第21話
眠りから覚めてわたしはなにか大きな背中に乗せられていることに気づいた。
なんとか起き上がろうとするけれど、からだがぐったりしていてぜんぜん力が入らなかった。とにかくそのときわかったことは、公園の芝生のようなさわさわとしたひらべったい背中にいたことと、どこかに向かって移動をしているということだけだった。
眠りの前の記憶をさかのぼってみるが明瞭な映像は思い出せず、まるで白い絵の具で塗りつぶしたように輪郭がなかった。ぼんやりとした断片すら、記憶に残っていなかった。
しかしながら、わたしが今乗っているらしき背中の肌触りのようなものにはなんとなく懐かしさが残っていた。芝生のような背中は獣を想像させた。
もしかするとわたしが乗っている正体は獣なのかもしれない。
なにしろ、全体が見えないがこの獣の体表は石英のような際立つ白さをしており、動くたびに筋肉が盛り上がり、それによって隆起する波がわたしのからだを揺らした。しっかりしがみついていないと空を駆ける猛烈な速度に振り落とされそうになる。
さて、この獣はいったいどこへ向かっているのだろう。
あてのないところ、世界のさいはて?
どこでもいいような気がした。今はただこの乗り心地のよろしくない背中で、目的地に到着するまでのあいだ、のんびりとしていたらよいだろう。わたしはそういうふうに考えてふたたび目を閉じようとした。
と、そのとき。
「月河さん」
これまた懐かしい声の響きがやってきて耳の奥に伝わった。
それでわたしはハッと目を見開いた。わたしの目の前にあったのはポストほどの大きさの、らせんを描くうずまきの貝だった。
「貴女は、まだ私のことを覚えていらっしゃるでしょうか」
そのうずまきの貝はトンネルのような暗い穴から、数本の触手をうねうねと這わして来た。触手の根元にはアメフラシのような弾力のある肉塊が現れて、その左右に瑪瑙のような目をつけていた。
この外形、この話し方、思い出した。
あなたはアンモナイトのハックルベリーさんだ。
「そうです。そのような名前があったことを貴女に言われて今私も思い出しました。ありがとうございます」と彼は言った。
ハックルベリーさんと言えば、わたしがこの世界で最初に出会った方だった。
あのときはわたしが貝のなかに閉じ込められていて、そこから抜け出すとこの奇妙な形状のハックルベリーさんが待っていた。わたしたちはあの当座多くの話をした。けれどそのことはとうの昔に記憶のかなたに消え去ったはずだった。
今このようにして再会できたのは、いったいどういうわけだろう。あのときの話では一度別れたものは、二度と会うことができないということだった。
「そこのところは私にもさっぱりですがね、ある条件——時間や空間に関することでしょうか——を満たすことで、離れ離れになった両者が今一度、引き合う結果になったのだろうと考えます」
ハックルベリーさんは、触手で獣の背中にしがみついたまま言った。
ある条件というのは。
「さあ、わかりません。ですが数十年に一度、あるいは数百年に一度、惑星どうしが太陽を中継して一本の線で結ばれるという現象が存在するように、今回はそのたぐいの運命だったのかもしれません。どうして出会った、と言うならば、運命だった、としか言いようがありませんね」
それは、なんとまあ、すてきな運命ですね。
ハックルベリーさんにまた会えてわたしは嬉しいです。
「私もですよ、月河さん。貴女にお渡ししたペンダントはちゃんとつけてくださっているんですね」
ハックルベリーさんは、わたしの首にかかるうずまき貝のペンダントを触手で指して言った。わたしがうなずくと彼は触手で喜びを表した。
「自分が与えたものを、相手が身につけているということは格別にこころよいことですね」
あなたのセンスがわたしに合ったからだと思います。まわりにも好評だったんです。蟻さんとか、猫さんとかに。
「動物ばかりですか」
ええ、動物ばかりでしたね。
わたしたちは笑いあった。
今後ともも大事にさせていただきます。
「それは結構なことですね。アンモナイト冥利につきます。今は手元になんにもないのですが、もしみたび会うようなことがあれば、そのときはまた別のものを差し上げましょう」
ほんとうですか。
「はい。約束はお守りします」
そう言って、ハックルベリーさんの触手とわたしの指で指切りをした。
「月河さん、お手が氷のように冷たいですが、どうかなされたのですか」
どうしてでしょう。冷え性というほどではないのですが。
「もしかして、極寒の地にでもおりましたか」
ううん、思い当たる記憶はちょっとないですね。たしかにこの冷たさは気になりますが、異常というほどではなさそうです。わたしはいたって元気ですよ。
「それならよかった。ところで月河さん」
はい。
「気のせいかもしれませんが、この乗り物、だんだんとちいさくなっておりませんか」
言われてみると、わたしたちの足場はちいさくなりつつあった。
というよりはアイスクリームのように溶けてなくなっていた。次第にからだは重力にしたがって、下へ沈みこもうとしていた。わたしは必死で固い足場を探すけど見つからなかった。
わたし、もっと、ハックルベリーさんと一緒にいたいのに。
「物事は思うように進まないのが世のつねです。私は神ではないので、神のようなふるまいをすることはできません。まして人間でもありませんから、自由に手足を使うこともままなりません。そうして生きてきた数億年でしたが、やはり運命の力にはあらがいようがなさそうですね。私たちの再会を喜ぶものもいれば、うとましく思う分子もかならず存在するということなのでしょう」
わたし、まだ、離れたくないです。せっかくまた会えたのに、こんな早くにお別れだなんて、あんまりです。
せつないです。
「月河さん、私とて離れたくはありません。しかし、私の意思ではどうしようもないことがあることもどうかわかってください。別にこれですべての物語が終わりというわけではないのですから」
わたし、昨日今日と、たくさんのひとたちを見てきたし、いろんな世界を体験してきました。
けれど今思うことは、やっぱりハックルベリーさんと語り合っているときが一番楽しくて、せつなくて、かけがえのないものだってわかったんです。あなたのその雰囲気や心づかいに、とても気持ちが温かくなるんです。
こんなひとはなかなか見つからないということを、わたしは知っています。
それなのにすぐにお別れなんて、かなしくて、たまらない。
「月河さん。貴女のお気持ちはもれなくわかっております。私も、貴女のような心のやさしいかたと語らうことが、なによりの楽しみでしたから。ましてや、そのかたと二度も会えたということは、喜びを超えて幸せに近いのです。
しかし幸せは長く続かないものです。幸せはいい意味でもわるい意味でも、私たちをだめにしてしまうものです。幸せは追いかけているときが、もっとも価値のあるものだと私は思っております。
私は貴女と離れてしまうことで幸せを失ったとは思いません。ちょっぴり、幸せから遠ざかったと感じるだけです。そして、いずれ死に物狂いで追いかけて、貴女に会いに行かなければと思うのです。貴女との別れが悔やまれれば悔やまれるほど、私はいっそうの努力をもって貴女との再会という幸せに突き進んでいく所存です」
わたしは、どうしたら。
「貴女は貴女のままでいたらいい。私が迎えに行きましょう。それでも、もし望んでよいならば、貴女が私のことを覚えてくださるのであれば、私はそれを励みにさらに根気よく努力をつづけるかもしれません」
わかりました。覚えておきます。ですから、早く会いに来てください。
「約束しましょう」
守ってくださいね。
「もちろんです」
ありがとうございます。
「そろそろお別れですね。この足場も、ものの数十秒ほどですり減って、すべてなくなってしまいそうです」
ハックルベリーさんは来たるべきときに備えて、触手を石灰質の殻の内側に引っ込めた。
「さて、この下にあるのはなんでしょうか」
わたしは残り少ない毛皮のふちに身を乗り出して、地上を見下ろした。
わたしたちは幅の広い川の上空を渡っていた。
川のみなもには丸い月が鮮やかにうつっていた。
「Moon Riverですか。お月さまだけはどんな状況であっても美しいですね」
その言葉を最後に、ハックルベリーさんは、月を浮かべた川に落ちていった。
ぽちゃん。
エピローグ
数日を経て一件の荷物がアパートに届いた。
送り届けてくれたのは数匹の蟻たちで、黄色の帽子をまぶかにかぶっていた。
「こんにちは。お荷物をお届けに参りました。あなたは見事、当社主催の抽選に当選いたしました」
抽選? わたし、そのようなものに覚えはないんですが。
「抽選券はお持ちではないですか? 賞品の受け渡しは、抽選券との引き換えによって成立します」
ちょっと待っててください。探してきますと言ってわたしは部屋を探し回った。あたふたしながら抽選券なんてあったっけな、と自問してみる。
あれ、そういえば、先日宝石に目がないサラリーマン風の蟻さんと話したときに、なんか抽選券らしきものをいただいたような気がする。
あのときはたしか、わたしが肌身離さず持ち歩いているアンモナイトのペンダントのことを褒めてもらったんじゃなかったか。いいものが見れたと言って気をよくした彼は、そうだ、女王蟻の提供する抽選会の券をわたしにくれたのだった。
と、すると、その抽選券はあの日持ち歩いていたバッグのなかにあるはず。
ベッドのそばにおいた黒めのバッグのなかをごそごそと漁った。するとバッグのわきのメモ紙が数枚入りそうなすきまに、はがきくらいの大きさのピンク色の紙が一枚あった。
そこには『抽選番号A1EEDA・1837』と記されていた。
これだ、と思いわたしは玄関に持って行った。抽選券を蟻さんに提示すると手元の紙と照合した。数秒間目で追いかけたのち、
「はい、結構です。間違いありません」と言った。
「こちらをどうぞ」
わたしが手渡されたのは、色紙くらいの小包で上部に貼られたラベルには、『当選者様宛て』と書かれており、その下に宝石を取り扱う会社の名前が刻印されていた。
「それでは失礼します」
蟻たちは、用事が済むとそそくさと帰ってしまった。
ふむ。あのとき蟻さんから抽選券をいただいたときは、微塵も期待していなかったけれども、そういうときにかぎって当たってしまうものだなあとしみじみ感じた。
はてさて、いったい中身はなにが入っているんだろうか。
まあそれはさておき、今回のことはあのペンダントがもたらしてくれた祥瑞なのだし、彼に感謝しないといけないな。
今頃、彼はなにをしているんだろうか。
わたしのために努力してくれてると嬉しいな。
いつでも待ってますから、早く来てくださいね、親愛なる友人さん。
わたしはとあるアンモナイトのことを思いながら小包を開けた。
了
Moon River 瀞石桃子 @t_momoko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます