでいれるのだからね。小中はずっと一緒で高校は違った。でも、高校に入ってからもマメに連絡を取ってくれた。かけがえのない友人さ。僕は中学までこう思ってた「人は利が有るから付き合うんだ」ってね。彼のことも例に違わずそう考えてた。だから、中学の時までの友達なんて、高校に上がっちゃ宿題も見せられないし、レポートの書き方も共有出来ない。付き合う「利」なんて無いから、スパッと切られるんだろうってね。でも、そいつは違った。全く実の無い話をして、下らないって笑った。そういう友人は、大切だよ。本当に、掛け替えが無いって、思う。利が無いのに、気にかけてくれる。そいつの存在は、孤独な僕にとって、唯一信じられるものになったんだ。友情なんてクソ喰らえって思う奴もいると思う、でも、違う。本当に極めている友情は、何よりも強固で、何よりも信じられる。自分以上に信じられるんだ。僕は余程自分の方が信じられないと思うからね。彼には言えたんだ。今まで、母親に犯されて生きてきたって。ヘラヘラ笑って話のネタにした。だから、僕は母さんが生み出した母さんの性玩具なんだっていう、ネタ話。彼はフッて笑って「そりゃご苦労」って言った。それだけだったけど、僕らにはそれだけで十分だった。僕らは同じ様に、同じだけの嘘吐きだったから、僕らの間じゃあ全てが笑い話になった。何もかも笑えた、それが僕にとっても奴にとっても、何よりだった。奴は言った「じゃあ、俺は身体的玩具だな」って、黄色く変色した脇腹を見せてきた。彼の家がちょっと古風で暴力的なのは僕も知っていたから、何も驚くことなんて無かった。二人で苦笑しながら遠くを見た。僕らはやっぱり同じだけの嘘吐きだから、もう笑うことしか出来ないんだ、人の前じゃ泣けなくなってるんだよ。そうなってるんだ、人の前じゃあ笑うことしか、出来ないんだ。僕らの身体は仮面しか、許しちゃくれないんだ。でも、お互いそれを何となく察していた。分かっていたんだ。感覚的に、僕らの間にはシンパシーがあった。多分あいつもそう思ってる。だってあれはそういう笑顔だったから。


 カランッ


 なんてね。

 ははっ、所詮酔っ払いの戯言さ、全部全部、端から端まで嘘っぱち。氷が注がれてからカランと音を立てるまでの、小さな短いネタ話。しょうがないだろう暇で暇で仕方なかったんだよ、こんなつまらない話しか出て来ない位には暇だったね、本当に。はぁ、酔いが覚めてきやがった。哀しいなぁ、虚しいなぁ。ね? 君もそう思うだろう? そう思えよ。……ふぅ、じゃあそろそろ帰ろうかな。今世に爪痕残してみろってね。僕の憧れるミュージシャンの言葉さ。またね、おやすみ。


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