綴られぬもの――7

 オルゼは予想外の邪魔者に舌打ちすると手先でナイフをくるりと回し、ルシカに切り掛かった。再び悲鳴が上がり、近くにいた者たちが一斉に逃げ出す。落ちたワイングラスがあちこちで割れ、真紅が床に広がった。

「ルシカ!」

 ルシカの視界に真っ白なものが飛び込んで来て、そのままルシカを押し倒した。

「わっ」

 怒鳴り声と暴れる音がした後、辺りは静かになった。自分の頭から被さっているのがテーブルクロスだと気付いた時、誰かが優しく布をめくった。

「……テオ」

「お手柄だな」

 テオの後ろでは衛兵がオルゼを拘束している。ざわめく周囲をぐるりと見渡したルシカは眉を下げて申し述べた。

「お腹空いちゃった」




 テオを探していたダンは広間を出て行くヘンドリクセンを見つけた。別の部屋へ移動するヘンドリクセンの後から部屋に滑り込んだのは誰あろうテオだった。

「テオ……?」

 追い付いたところで扉が閉まり、入ろうとすると近くにいた衛兵に止められた。

「さっきあいつも入っただろ!」

「馬鹿だねぇ。そんなだからいつまで経ってもテオに上を行かれるのさ」

 小馬鹿にした声に振り返るとロゼが隣に立っていた。髪をまとめ直し、今朝とは違う地味なストールを肩から巻き付けている。ダンは思いきり眉を寄せた。

「今までどこにいたんだ」

「仕事さ。テオに頼まれてね」

 ロゼはダンを誘って中庭に出ると道から逸れて窓際の茂みに入った。

「ルシカは給仕に化けて王の近くをうろつくように。気付かれずにね。で、あたしはこれを」

 懐からくたびれた便箋を覗かせる。

「それは?」

「奴らから抜き取ったのさ。人混みの中じゃ手癖はあたしの方が悪いみたいだ」

 ニヤッとされ、ダンはロゼといる時は持ち物に気を付けようと内心で誓った。

「中を見る時間は無かったから記舎に帰ってのお楽しみさ。今はそれより興味深いものがあるようだしね」

 ロゼが茂みからヒョイと顔を出す。そこはさっきテオが入った部屋の反対側の窓だった。古い造りで、人が入る事は出来ず外の空気を入れる為にほんの数センチのみ開く仕組みになっている。姿は見えないが耳を澄ませると話し声が聞こえてきた。


「自らの灯火を消す事は逃げる事だ」

 風に乗ってダンの耳に届いたテオの声は怒っていた。言い方こそ落ち着いているものの、言葉にはささくれのような棘が立っている。テオのそんな声を聞くのは初めてだった。

「貴方の言葉です」

 呼吸が静寂に混じり合った。どっちのものだったかは分からない。

「……あの時、名前を呼んでくれたね」

 馬車で襲われていた時、昔強要した愛称はバネのようにヘンドリクセンを動かした。

 噛み締めるように言われ、テオは俯いて頭を掻いた。

「怪我をしたのか!?」

 ヘンドリクセンが珍しく強い語気になった事に驚き、右手に巻かれた包帯を見ての言葉だと気付いたテオは間を空けて「あ」と漏らした。

「――いでくれ」

 項垂れたヘンドリクセンが両手でテオの肩を掴み、小さく呟いた。

「頼むから、無茶だけはしないでくれ」

 テオは目を見開いた。

「……それなら約束して下さい。自ら刃を受け入れようとしない、と」

「私は……」

 今、テオとヘンドリクセンの間には不思議な空気が流れていた。罪悪感とも安堵ともつかぬそれは形容し難く、胸底にあるわかだまりを音もなく溶かしていくようだった。


〈自らの灯火を消す事は逃げるという事になる〉


 フレイヤが死んだ事を伝えた手紙に返って来たのはその一言だけだった。

「……ああ」

 ヘンドリクセンはあの日と同じ部屋でそっと目を閉じた。




      *




「伯爵は私たちを心配して追って来てくれてたってこと?」

 ルシカの真っ直ぐな感想がせっかく整えた体裁を一瞬にして打ち砕く。ダンは出かかった溜息を何とか飲み込んだ。

 式の中止を聞いてフロイドへ向かっていたところ、フロイド記舎からテオたちが消えた事を知りトリスタンへやって来たのだと紳士は説明した。

「今回の執筆者が誰か知っていたから直接話を聞きに来たんだろう」

 ふーん、と話を聞くルシカとコルル、ソファでいびきをかいているロゼ。レインも途中から来て横に座っている。トリスタン記舎はやはりダンたち以外の利用者はいない。

 昨夜遅くにセントラル記舎へ泊まったダンたちは今日の昼にトリスタン記舎へ戻って来た。テオの書いた本物の国録は無事見つかり、調録式は来年に延期されることが決まった。ロゼがラドルファスとガラードから抜き取った手紙からは彼らの正体が死の商人であり、何者かの協力を得て事を起こした事が分かった。これを証拠に警察は調査に乗り出すはずだ。

 テオが言うにはハウイエの排他主義は古くから民の間に浸透しており、一度輪を外れた者は記録を抹消され二度と戻って来れないらしい。オルゼもまた、綴られぬ歴史に翻弄された一人なのだろう。

 ルシカの役割はオルゼたちを見つけてヴォイドかナイトレイドに教えることだったらしいので、テオもさぞ肝が冷えたことだろう。ナイトレイドの足跡については本人から「余計な事は言うな」と釘を刺されていたのだが、あの伯爵はこいつらを甘く見ている。ダンが今行動を共にしているのは言うなれば疑問が主食のような人種だ。


「追って来たところでこっちは顔を知らない」

 離れた椅子で拗ねたような顔で聞いているテオを見れば口止めされた事にも合点がいく。ダンは今度こそため息をついた。

「誤解は解けたんだろう」

 ダンがナイトレイドに話を聞きに行ったのには訳があった。たかが文通を途切れさせたくらいであの毛嫌いようは妙だ。何より、レーゲンが同じ事を言っていたのが引っ掛かっていた。


『――あの師弟はその才を陛下に認められ、必要とされたにもかかわらず揃って王の守りを拒否した』

 ダンが訪れた時、ナイトレイドは城の一室で帰り支度をしているところだった。

『守り?』

『フレイヤは以前、王宮付きの記録作家を断った。その後同じようにブルーアイズもな』

 ダンは驚きを気取られぬよう瞬きした。記録作家に王宮付きがある事など知らなかった。それほどまでにテオの師は傑物けつぶつだったのか。

『それに北の方で彼らのよくない噂もあった。陛下とブルーアイズがただ文通をしていただけだと思ったか? 陛下は王宮と外との窓として記録作家を選んだんだ』

『つまりテオの師がするはずだった役目の一部をテオに与えようと?』

 確かに国王直々に頼まれた宮職ならば普通は喜んで引き受ける。断る者はいないだろう。だが、唯一の家族代わりを失った胸中を推し量る事もまた出来ない。

『……あいつは今回、悩んで、恐れて、怒っていた。それはすべて陛下の為でした』

 テオはオルゼにではなく、理想の為に己を傷付けようとしたヘンドリクセンに怒ったのだ。

『お前は』

 背中を向けたままナイトレイドが訊いた。

『ブルーアイズの友か?』

『まさか』

 ダンは自嘲気味に笑った。

『アンタと同じであれの才にあてられた者ですよ』




「ブルーアイズに言ってなかったのですか? 彼女フレイヤが王宮付きを断ったのは彼の側にいる為だと」

 最後の客人が帰って行くのを窓から眺めながら、ヴォイドはヘンドリクセンに尋ねた。

「私が言わなくとも分かっているだろう。君と同様、私の事となると少々真っ直ぐすぎるナイトレイドには言っておけば良かったかもしれないが」

 ヘンドリクセンが困ったように微笑む。

「それに彼は私自身も気付かない私に気付いて止めてくれた。フレイヤの意思に気付くのはずっと容易い事だろう」





 日付が変わろうとしているトリスタン記舎の自室で、テオは揺れる蝋燭の火を眺めていた。オルゼからルシカを庇った際に負った傷が時々鈍く痛んだが、眠れないのはそのせいではなかった。

 城を離れる前、テオは一人宮廷図書館へ立ち寄った。フレイヤが殺される前に請け負っていた仕事について何か手掛かりがあるかもしれないと思ったのだ。

 自分の足音だけが響く図書館で、フレイヤが使いそうな棚を一つ一つ見て歩いた。彼女の残した記録作を発見する度に意識が遠い昔日へ旅するようだった。

 ――もっと知っていれば良かった。彼女の作品ではなく、彼女自身について。自分の手元に残らないものについて。そうしていれば、俺にもあの目に映る世界の事が少しは分かったのだろうか。


 カタン。

 誰もいないはずの部屋から物音がし、テオは読んでいた本を置いた。ここは早朝の城の中。まして図書館など、記録作家以外は城仕えの者くらいしか使用しない。テオはそっと音のした方へ近付き、棚の影から覗き見た。

 そこには棚と棚に挟まれた暗い通路があるだけだった。テオはしんと研ぎ澄まされた空気に佇む長い棚の端まで行くと立ち止まった。

 ぎっしりと詰め込まれた本の中で一箇所だけ隙間があり、隣の本が被さるように倒れていた。どうやらこれが倒れた音だったようだ。テオが本を立て直すと白く埃が舞った。


『“ブックエンド”だ』

『召集した記録作家は全部で六人だった』

『六人目の名前は確か――フラメ』


 テオの中で点と点が繋がった。




     *




「王は殺せなかったか」

 暖炉に薪を焼べながら男が天気の話でもするように言った。

「先代と比べてひ弱そうに見えたが」

「だが頭が良い」

 もう一人の男が返した。張り付いた薄ら笑いはそれ以外の表情になることはなく、男の得体の知れなさをよく表している。男はテーブルに煙草を押し付けて立ち上がった。積み重なった焦げ跡の上に新しい染みが出来る。

 部屋を出るとすれ違いざまに燭台を持った人影が部屋に入って行った。いつも生気が無いそいつのことを男は亡霊と呼んでいた。


「もうじき歴史が変わる」

 男の話す声が聞こえてきた。

「その時はやはり、君に居てもらわなくてはな」

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