ストレッチの迷走
淡麗 マナ
第1話
スマホを持つ手がふるえる。深呼吸をして、背筋を伸ばし、発信ボタンを押した。
「もしもしっ。私、ゆるゆる出版の柔田(やわらかだ)と申します。二九野(にくの)先生のお電話ですか? はい。番号が変わりまして。お電話したのはストレッチの新企画の打ち合わせをお願いしたくて。では、明日の十四時に東響大学青門近くの喫茶「プロイセン」でいいですか?」
とうとう、実行に移してしまった。大きな悪事に手を染めた時、ずいぶん時間が経ってから、人は罪を実感できるのかもしれない……。
手に持っていたスマホに知らない番号から着信があった。
「はい。花袋(かたい)です」
「花袋さんっすかー。ヤマノ宅急便っすけどー。伊勢貝書房(いせかいしょぼう)からお荷物でーす。留守なので、家の前に荷物おいといてもいいっすかねー」
「ダメです。不在通知いれといてください。再配達をお願いしますから」
「そっすかー。配達つまりまくっててー。どこか指定場所に置かせてもらえませんかねー」
「盗られたらどうやって責任をとってもらえるんですか。大事なものなので」
「あっ。わっかりましたー。不在入れときますー。あのー再配達はくれぐれも受け取ってくださいね。おねがしゃっす」
途中で遮られ、電話は一方的に切られた。
私は柔田さんの名刺をカバンにしまった。勤務先であるコンビニの店長に早引けと明日の休みを伝え、コンビニをでた。
喫茶店「プロイセン」の扉を開けると、先生がどこにいるのかすぐわかった。とても一般の方とは思えない、スーツをパツパツにしたまま、二人がけの椅子に一人で二人分座っているような広がりを見せる肩幅で、机の下でなにかをもぞもぞ、と動かしていた。
「二九野先生。はじめまして。ゆるゆる出版の柔田(やわらかだ)の代わりにまいりました、花袋(かたい)と申します」
「ご丁寧にどうも。初めまして、ですね」
バリトンの声で名刺を渡してくるマッチョイズム。私は名刺を切らしておりまして……と申し訳なく言った。
名刺はからだのデカさに比べ、あまりに小さい。名刺には東響大学大学院医学研究科研究科長・医学部長 二九野 固鞠(にくの かたまり)と長すぎて舌をかみ切りそうな堅苦しい肩書きが記載してあった。それと、良いマッチョ独特の筋肉が隆起したような笑みをもらって、素直に男としての負けを認めざるをえなかっだ。スーツはもはやはじける瞬間を今か今かと、待っているようなパッツン、パッツンであった。
「ご連絡をしたとおり、先生に新しいストレッチの本を執筆頂きたく、企画書をお持ちしました」
企画書を先生の隣までもっていき、手渡した。拝見します、とマッチョ。横から机の下の部分が見えた。ぎっちょむ、ぎっちょにむっという音が聞こえる。見たこともない銀色のものを握り潰している。
「それはなんでしょう」
「ああ。なんでもないんです。いつものくせで、待ち時間に握力を鍛えていたんですよ。はっはっはー」
輪っかが二つ付いていたので、おそらくは両手で握って使うものかと思われたが、片手で握りつぶしていた。私は二度見して、視線を喫茶店の他の客に向けた。普通の喫茶店で暇を潰すご老人が多い。あ、この方たちも潰してらっしゃるのか。時間を。
先生は誰に言うでもなく独り言と相槌を打ちながらサラサラ、パラパラと企画書をめくっていく。先生のからだではA四サイズの紙が粒ガムぐらいの大きさに感じるので、A三サイズにしてお持ちすればよかったと心が痛んだ。
「私はハーバード大学と何も関係ないし、神でもないのですが……。あと、もうすこし筋肉を前面に打ち出す方が個人的に好みですな」
そう言って先生は表紙のタイトルに指さした。
「ハーバード大学教授と知り合いの東響大院教授が本当は教えたくない最新ストレッチ解体新書 頭痛、肩こりが一分で消しとび、神になる! その秘密はなんと僧帽筋にあった!」
私が考えたタイトルだ。
ストレッチはいま、迷走している。文字通り、どこへ向かっているのか皆目見当もつかない。
静的ストレッチは、運動前に行うとマイナスの効果が出るというエビデンスもでているほどだ。まいったぞ。ストレッチの終焉か?
ストレッチ出版業界は今、五つの大きなかたまりで構成されている。
一 疲れやこりをとること
二 やせること
三 早いこと
四 世界一伸びること
五 神であること
いくつか出版されている本を紹介しよう。
「ノビさん一分極ノビストレッチ みるみるのびる一分間」
これが早い系だ。とにかく手軽で短時間でOKなのを売りにしている。最後に一分間が伸びるという、SF的アプローチを含めてくるところが憎いタイトルだ。
「ハーバード医師が薦める世界一伸びるストレッチ」
最近はハーバードや、スタンフォードの海外有名大学教授や、医師がトレンドでストレッチ会の黒船だ。世界一伸びるを目指すストレッチニストと相性がよい。
「神のストレッチ」
もはや人ではなくなってしまった。おお。神よ。あなたはストレッチをなさるのか。汝、隣人のストレッチを愛せ。
「タイトルに関しては編集の私が考え得る、ぎりぎりを攻めた売れるタイトルにしました。絶対大丈夫です」
私は胸を張って嘘をはいた。息を吸うように。
「わかりました。タイトルは置いておくとして、この、企画書の三ページ目。この意味を教えてくださいますかな?」
そこは首の僧帽筋を伸ばすと、頭痛が直るという内容を二十ページかけて理論とともに紹介するという内容であった。
先生、聞いていただきたいのですが、と私は立ち上がった。
「ストレッチの本はいくらでもあります。そしてストレッチ業界は迷走しています。私は筋トレをすることで発生する頭痛が、僧帽筋を伸ばすことによって軽減することを多くの人に広めたい」
ジムに通うお金はコンビニフリーターの私にはなかった。それでも筋トレをしたくて、近くの公園の鉄棒で懸垂をはじめた。
しかし、からだを持ち上げると頭痛がするのだ。いかん、と調べはじめる。ネット・本・数少ない知人と呼べる人に片っ端から聞いたが、頭痛を直す手立ては不明。鎮痛剤を飲むことや、しばらく運動をやめることしかわからなかった。
その後、あるネットの記事で僧帽筋を伸ばすと頭痛が消えたという記事を見て、伸ばしてみた。
鉄棒をつかみ、息を吐く。大きく吸って、すっ、と吸った瞬間に肩と腕を使って、からだを持ち上げる。
痛くない。夕日がまさに落ちようとしていて最後の曙光のような光のなか、痛くない、と私はいった。痛くない。その光の中で私の決意は決まった。犬が私に向かって吠えた。
先生は、丸太と見まがう首をふって、相づちを打った。
「お話はわかりました。しかし、ほとんど筋肉と関係ないですよね。以前柔田さんと作ったストレッチ本は筋トレの痛みをほぐす内容でした。しかし、ここにはいちばん大事な筋肉のことが書かれていない。あるのは、僧帽筋だけです。で? 他にたくさんある筋肉はどこへいってしまわれたのかな。筋肉は旅立ちません。ただ、増えるか減るか、なのですよ」
先生のジェスチャーによって、上腕二頭筋が自由に動き、パッツンツンスーツが悲鳴を上げている。
「いいえ、僧帽筋=筋肉です。僧帽筋は大きな筋肉なので先生の条件を満たしております。筋肉にまつわるものであればこそ、先生に依頼をしております」
身を乗り出して、先生の顔に近づいた。すごいぞ。近いぞ。筋肉が。
アラームがなって失礼、と先生は断って店員を呼び、ホットミルクを注文し、みずからの大きすぎる胸の中からマイシェイカーを出した。峰不二子か。プロテインを作り、豪快に……、と思いきや、ちびちび、飲みはじめた。
「すみませんねぇ。筋トレ後の四時間以内にはプロテインを飲まないと筋肉がそわそわをはじめますので。あつっ」
先生は猫舌らしい。それでも、おいしそうにストロベリーチーズ味のプロテインで、さらなる栄養を筋肉に流し込んでいた。
飲み終わったのを見計らって私は言った。
「僧帽筋を伸ばすのは治癒魔法に匹敵します。私自身の筋肉がストレッチによって救われました。先生のお力でもっと多くの筋肉達を頭痛から救いたい。先生の筋肉は何のためにあるんですか? 自分が鏡で満足するための見せかけの筋肉なのですか?」
「ほほう。言いますね。もちろん私の筋肉はみんなの力になるため。この筋肉のひとつ、ひとつが、みんなの思いにより紡がれた筋肉でもあるんです」
先生は目を閉じて、愛おしげに大胸筋(推定Jカップ)をなでた。
「では、ストレッチの本を書いて頂けますね?」
先生は気持ちよくうなずいた。
「考えさせてください」
心の中で盛大にずっこけたが、顔に出さないように必死に耐えた。
「待ってください。考える時間など必要ありません。今すぐここで決めてください。なんだったら今ここで書いていただきたいぐらいです」
私は立ったまま、頭を下げた。安い頭のたたき売りだ。こんなもので人の心が動くなら、いくらでもバーゲンセールなうっ! だ。
深いお辞儀をした後、顔をあげると、探るような目で私を見つめる先生と目があった。決して目をそらさない。柔らかそうな首の部分に目をひかれそうになってもこらえた。
ここで決める。
「分かりました。ストレッチと筋肉のパワーバランスも含め、検討させていただきます」
「ダメです。今ここで決めてくださいお願いします。先生」
「あなたも頑固ですなぁ。そんなことでは筋肉が意固地になってしまいますよ」
「いいえ、頑固ではありません。どちらかというと柔らかい方です」
とてもながーい沈黙が、場を支配する。おじいさんのうぇっほぉんという咳払いが聞こえてきた。
私は最敬礼をし、先生に向けて手を伸ばした。
そこに、そっと、暖かいぬくもりが伝わり、手の甲から、全身に先生の熱が伝わってくるのが感じられた。
あたたかい。なんということだ。筋肉はじぶんだけでなく、だれかのこともあたためることができるのだ。私自身もそうなりたい。だれかのちからになれる、何者かに。
「分かりました。分かりましたから、ここはひとまず一度話を持ち帰らせていただいて、明日こちらからお電話しますよ。それで勘弁してください。あなたのカロリー(熱量)には負けましたよ」
「……。分かりました。きっと熱い僧帽筋への想いを本にしていただけると期待しております」
握手を交わす。右手を強く握られて、指先から腕の部分までもげるかと思った。
先生と別れ、一人で歩き出すと冷房で冷えたからだが夏の強烈な暑さによって、温められ、すぐに汗がふきだしてきた。
と。
よく町を走っているヤマノ宅急便のトラックがまさに私に向けて突っ込んできた。ここは歩道なのだが。
ここは歩道なのだが……。
と、思っている瞬間も、スローモーションであった。
私にはなぜか、その光景が少しずつ動くように思えた。
おかしい。
体が動かない。
死にたくないと強く願った。
その時。宅急便業者から電話がかかってきたのを思い出した。頼んだ本は「頭痛の正体。死に至る病の解説」だ。それはいい。問題は再受け取り日時だ。今日。そして、十六時にお願いしていた。先生との話が長引き、喫茶店をでるときには十六時を過ぎていた。再配達を受け取れなかっただけでトラックをぶつけてくる。あんまりではあるまいか。
いい歳をしたフリーターで、編集部の柔田という名刺を手に入れ、その同僚を偽った。
大悪党である。
再配達さえも受け取ることができなかった。
度しがたき人間のくず野郎である。
それでも、死にたくないと思った。
僧帽筋を伸ばす、その時までは。
トラックが再配達しにやってきた。
死を。
さようなら。僧帽筋。君のことをもっと、伸ばして、あげ、たか、っ、、た。
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