第6話
それにしても、猫の生活はのんびりしていて自分本位でいいなあ。人間はこうはうまく行かないんだぞ、とか心のなかでつぶやいてみた。
ふたたびスージーさんとふたりきりになり、わたしはエクレアはもうたくさんだったのでコーヒーをお願いした。
スージーさんがコーヒーを作っているあいだ、わたしは部屋をぐるりと見回していた。やはり気になったのは壁一面の世界地図だった。
目をこらしてみると、各所にチェスの駒のような画鋲にさされていた。日本、アメリカ、カナダ、メキシコ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、エジプト、南アフリカ、インド、中国、モンゴル、ロシア、オーストラリア……。ふうん、諸外国はだいたい網羅されているんだ。
しかし、この画鋲が意味するのはなんなのだろう。
「それがなにか気になるんでしょ」
わたしが熱心に世界地図を眺めていたからか、スージーさんが声をかけてくれた。「あなた、知りたい?」
まあ、教えてもらえるのであれば、ぜひ。
「地球にはいろいろな気候があるわよね」
晴れ、雨、曇り、吹雪、砂あらし、霧、台風。
「それから『程度』があるわね。ひとつ雨だけ取ってみても、こさめがあったり、どしゃぶりがあったり、赤子の大泣きのようにずっとやまない雨もあるし、無感情なひとのようにまったく雨が降らないこともある」
雨をそのように表現するのは面白いなあ。すてきな感性を持っているひとというのは、それだけで素晴らしいとわたしは思う。
スージーさんはなめらかな口の動きで天気のことについてあれこれ教えてくれた。国際的に使用される天気の分類はおよそ百種類あって、わたしたちが日常で見かける気象情報だとだいたい十五種類しか用いていないということ。それから今後の天気予報など。
「実はわたしは、天気を予測する能力があるの。それは別に風の流れとか湿度とか、アメダスとかを観測することで方向づけるんじゃなくて、純粋な能力なの。わたしの頭のなかには世界の地図と雲の流れがあって、雨は視覚化され、量は数値化されているの。そういう能力なのね」
これが先ほど触れた能力のこと。
ということは、予報は百パーセントの確率で当たるということですね。
「そのとおり」
スージーさんはうなずいた。彼女はコーヒーを二杯入れて、そのうちの一杯をわたしの手元に置き、もうひとつは自分で持ったまま、壁の地図にゆったりと近づいた。それから東南アジア圏を指でなぞった。まるで古代の文字を解読するみたいに真剣な様子だった。「二週間後、インドネシア全域にものすごい大雨がやってくるわ」
え。
「きっと島全体がパニックになるでしょうね。川は氾濫し、作物は台無しになって地盤が緩んでしまうかもしれない。それぐらい途方もないはげしい雨が、三日三晩続くわ」
それってたいへんじゃないですか。そのことを島のひとたちは知っているんですか。
「二週間後の天気をピンポイントで当てられるひとなんて、世界中どこを探してもいないわ——わたしをのぞいて」
スージーさんは電話器やメモ帳の置いてあるたんすの上から三番目左側の抽斗を開けて、なにかを取り出した。それは地図に刺さっているチェスの駒のような画鋲だった。そして彼女はおもむろにその画鋲を話にあったインドネシアの首都ジャカルタにぐっと押し刺した。
「つい数時間前、いずれ来たるこの前代未聞の豪雨についてインドネシア政府の大物と話をしてきたわ。『萬事ニ備エヨ』とね」
スージーさんはふふっと笑った。またコーヒーをくっと飲み干した。
「わたしの仕事のひとつは、天候を予測する能力をいかして、今回みたいな災害の被害をできるだけ抑えるために事前に勧告をするというものね」
はあ、なるほど。
「こう言ってもなかなか伝わりづらいかもしれないわねえ」
あの、ひとつお聞きしたいんですけど。スージーさんの能力で、天候を変えることってできないんですか? そうすれば、災害そのものを打ち消すことができるし被害もほとんどゼロの食い止めることだって、
「わたしの能力ではとくに天候をあやつることまではできないの、ざんねんながら」
彼女はわたしの言葉をさえぎって、どんなに手を尽くしても助からないと悟ってしまったお医者さんのような顔をして首を振った。
人間のどんな力も、自然の前にはつねにちっぽけなものねえ、スージーさんはしみじみと語った。
「もしも自分の力に先があってそれを開花させることができたら、あるいはそのような可能性はなきにしもあらずだけど、おそらくここいらが限界なのよ」
壁の地図の画鋲はスージーさんがたずさわってきたお仕事の形跡を示していた。しかしすべての国に画鋲があるわけじゃなかった。
「わたしの能力を信じてくれない国は大勢あるわ。この能力が予測である以上、わたしたちの行う話し合いのあいだには、不確定な要素をかならずはらんでしまう。わたしが『気をつけて』と言っても、かんたんに受け流されることはあるし、わたしを変な宗教団体のなにかとみなして、お騒がせ屋くらいに無視をされることも度々ある」
「そんな」
「たとえばアフリカとか、途上国。自国のことでのっぴきならなくなっていると、ひとの言うことは聞き入れてくれない。どうしたら自国を強い国にできるか、利益ばかりを追求してしまうのだと、いろいろ見て感じたわ。もちろん、わたしに説得する力が十分でないこともたしかだけども、そうすると彼らはいったいなにを信じて生きているのだろう、とふと思うことがあるのよね。そんなこと、わたしにはわからないし、もしかしたら彼らもわかってなんかいないのかも。なにかに一心に向かう姿はすてき、けれどもときどき立ち止まらないと、自分がどこにいるんだかわからなくなって、二度と戻れなくなるわ」
どこにいるか、わからなくなる?
その言葉がみょうにわたしの内側に引っかかった。だけどこれを突き詰めようとすると、よろしくない気がした。そう、それこそ、どこにいるかわからないところにまぎれこんでしまうようだった。
そう思うと、ぞっとした。大丈夫だろうか、わたしはここにいるだろうか。
「心配しなくても、あなたはここにいるわ。あなたはいなくなったりしない」
ほんとに? 信じていいのですか?
「信じるとは誰かの助手席に飛び乗ること。たとえオンボロ車であっても」
スージーさんと談笑しているあいだ、あの栗毛の猫さんがときおり、わたしたちを見下ろすことがあった。そのとき黒毛の猫さんのとなりには雪化粧のような白さを帯びた白毛の猫さんがいた。たがいは一定の感覚で二階を歩き、ふいに猫タワーに飛び乗り、降りてきて、わたしたちの前をするりと横切って、一回わたしのほうを眺めて、またどこかへ行った。
猫さんたちには決まった行動のパターンはなくて即興曲のように一回性があった。彼らを見るのはなんとなく心地よかった。わたしとスージーさんはたがいに目を見ながら話すけれど、視界のすみに猫さんがいたら、好奇心からとっ捕まえて喉をなでたり目やにを取ってあげたりした。
栗毛の猫さんはにゃあと鳴くこともあれば、わたしたちの使う言語でえさをねだることもあった。一方の白毛の猫さんはおしとやかな感じで、気がたかぶることはなかった。しっぽはつねに垂れていて、栗毛の猫さんのあとをついていくときだけ、かすかに先端がちょこちょこと揺れた。その光景はほのぼのとしていて、彼らを取り巻く空気は穏やかだった。
それはほんとうにすてきなのだった。
スージーさんとの話に夢中になって、時間を忘れてしまっていた。時計を見ると、きのこの家に到着してから、なんと三時間以上も経過していた。窓の外からカラスの鳴くのが聞こえた。猫さんたちは二階のクッションにからだをうずめて寝ていた。
「そろそろわたし、帰らないと」
「すっかり日が暮れてしまったわね。ああ、けれどとっても楽しかったわ」
「わたしもすごく楽しかったです」
「ねえ、あなたのこと気に入ったんだけど、ひとつお願いを聞いてくれないかしら?」
「お願いですか?」それよりもわたしのことを気に入ってくれたというのが、なんだか気恥ずかしい感じだった。どちらかと言えば、わたしがスージーさんの魅力にうっとりしていた。恋人で傘のなかにいるような気分だった。そんなすてきなひとからのお願いとはなんだろうか。
スージーさんは言った。
「わたし、むっつ年の離れた姉がいるの。で、彼女絵描きをしているんだけど、どうやら最近スランプだと聞いているわ。わたしと姉はとても似ているから、きっと彼女もあなたのこと気に入ると思うのね。そこでお願いなんだけど、ぜひ彼女とお話しをしてあげてくれないかしら」
お姉さん、絵描きをされているんですね。
「ちょっと変わった性格をしているけど、絵のできは申し分ないのよ。あるひとは彼女の絵を見て、涙を流したと言うわ。わたしも彼女の絵を見せてもらうたび感動するわ。あなたも一度は見るべきだと思うわ」
いいですね。見てみたいです。
「あなた、明日っておひまだったりするかしら」
ええ、ひまです。わたしは即答した。猫が起き上がるくらい。
「明日の午前中、あなたを迎えに行ってもいい? 彼女のところに連れていってあげる」
ありがとうございます。それじゃ明日、よろしくお願いします。
わたしたちは、そのような約束を交わして、お別れすることになった。ところが、わたしは肝心の帰りかたを知らなかった。もと来た道をたどるのはいいが、それがどこにつながっているか、わたしはわからない。なぜならわたしは闇のなかからいきなり森の小径に出たのだ。戻ったところに闇がほんとにあるだろうか。
そもそも、闇ってなに?
このことをスージーさんに伝えると、
「最初にも行ったけれど、ここはちょっと変わった場所なのよ。ふつうは立ち入ることができない、結界に守られた特別な空間だから、たしかにあなたが帰ることができないのは当然と言えるわ」
だからこそ、あなたがどうやってここに迷い込んでしまったのか、いっそうミステリではあるけれど、とスージーさんは付け加えた。
「わたしの車に乗って帰りましょうか」
そういうわけで、わたしたちはきのこの家をあとにした。
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