第10話
わたしがトンネルを抜けたとき、草を掻き分ける音と光とともに、見たこともない草原が眼前に広がった。さらに足元から上空に向かって風が吹き上がり、ざあという音に合わせて草原がいっせいに草丈を揺らした。
ここはどこだろう、わたしは自分の心に問いかけた。答えはなにも出なかった。
ひとまず、歩いてみようと思った。
草原の絨毯にあったものはオフホワイト色の風車だった。それらはドミノのように幾重にも連なり、高さは数十メートルに届いた。ひとつの風車に近づくと外形がわかった(円錐状の支柱の先に、羽が四枚あって、ゆっくり回っていた)。支柱をさわるとざらざらした感触に湿り気があった。
それから連なる風車に沿って半時間ほど歩くと、今までと異なる風車に出会った。その風車は羽がついておらず、その羽は地面に横たわっていた。そして支柱には扁平な橋のように長いはしごが立て掛けられていて、ちょうどはしごに末端に黒っぽいかげ——ひとかげ?——が見えた。
ははん、どうやら風車の整備のまっただなからしい。
わたしははしごに駆け寄り、末端のかげに声が届くように大声で呼びかけた。
「あのー、すみませーん! 今なにをされているんですかー!」
するとかげがこちらに気づいたらしく、わたしに手をふった。わたしも応えるように手をふり返した。やがて、かげははしごを降りてきた。次第にかげのかたちはひとであることがわかり、それは少年ほどの背丈で、彼はくすんだ色の作業着を着ているということが明らかになった。
わたしはまさか少年があんな高いところにいるとは思わず、目を丸くした。一方彼はいぶかしげな目をしており、肘のあたりまで作業着をまくりあげた腕はポッケに深く差し込まれ、まるで悪党の子分のように見えた。
あ、あの。こんにちは。ここでなにをしていらしたんですか。
「電圧機の調整・と・古い羽の処分」
少年は地面の羽をちらと見やった。『古い羽』は見るかぎり変色や損傷はなくてまだまだ使えそうだった。
「羽・は・新しく生え変わってくる・からね。永久歯・が・きれいに生えてくる・ために・乳歯・を・抜いておくのと・同じなんだ」
ふむ、なるほど。そういうことですか。
「それより・お姉さん・こんなところに・なにしに・来たの」
わたしは、この大きな風車に沿って歩いてきたの。するとここにたどりついた。ねえ、僕、わたしこれからどこに行けばいいと思う? ほんとうは妹のいるところに帰りたいんだけど、このあたりだだっ広くてなにがあるんだかわかりゃしないのよ。
「ああ・なるほど。お姉さん・自分を・見失って・『ドーナツの穴』に・彷徨いこんで・しまったんだ」
ドーナツの穴?
「そ。一種の・哲学だと・考えるのさ。ドーナツの穴・は・有る・とするか・無い・とするか・ということ」
「もしもドーナツが作られる過程で、意図的に穴をくりぬいたとすればドーナツの穴は『無い』ということになるが、もとより穴が存在するならばそれは『有る』と捉えられる。そういうこと?」
「そのとおり。さて・そうすると・ドーナツの穴・に・迷い込む。これが・どういう意味か・なんとなく・わかるんじゃないかな」
つまりわたしは、自分を見失ったと思っているけれど、じっさいのところ最初からわたしなんてものは確乎として存在しておらず、時間の流れのなかで、可変的に移り変わり、蛇が脱皮をするみたいに、新たなわたしが何度も生まれ変わっているということなのか。
「お姉さん・が・そう思うのなら・それが・ひとつの答え・だよ。けれど・ドーナツの穴・には・もうひとつ重要な・問いが・隠れているんだ。それが・なにか・わかる?」
わたし、しばらく長考するけれど、なにも思い浮かばなかった。とうとうわたしは降参した。少年は腰をかがめて地面に横たわった羽を拾い集めながら、このように言った。
「それじゃ・答えだ。ドーナツそのものを・真横から・見たとき・ドーナツの穴・は・有る・とするか・無い・とするか・ということ」
はあ、これはちょっと考えないといけない気がした。
少年が言わんとしていることは、つまり、ドーナツを正面から見れば、ドーナツの穴は誰にでも見えるけれど、それを見る位置によってはドーナツの穴が見えないことがある。もしも見えないものは真実でないとすれば、ドーナツの穴は『無い』ということになる。けれど現にドーナツに穴は開いているから、『有る』ということにもなる。
こうして考えるとドーナツの穴が有るか無いかという命題にたいする答えをひとつに決めることは不可能だった。しいて言いかたを変えるとすれば、観測者次第であるということ。
「そう。つまり・ドーナツの穴・の・アイデンティティを・決定づけるのは・ドーナツ自身・ではなく・ドーナツを食す・ひとたちなんだよ。または・ドーナツの穴は・有る・ということがアイデンティティだし・無い・ということも・同様にアイデンティティ・に・なりえるんだ」
なにやら話がこんがらがってしまいそうだった。わたしはもとより小難しいことを考えるのは、にがてなたちなのだ。
「話を戻さないといけない。お姉さん・は・ドーナツの穴・に迷い込んでしまった。けれど・さっき言ったように・ドーナツの穴は・あくまで意識の向く方向に依拠するんだ。お姉さん・が・迷っていると思えば・それは迷っていることになるし・この草原を歩いてゆけば・いずれどこかに通じる・と信じれば、」
「わたしは迷っていないということになる」
「まさしく」
僕が言いたいのは、そういうことだったのね。よくわかったわ。それじゃあ、このまま進んでいこうかしら。
「またな」
ええ、さようなら。またどこかで会いましょう。
「ドーナツの穴で」
ドーナツの穴で。
ドーナツ穴の草原を抜け出すと、底冷えの夜がさあと世界を覆いつくした。そこはもう、以前あったようなさわやかさから遠く離れ、空虚な寒さが立ち込めていた。
白い風車は石灰質の巨大な骨に変わり果て、連なるさまはまるで突き出した肋骨だった。草は枯れ、風はびょおびょお鳴った。あたりの薄暗さはわたしに物憂さを張りつけ、火山の河口付近に充満する鼻がねじ曲がるような硫黄のにおいが、ときおり吹きすさぶ。
ゴーストタウンと言わんばかりの荒廃したこの環境は、わたしの気力を根こそぎうばい憂鬱にさせた。
歩くことが億劫になってわたしはその場でぺたんとへたりこんだ。地面の草をくしゃりとにぎってみると、やけにぬめっていて気味の悪さに手を振り払った。
そうして立ち上がり、お尻のところでごしごしと手を拭いた。いったい、なんだってわたしはこんなところにいるのだろう。
ああ、さびしい。ひとりはさびしい。こんなところにわたしをひとりにしないで。
そのときわたしは空を見上げた。夜だから、夜空だ。わたしは夜空という言葉が好きだった。そう、好きなことを考えると、多少はさびしさが紛れた。
見上げた夜空には、幾億の星が瞬いていた。黒曜石の断面のような澄み渡る漆黒が頭の上を塗りつぶし、そのあちこちに硝子の破片のような細かい星々があってぽうぽうと輝いていた。
わたしは我を忘れて、夜空に見惚れた。ああ、美しいなあ、と口をついて出た。
これを見上げながら歩いたらどうだろう、という考えが頭をよぎった。
そうだ、そうすれば恐怖は薄れるはずだ。
そんなふうにして、わたしは地面や行き先のない未来を目指すよりも、星の記憶に抱かれて道なき道を突き進んだ。
途中、わたしは落ちた星のかけらを、ひとつつまんで食べてみた。妹は惑星のからあげを食べた。わたしは星の金平糖を食べた。あまり甘さはなかった。強く噛むと口のなかでぱっきり割れた。わたしは舌の上で星の粒を転がして、しばし味わった末、唾液とともに飲みこんだ。砂糖水のような味だった。
やがてわたしは眼前にみずうみの広がる水辺にたどりついた。みずうみに向かって地面はゆるやかな傾斜になっていて、地面とみずうみの境目には白い花をつけた蓮や菖蒲の群生が見られた。花びらのいくつかは茎から落ちて、湖面にうろこのように浮かんでいた。
わたしのいる水辺の左手に桟橋らしきものが見えた。そちらのほうにするどく耳を澄ますと、なにやら声が聞こえた。その声は複数が混じりあっており、掛け声のようだった。
わたしは好奇心から声のあるところに近づいていった。
そこで見たものは、六体のモアイ像が大縄をしているという奇妙な光景だった。
六体のモアイ像は横一列に並び、弧を描く縄が地面に差し掛かるといっせいにジャンプした。そしてまた縄が頭上を超え、ふたたび地面に差し掛かると引っかからないようにほぼ同時にジャンプした。これが繰り返されていた。縄の両端には見知らぬひと(男性と女性)がいて、彼らが縄を回していた。
モアイ像はよく見ると、それぞれ顔のつくりや造形や大きさが異なっていた。あるものは丸まったかたちをし、あるものは手つかずの切り出した石みたいに目立たない彫りをしていた。あるものはかなり疲労しているらしく、まわりに汗が飛び散っていた。
一言にモアイと言っても十人十色あって、彼らの掛け声も音程や強弱に微妙に差異があったので見ていて飽きることはなかった。内実、このあとどうなるのか気になったというのが本心だった。
縄は一定のペースで回されるけれど、ジャンプをする側は次第に体力を奪われていく。そのうち、前から四番目のモアイがほかのものよりもジャンプのタイミングがやや遅れはじめた。顔には苦痛の表情がうかがえた。
いち、に、いち、に。俺、もうダメかもしれない。
がんばっれ、がんばっれ。飛ぶんだ。
ソレ、ソレ。
わたしは桟橋の先に立ち、水面を見下ろしながら後方からのモアイたちの掛け声をそぞろに聞いていた。どうして彼らは飛んでいるのだろう、というふとした疑問が浮かんだ。けれど彼らの必死な形相を見ていると、とても気やすく話しかけていい雰囲気ではなかった。
縄を回す側は無表情の棒立ちで、話しかけたとしても要領のいい返答は得られそうになかった。なのでわたしはただぼんやりとモアイたちの飛ぶ姿を見てみたり、水辺をひたひたと歩くことで時間をつぶした。
そろそろ飽きてきたな、と思ったときだった。
がっ、となにかがつまずく音がした。
わたしは反射的に音のするほうを向いた。そこには一体のモアイ像が縄に引っかかって、地面に突っ伏している様子があった。ペースの落ちていた四番目のモアイだった。
(あ、失敗したんだ)とわたしは察した。
これをきっかけに縄は回るのをやめ、のこりのモアイたちは立ちどころに横になったモアイをかこんだ。そのさまはストーン・ヘンジのようだった。
おい、しっかりしろ。お前はよくやったよ、泣かなくていいじゃないか。
うう、ちょっと油断しちまったんだよぉ。
ああ、俺がお前を支えていれば、力になれなくて。
感傷的なシーンがあったあとで倒れていたモアイ像に異変があった。そのモアイ像は煌々と輝きはじめた。
わたしにはなにがなんだかわからない。
「お別れのときです。みなさま、お静かに」
縄を回していたひとり——男性がおごそかにそう言った。……お別れ?
みんな、さようなら。
倒れていたモアイ像はのろのろと起き上がり、わたしのほう、正確には水辺の桟橋に近づいてきた。
だけどどうやら彼はわたしに用はないと見えた。なにが起こるか気になったので、わたしは桟橋を離れ、大縄の一団よりすこし距離を置いたところから彼を見守った。
白く輝くモアイ像は桟橋の先端に立った。そしてどかんと爆発した。
爆発したのだ。あまりに一瞬のことで判然としないけれど、一点に集約した白い光は一気に膨張し、車のパンクしたような音が聞こえたかと思うと、像はばらばらに砕け散った。その衝撃で小石ほどになった無数のかけらがばたばたと桟橋に打ちつけた。かけらの一部はわたしたちの足元に及んだ。かけらどうしがかちかち当たる音がそこいらにむなしく響いた。
爆発したあとにはなにも残っていなかった。
このとき、失敗したモアイは爆発してなくなってしまうことを理解した。
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