第9話
わたしたちは湯船を出、妹が浴槽の栓を引き抜いた。
ずごごご、という音を立てて、お湯が排水口に吸い込まれていく。水位がどんどん下がり最終的に浴槽のお湯がなくなったとき、底にはビワの種がみっつころころと転がっていた。わたしはそれを拾ってバスタオルで包み込むように拭いた。
「それどうするん」
明日植えようかなって。鉢植えと土を買って、育てるの。だめかな。
「好きにしたらいいよ。けど、わたしはお世話しないからね」
うん。じゃあ、植えちゃおっかな。わたしはにっこりほほえんだ。
新しい下着に履き替えて、ピンクのパジャマを着て、わたしたちはしばらく髪をドライヤーで乾かすなどして、時間をつぶした。
先に髪を乾かし終わったわたしは冷蔵庫から巨峰ゼリーを取り出した。妹もわたしもほしいと言うのでもうひとつ外に出した。
ふたをぺりぺりとはがして、わたしはゼリーをいただいた。最初から皮をむかれた、ごろっとした巨峰がふたつ入っていた。ひとつめはゼリーをニ三口食べたところで、ふたつめはゼリーがあらかたなくなったところで食べた。そのあいだ妹のドライヤーの強風の音がゴオーっとうなっていた。
部屋中にシャンプーのかおりが充満していた。とりわけ、妹のまだ乾かしきっていない髪からにおいは放たれ、ドライヤーの強風がわたしの方向へと導いていた。彼女はゆったりとしたパジャマを着て、女座りをしてドライヤーをかけている。彼女の後ろ姿を見ていると、なんとなくどきまぎした。さっき抱きしめられていたこともあるし、お風呂上がり特有の高揚した気分が原因なんだわ、と言い聞かせる。
——妹のからだに触れたいと思うのは、はしたない気持ちだろうか。安心を求めて、彼女に触れるのはおかしいことだろうか。女はさびしい生き物だ。わたしは不安をひとよりちょびっとだけ強く感じてしまうだけなのだ。ただでさえ夜はさびしくなる。そのうえ、今のわたしのように名状しがたい喪失感が胸のなかに広がっていると、このさびしさはひとしおだった。さびしさは孤独に変貌し、他者を求めるように、本能を先方に仕向ける。わたしは気持ちのおもむくままに、ただ彼女に近づいた。
そのとき、玄関のベルが鳴った。
ひどく、どきっとした。心臓が跳ねた。
妹はドライヤーの音でベルが鳴ったことに気づいていないらしかった。やむなくわたしは立ち上がって、心臓を両手でおさえながら、しきり戸の向こうの玄関を開けた。
そこに立っていたのは長身の男性だった。しかし彼は顔を面妖なマスクで覆っていたので、ほんとうに男性かどうかは明らかではなかった。なんとなく男性だと察しただけだった。彼はこうもりが翼を閉じたときみたく、ほっそりとした体躯だった。あるいは真っ黒いコートを身につけているように見えた。とにもかくにも、わたしの彼にたいする第一印象は『近づいてはならぬたぐいの怖さ』だった。
急激に口のなかが乾いていくのがわかった。薄いパジャマを通り抜けていく夜風が興奮する心臓を力づくで鎮圧しようとしていた。このとき、わたしの内側は取り乱すよりも冷静さが打ち克った。
「あなた、誰ですか」
鈍色に輝くナイフの上を滑るような、自分の低い声が宙を漂った。
「君の顔は知らないな。ここに住んでいるのかい?」
男性はそう言って、部屋に勝手に上がり込もうとした。これは止めなければならない、わたしの黄色信号が点滅する。
きわめて冷静に、わたしは慎重に言葉を選ぶ。張り詰めた神経は爪楊枝の先端より尖っていた。
「ええ、そうですが。あの、なんの断りもなしに部屋に上がるのってあまりにぶしつけじゃないですか? しかもこんな夜遅くに来るのも考えられないです。礼儀ってものがあるでしょう」
「さあ、俺には関係ないな」
男性はわたしの言うことなど完全に無視を決めて、土足で部屋に上がってきた。わたしは全身で彼を押し出そうとした。が、鉄板のような彼の肉体はひよわなわたしの力ではびくともしなかった。さらに彼はわたしの襟をつかんで、許容を超越したような凶暴的な膂力で、玄関のほうへ投げ飛ばした。その拍子にわたしは玄関に頭をしたたか打ち、その痛みでうずくまった。涙が出るほど痛かった。
彼はわたしの容態はお構いなしに、しきり戸に手をかけた。あの戸の向こうには、妹がいた。いったい彼はなにをするつもりなのだろう。嫌な予感がした。
がらり。しきり戸の開く音。
やだ、妹に手を出さないで。わたしは這い上がるように、そちらを見た。
「あ、宇宙人さん」と、妹の陽気な声が聞こえた。
「え?」
「どうしてまた来たん。忘れもの?」
「宇宙船で飛び立つ前になって、君のことが思い出されてね。また会いたくなったんだ」
「あはは。そんなこと言われたら恥ずかしいやん」
妹は、そのこうもりのような男性を見上げるかたちで、やや頬を紅潮させていた。男性のほうはわからないで、ふたりはまるでカップルのようだった。
というか話の流れからすると、彼は妹が出会ったとされる宇宙人と見て間違いないようだった。
「あれ、お姉ちゃん。なんでそんなところで座ってんの」わたしの存在に気づいたらしい妹が、からだをずらしてわたしを見下ろす。
その宇宙人さんに足蹴にされたところ。まったく、ぜんぜん常識が通じないから、いらいらしちゃったよ。
「アシゲ? ああ、だって仕方ないでしょ。宇宙人だから、地球の文化や作法なんて知るはずないじゃない」
妹はそう言ってけたけたと笑った。家にしのびこんだネズミが足を拭いて、丁寧にあいさつしたら逆に驚くよ、などと茶化した。
わたしの知っている蟻さんや猫さんは、どちらも自分勝手だったけど、話は通じるひとたちだったよ、と彼女に言ってやりたかったが、しらけるだけだと思ったからやめた。
「このひと、わたしのお姉さんなんよ」妹は宇宙人さんにわたしのことを紹介していた。
「へえ。ふたりはあまり似ていないんだな。血のつながったものたちは似ると聞いていたんだが」
宇宙人さんは抑揚のない調子で言った。
「だってわたしたち異母姉妹だからねえ。似てないのは当然っちゃ、当然かな」
「イボシマイ」
「宇宙人さんたちが、どのようにして生まれるのか知らないけれど、まあ、どこの家族関係も多かれ少なかれちょっとしたひずみはあるもんだよ」
妹ははぐらかすように言った。わたしとしても、あまり深く踏み込まれたくない領域ではあった。わたしはなんとなく目を伏せた。
さて、その後のてんまつ。宇宙人さんは妹に会うと、それで満足したのか、すんなり引き下がって帰ってしまった。まるであっというまに通り過ぎていく夏の夕立みたいに、わたしたちの部屋にいた時間はわずか五分ばかしだった。
「また遊びに来てね」と妹は言った。
宇宙人さんはこくりとうなずいて、それきりこちらを振り返ることはなかった。ついぞ、わたしは彼とまともなやりとりすらできなかった。わたしはただ、やるせない思いをどこにもぶつけられないまま、彼がいなくなるのを黙って見ているだけだった。
なんとなくわかっていることは、わたしと妹のふたりの空間を誰にも邪魔されたくないという気持ちを、わたしが強く抱いていることだった。そうしてどこかに妹をわたしの独り占めにしたい我意があって、まぜこぜになった自分の感情とつねに衝突しあっていた。
紅茶に入れたお砂糖がすぐには溶けず、ながながと白い粒子でありつづけるみたいに、自分の気持ちとはなかなか思いどおりにはいかないものだ。
まして、本来花ざかりの年頃である妹に男のひとりもいないことは、わたしにとって僥倖であると同時に、はたしてほんとうにそうなのだろうか、という疑いの種にもなりえた。そうして頭の片隅においては、彼女は男をつくらないのでなく、別の誰か、男以外のなんらか、それはたとえばわたしかもしれない、もしかしたら、わたし。わたしを欲しているかもしれない、とこういうふうに期待をしていたりする。——馬鹿ね、女どうしなのよ。
でも、抱きあったじゃないか。さっきだって、お風呂のなかで。
それは、わたしがしょぼくれていたからじゃないの。
誰だってさびしがっていたら、とりあえず構うわよ。抱きしめることなんて、ふつうだわ。
けどねあなた、わたし知っているのよ。あの子はわたしを抱きしめているとき、感じてたわ。わたしの背中をつつみこむふりをして、指でなぞってた。耳元でかすかに息の漏れる音が聞こえていた。それから対面で抱きあっていたからわかったことだけど、あの子の乳首立ってたのよ。ゴムみたいに硬かったのよ。それから、蒸した白身魚のようにぷりぷりしたあの子の足は、わたしの腰に回されていた。これでもふつうだって言える?
ねえ。見つめ合ったら、キスとかするでしょう。そのときに沸き上がってくる、駆け引きのような興奮があるじゃない。わたしたちのあいだにはそれがたしかにあったのよ。
ああ、そう。じゃああなたはあの子とエッチをしたいわけだ。
どうして?
好きなんでしょ。じゃあエッチしたらいいのよ。そうしたらすべてまるくおさまるわ。
そういうわけにはいかないでしょう。あの子にそういう気がなかったとしたら、わたしの気持ちのあれこれはことどとく排水口に流れてしまうわ。そもそもいやらしいことをすることが正解だなんて、わたしは思わないわ。
けれどあの子を独り占めにしたいんでしょう? そういう強い欲求があるくせに、期待が空ぶってしまうことを怖れているのね。もしくはあの子から求めてくれることをひそやかに待っているのかしら。それまでは能面をかぶりつづけて、いざやってきたら本性をさらすと。したたかな方策じゃない。今までの恋愛では、好きだと脇目もふらずつっこんでいくスタイルだったのにどういう風の吹き回し? おとなになったつもり?
違うの。妹はいろいろとわけが異なるのよ。
なにが違うのよ。同じでしょ。そうやってうじうじしているあいだにも、あの子は別の男、もしかしたら女かもしれない、すてきな相手を見つける可能性はじゅうぶんにあるのよ。そのときあなたは、仲睦まじく手をつないで歩く姿を見かけて一時的に絶望するけども、『しょせん女の子どうし付き合うなんてできっこないんだ』と、自分がなにもしなかったことを棚に上げて、自分はなにも悪くなかったと言いわけをすることで、やがてそのことを美談として昇華するんだわ。わたしにはそういう未来がありありと目に浮かぶわ。
「わたしは……■■■■」
——ごめんなさい。ちょっと言いすぎた。別に責めたつもりはないの。あなたがほんとうにすてきな未来を望むのであれば、行動が必要だと言いたかっただけ。それ以外はすべて蛇足よね、反省するわ。
いえ、いいんです。わたしも未熟でした。
ならここのトンネルをくぐって行きなさい、もとの場所に戻れるようにしてあげるから。
「では、また」
いつか通ったようなまっくらなトンネルは右も左もわからなかったけれど、自然と迷うことはなかった。
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