第7話
スージーさんがわたしに背を向けてきのこの家に鍵をかけて、彼女は白のアウディの左の座席に座り、わたしは助手席のある右側のドアを開けた。するとあの栗毛の猫さんが助手席にひょいと飛び乗った。あ、猫さんもついてくるんですか。
「なかなか寝つけないんで、気晴らしにドライブに付き合ってやろうと思ってな」
白毛の猫ちゃんのことは放っておいていいの? さびしがるよ、きっと。
「余計なお世話だよ。俺がいなくてさびしけりゃ、あいつだって勝手についてくるだろう」
まあ、それはそうかもしれないけど、ふたりとも仲がよさそうだったから。
「ふつうだよ」
ふつうかあ。ふつうってなんなんだろう。恋人あるいは夫婦の付き合いでふつうってなんなんだろう。好きすぎない、嫌いでもない、たまに求め合う、とかそういうもの? それらをひとくくりにふつうと呼んでいいのかな。それとも、ふつうというのは他人を突き放してしまう言葉なのだろうか。
いろいろ含んでいるけれど、つぶさに説明するのが七面倒くさいから、ふつうと一言でまとめているのか。
けれど、わたしからするとそういうことをおざなりにされてしまうと、なんだかはぐらかされた感じがして、かえって深く掘り下げたくなるのです。むしろあからさまに見せつけてくれたり、のろけてくれるほうがわたしとしては胸がすっとしていいのだが。けど、ひとによりけり?
猫さんは助手席から動こうとしなかったので、なくなくわたしは後部座席に座ることにした。
「出発するわね」
スージーさんの一言で車はいったん旋回しながらバックして、それからわたしがもと来た砂利道に進みはじめた。この車はマニュアル車らしく、スージーさんは手元のギアをかくんかくんと動かしていた。わたしはマニュアル車のことはあまり詳しくないけれど、男性が乗っているというイメージがあった。
昔の彼氏は赤色のマニュアル車(車種はよくわからなかった)を乗り回していて、わたしはその助手席に座っていたけれど、たいして魅力は感じなかった。わたし自身あまり車や機械にたいして通暁していないことと、まどろっこしい操作が好きじゃないことが原因だった。
彼氏はラジオを聴くよりも持ち寄ったCDを聴くことが多かった。有名ではないバンドだったが、車内で何度も聴かされて自然に覚えさせられた思い出がある。また彼氏はいわゆる『飛ばし屋』だった。無事故だから大丈夫、というのがあいつの口癖であったけど、危なっかしくてついぞゆったりリラックスすることはなかった。
今、スージーさんの車はでこぼこした砂利道を走っていて車体が小刻みに揺れていた。しかし、安心感のある走りだった。同じマニュアル車を扱っていて、どちらかと言えば危険な道をそこそこの速度で走っているのに、なぜこうも違うのだろう。雰囲気が異なるからかしら。スージーさんのかもしだす雰囲気は言うなればジャズバーに流れるような空気だった。知らなくても、すぐに溶け込んで同化できる感じの、まったいらなべたなぎの海のごとき安らかさがあった。
それは包容力だった。おそらく、これがもっとも近い答えなのだ。
スージーさんは運転しながらも、わたしに気を回してくれる余裕があった。あのちょっかいばかりする栗毛の猫さんも車内においてはシートベルトをきちんとしめていておとなしくしていた。
そうだ、彼女はこのように他人の信頼を勝ち得ているのだ。それはとてもすてきだった。彼女を信じさえすれば、何事もどうにかなりそうな気になる。気にさせてしまう。それはもう、高次の精神の持ち主であることを示していた。
その瞬間、わたしは奇妙な感覚におそわれた。
前に同じような体験をしたような、いわゆるデジャブと呼ばれるもの。しかし場面はまるで違ったし、デジャブと呼ぶにはいささか乖離しているようだけど、この安心感をわたしは過去に、しかもあまり遠くない過去に味わったことがある。けれども、その正体はわからないでいた。わたしは誰かと話をしていて、思えらくそのひとから感じる安心感なのだけど、はっきりと思い出すことができない。
「どうかしたの」
スージーさんが声をかけてくれた。彼女はミラー越しのわたしを見ているらしかった。今、白いアウディは△△バイパスを走っていた。わたしの住んでいるところからニ県となりだった。
気づかないうちに砂利道を通り抜けて、なぜだかバイパスに出ていた。前にも後ろにも左右にも車があった。わたしたちは渋滞のどまんなかにいた。
「いや、考えごとをすこしだけ」
奇妙な感覚はそこでぴったり閉じてしまった。
「ふああ、じゅーたいはいつまで続くんだ? 飽き飽きしちまうよ」猫さんが言った。
「もうちょこっとでバイパス降りるから、それまでのしんぼうよ。そんなことばかり言っていると、短気な猫って思われるわ」
猫さんはふんと鼻を鳴らして、それ以上スージーさんになにも口出ししなかった。そのかわりに、わたしに向かって声をかけた。
「おい、お前。水と泥水の違いってなんだかわかるか」
はい?
「だから、水と泥水の違いだよ」
それはえっと、水に泥の粒子なんかが入ったらそれは泥水で、それ以外は水になるのではないんですか?
「だったら、こっぷいっぱいの水に、泥の粒子が一粒入っていて、見た目はどこからどう見ても水だとしても、それは泥水になるのか。俺が水だと思って飲んだものは、実は泥水でしたと言われたらそうとうしょっくを受けるぜ?」
まあ、それはそうかもしれませんね。いずれも観測者によると思いますけど。
「そう、まさしくそうなんだ。ある場所、じゃあ駅の改札でいいだろう。そこにふたりの男女がいて、ふたりが微妙な距離にあるとき、あるやつはふたりは知り合いだと思うし、あるやつは赤の他人だと思う。物事の見方は観測者次第なんだ」
つまり、猫さんの意図することって?
「俺とはにーの関係さ、俺はほんとうにふつうの関係だって思っている。そんで、お前さんは仲よしだと思っている。両者の捉えかたは違えど、それのどちらが正しいと誰が証明できるんだ。俺が言いたいのはだな、だから、その、そういうことさ」
へえ? とわたしは首をかしげてしまった。まとまらないなあ、猫さん。
スージーさんはくすくすと笑っていた。
「なんだよスージー、なにがおかしいんだ」
「あなたの言うことによれば、わたしはなにも言わないようにすることのほうが得策だと思うから、心に留めておくことにするわ」
「茶化すなよぉ」
猫さんはほんとうにそれきりなにも言わなくなった。
と、車内が静かになるや渋滞がみるみる空いていった。車の流れがスムーズになったのだ。スージーさんは追い越し車線に入るとギアを上げてまたたく間に車を追い越していった。ふつうのバイパスだと言うのに、速度メーターは140キロをゆうに超えていた。わたしはやや顔が引きつっていた。フロントのミラーにうつる自分を見てそのことがわかった。
スージーさん、飛ばしすぎではないでしょうか(わたしの彼氏もさすがにここまではしなかった)。
「そんなことないわ。ほかの車が遅いだけよ」
わたしはがっくりとうなだれて、しかたなしに窓の外を見ることにした。車はだいぶ都会に近づいており、ちらほら見慣れた景色もあらわれるようになってきた。
ふと、高いビルの屋上にひとつの映画の広告板があるのがわたしの目にとまった。
それは一瞬のうちに前から後ろに消えて行ったけれど、わたしは瞬間的にその映像を記憶した。
その広告板はだいたい高さ二〇メートル、幅十五メートルの、すぐ目につく、その土地のランドマークにしてもおおかたわかるほどの大きいもので、ひとりの有名な女優がまんなかにうつっていた。彼女は黒豹のようなリトル・ブラック・ドレスを身にまとっており、片手には尺八のような細長いキセルが添えられていた。手前には円卓があって、そこにはきれいに磨かれた装飾品が並べられていた。猫のように開かれたふたつのひとみは、優美さをたたえ、それと同時に見るものにたいして、なにかを期待するようなまなざしだった。
彼女は最高に美しかった。なぜなら彼女はオードリー・ヘップバーンだったから。
火星と同じくらいの大きさの広告板にうつっていたポスターには、『ティファニーで朝食を』と書かれていた。
主人公は奔放な性格のホリー・ゴライトリーで、映画でその役を演じたのが、オードリー・ヘップバーンそのひとだった。
わたしは何度見ても、このひとをきれいだと思う。ティファニーのそれは格別だと言わざるをえない。彼女のトップでまとめた巻き髪を見ると、どきどきしてしまう。どこから見ても、わたしは満足するだろう。完成された美しさというのは、言葉さえ失ってしまうものだ。
わたしが一瞬で過ぎ去ったその映像を、フィルムを巻き返すように何度も何度も繰り返し思い出してうっとりしているうちに、車はどこぞの駅のロータリーについてしまっていた。目立つ時計台の時刻を確認すると、針はすでに午後九時を過ぎていた。
外はまっくらで、駅の構内だけがマグネシウムを燃やしたときに放たれる光のようにまばゆかった。
「このあたりでいいかしら」スージーさんが言った。
わざわざ送ってもらってありがとうございます。わたしは荷物を持って車から降りた。スージーさんはちゃんと降りたけれど、猫さんは車内に残った。というか猫さんは疲れてぐっすり眠っておられた。わたしたちは彼を起こさず、ふたりだけで別れのあいさつをした。
わたしたちは両手でたがいの手をにぎりしめ、あたたかな熱を感じあった。それからハグをして、わたしより十センチ以上背の高い彼女はわたしのひたいにアゲハ蝶が蜜を吸うようなささやかなキスをしてくれた。
わたしはとっさのできごとにあたふたしてしまい、自分もなにかしなきゃとしどもどしている隙に、スージーさんはわたしから一歩分離れてしまった。その距離はもう詰めることができなかった。
わたしはすごくさびしくなった。しょんぼり。
「また明日迎えに行くから、そんなかなしい顔しないのよ」
スージーさんはそのように励ましてくれた。
「ああ、それと。ずっと言わなかったけれど、あなたのその髪型とても似合っているわよ」
わたしはその言葉にときめいた。ちょっとだけ愛されたいと思った。
けれどもうすべては遅かった。スージーさんはやみのなかに溶け込んで、白いアウディのバックライトの輝きだけが、どんどん遠ざかっていった。
さよなら、スージーさん。あと猫さん。おやすみなさい。
わたしは自分の存在をたしかめるように、自分がここにいることを証明するみたいに、一度髪をさわってから、駅の構内に吸い込まれていくひとびとの流れに飲み込まれていった。
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