暗雲に立つ――1

 呻き声のような風が鳴り響いている。

 谷底から巻き上げる雪は鋭く研ぎ澄まされ、冷えた頬を切り裂かんばかりに吹き抜いた。

「ありがとう」

 最期の微笑みを向けられた時、何を叫んでも届かないと知った。


 そうして彼女はゆっくりと吹雪の中に消えていった。






 テオ・ブルーアイズはもともと良いとは言えない顔色を悪くして歩いていた。くすんだ金糸きんしのような柔らかい髪。その名の通り紺碧こんぺきの瞳。そこに少し長い前髪がはらりと揺れる。体調が悪いわけではなく、憂鬱なだけなのだが――。気怠そうに大欠伸した痩躯そうくの男を、道行く人の誰も見咎めることはなかった。

 細い影が均一に敷き詰められた石畳に落ち、穏やかな日差しが降っている。延々と続く回廊を進んでいるうち、少しばかり良からぬ考えが首をもたげ始めた。時間に縛られるのは大の苦手だ。自由を愛するテオにとって他人に決められた予定ほど窮屈なものはない。欠伸の余韻を噛み締めながら、テオは眠たそうな眼差しをさらに遠くへやった。三日ほど前に届いた手紙。そこには面倒な気配のする内容が収まっていた。

 やはり帰ろうか。そうすればまた自由な時間が確約される。面倒事のない、素晴らしい午後が――。


「テオ!」

 回廊を引き返そうと体の向きを変えた時、耳なじみのある声が飛んで来た。廊下の向こうからテオの前まで駆け寄って来たその人物は軽く息を切らし顔を上げた。

「会えて良かった」

 明るいグリーンの瞳がほっとしたように緩み、あまり整っていないプラチナブロンドの髪がぱさりと胸上に掛かる。短丈のダッフルに麦色のスカート。両脇に抱えられた大量の書物――ルシカ・バースデイは変わらずのようだった。

「テオは絶対呼ばれてると思ったもの」

 落ち合う約束はしていなかったのだが、そんなことはお構いなしの様子で隣に並ぶ。旧知の仲と言うには会って短いが、仕事を紹介しただけの間柄というわけでもない。少なくともテオが自分の沈黙のせいで相手が不快な思いをしているのではないかなどと心配する必要はない。

 明るく素直なルシカは人を寄せ付ける。テオも例外ではない。人と群れることをしないテオであるが、ことルシカに関しては別である。

「あれ、こっち出口じゃ……」

 大きな瞳が目敏めざとくテオの進行方向に気付く。彼女の追求を免れるすべはない。

「ダメよテオ。これは国王様直々の――」

 みなまで言うな。企みを看破されたテオは大人しく身体の向きを変えた。さらば魅惑の午睡ごすい

「あー、それ半分持とうか?」

 逃避計画を諦めて手を差し出す。弁解の意も込めて。

「ありがと。でも大丈夫よ。いつもこれで移動してるもの」

 ルシカの言う移動とはすなわち旅を指す。記録作家は一処ひとところに留まることがない。刻一刻と変わりゆく物事を追うべく街から街へ、人から人へ、常に動き回っている。


「あぁ緊張する。私、王宮に入るの初めて」

 中庭を囲む回廊を進んでいるとルシカがそわそわと辺りを見回した。

「まだ外だろう」

 どこかの森と見紛みまがうほど広い中庭にはさまざまな人がいた。訪問客を案内する使い人、宮廷へ祈りを捧げる信者、巨大なキャンバスと向き合う絵描き、立ち話をする役人。ルシカがプクッと頬を膨らませる。

「同じよ。ここへ来るまでに何人も役人を見掛けたわ。あの人たちって何でいつも肩肘張って歩くのかしら」

「威厳を示すのが仕事だからな」

 役人の動きは国の情勢を知る良い目安になる。おのが権力を誇示する事に夢中になっているうちはこの国は安泰だ。


 テオは昔の王宮を思い返した。ほんの短い間のことではあったが、生活も表情も荒んだ人々がぽつりぽつりと通りを歩く中、王宮の中はまるで別世界のように生き生きとしていた。至る所に豪華な装飾、役人の服は上等の生地。世界情勢の混乱の最中に似つかわしくない空間であることは子供でも分かった。

 最初は王が国を見捨てたのかと思ったが、それは少し違った。当時、王宮には外交に関係する人間が多く招かれていた。要するに諸外国という戦場へ向かう彼らの士気を上げるため、わざと潤った様相にしていたのだ。あれは確かに理想的な王ではなかったが、少なくとも知られざる一面があったということだ。

 とはいえテオも異端者ではない。国民の大多数やルシカ同様、今の王の方を好いている。願わくは、この平和な時代が長続きしますよう――。

「!」

 テオは突然背後を振り返り、整備された風景を見つめた。気配を感じたのだ。無防備な背中をめ付けられているような、不気味な気配。

「テオ?」

 ルシカが呼び掛ける。

「どうかした?」

「……いや、何でもない」

 テオは静かに歩き出した。


 あの王宮は死人が着飾った舞踏会のようだった。いくら煌びやかにごまかしていてもどこか不穏なものが滲み出ていた。

 死人がその臭いを隠すことが出来ないのと同じように。




     *




 住む者が変われば建物も変わる。いつだったかとある大工に言われたことがある。日焼けしたその大工は王宮とは程遠い下町で働いていたが、彼の言う事は正しかったのだとテオは思った。目の前の建物が言葉通り住む者を表していたからである。


 扉を守る衛兵に召集状を見せると二人は小さめの部屋に通された。内装は全体的に素朴で、以前あった派手な彫刻やレリーフは無くなっていた。代わりに瑞々しい花が陶器の花瓶に生けられており、案の定ルシカが「意外」と呟いた。

 真ん中に来客用の白いテーブルセットがあるだけの応接間には三人の先客がいた。一人は黒いシルクハットに黒いコートの長身の男で、椅子には座らず壁に寄り掛かっており、何者も寄せ付けない剣呑けんのんとした空気を鎧のようにまとっている。残りの二人は中年の女性と銀髪の年若い少女で、それぞれ席に着いていた。テオたちが空いた席に座ると少女は頭を下げ、長身男は鋭いまなざしをテオに向けた。中年女性だけが顔を上げ、興味津々に話し掛けた。


「王様からの呼び出しがきたと思えば有名な記録作家と同席かい」

 オリーブ色の髪の毛をギラギラした髪飾りで引っ詰めた女性は酒の飲み過ぎなのか枯れた声をしている。

「あたしはロゼ。この際よろしく頼むよ」

 ロゼは異国の植物のような赤紫の耳飾りを揺らして握手した。

「私、存じ上げてます。“ロゼ・ラグーン。切れ者と言われる批評家で、風刺作品を書かせると彼女の右に出る者はいない”」

 ルシカが一息に言い切るとロゼは一瞬ポカンとし、それからカラカラと笑った。

「名前を知られてないからって悪さは出来ないね。お嬢ちゃん名前は」

「ルシカといいます。ルシカ・バースデイ」

「よろしくルシカ。二人は知り合いかい?」

「知り合いというか腐れ縁というか」

 面倒臭がって会話に入ることをしないテオに代わってルシカが答える。

「おや、有名どころはひととおり知っていたと思っていたが……」

 ロゼが顎に手を当てるとルシカが慌てて遮った。

「いえ、私はほとんど記録作を出していないんです。本業は研究家ですし」

 転身したとはいえルシカの街への興味は尽きる事がないらしく、今も研究の合間に記録作家をしている。

「研究資料がたくさんあるので記録作家になったらどうかって」

 ルシカがテオを見る。

「協会に推薦されるってことは実力があるってことさ」

「ありがとうございます」

 ルシカが顔をほころばせると奥扉が開き、二人の役人とともに男が入ってきた。ヘンドリクセン二世――この国で最も高位にある人間にして、今回の召集主である。

「召集に応じてくれてありがとう。ヨルノリア国王の名に於いて感謝します」

 落ち着いた声音と大人びた所作ではあるが、年の頃は二十四とまだ若い。先代の力強い面影はあるものの深海に似た瞳は慈愛に満ちており、冠とビロードのマントはあたかも『あれがこの国の王である』と人々に示す為に従者に付けられたかのようだ。寛厚かんこうで誠実。世間で噂されている人物像と遠くないことは招集された面々のかしずき具合を見れば明白だった。


「ぜひ、君たちの力を借りたい」

 テオはすっと目を閉じた。

「……諸君も知ってのことと思うが、近頃妙な事件が頻発している」

 役人の一人が咳払いし、事務的な口調で話し始める。ここからは彼からの説明になるらしい。

「警察の目を掻い潜るような不確かで不穏な動きだ。ヨルノリアには今、暗雲が立ちこめ始めている」

「……つまり事を荒立てずに真相を探れと、そういう事ですか」

 シルクハットの男が口を開いた。決して親切とは言えない説明を一瞬にして正確に消化そしゃくしている。記録作家がさといのを知っているせいか、静かな佇まいから放たれる荒々しい眼光に射抜かれても役人は動じなかった。

「その通り。人目に付かず動き回れてこの国に詳しい者。そして国と忠誠関係にある者。それが諸君というわけだ」

 ルシカは不安そうに隣のテオをちらりと見たが、テオは居眠りしているかのように目を閉じたままだ。

「諸君にしてもらいたいのは二つ、調査と報告だ。通常通り仕事をしながら、異変に耳をそば立てて欲しい。もちろん減った仕事の分の補填はする」

 ロゼが「そりゃいい」と小声で言う。

「報告にはこの王宮直通のものを使うように」

 机に三枚薔薇が描かれた箱が置かれた。中にはヨルノリア王家の紋章が刻まれたシーリングスタンプが数本入っている。

「他に何か聞きたい事はあるか」

 質問がないことを確認すると別の役人が箱を持って回った。テオも目を開け、ワイン色のそれを一つ取る。

「では失礼する」

 用が終わったとばかりにシルクハットの男が颯爽と部屋を出た。少女とロゼ、ルシカも一礼して退室する。


「……テオ」

 最後に部屋を出ようとしたテオの背中をひとつの視線が捉えた。振り返り、ヘンドリクセンの深海のような双眼をのぞく。

「……」

 テオはただ一礼して部屋を出た。

 彼らは互いに、掛ける言葉を未だ考え付けずにいた。

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