暗雲に立つ――1

 呻き声のような風が鳴り響く。

 谷底から巻き上げる雪は鋭く研ぎ澄まされ、冷えた頬を切り裂かんばかりに吹き抜いた。美しい横顔と決して消えないものを私の中に刻み付けて、彼女は吹雪とともに谷底へ落ちていった。







 

 古い姿見に顔色の悪い青年が映っている。痩せ気味で背丈は平均より少し高い。くすんだ金糸のような柔らかい髪は襟足がうなじあたりまで伸びている。まばたきすると重たげに伏せられた紺碧の瞳に前髪がはらりとかかった。

 青年はコートラックから外行きの服一式を取り、のろのろした手つきで身に付けていった。持ち物の中で二番目に高価なそれらは昨日預け先から取り寄せたものだ。備え付けの机には開けっ放しの鞄が置いてある。トランクに似た革製の鞄で、仕切りの中にインク瓶や羊皮紙が整然と並んでいる。分解された金属のペン先が何を隠そう一番高価な代物である。


 ヨルノリアの首都・ウィルトゥス、通称〈セントラル〉。

 日夜発展を遂げるこの国で最も変化が顕著な街は広場を中心にチェス盤のように広がっている。

 テオは無意識に窓枠を指でなぞった。セントラル記舎の三階、東側の一角にあるこの部屋はいろいろなことをテオに思い出させた。世界なんてものは初めからほんの少し歪んでいて、多くの人はどうすることもできない。それでいてひずみは時に容赦なくその切先を向けてくる。テオ・ブルーアイズはそのことを近くに感じながら生きてきた人間だった。


 欠伸をしながら階段を降りると湯気を立てるカップが差し出された。長細い木製のカウンターの中にいるのは日に焼けた肌と刈り込んだ白髪が似合う壮年の男性で、同じ色の髭が愛想良く弧を描く。

「おはよう」

 国産豆で挽いた漆黒の飲み物は数少ないテオの好物である。本来こういったものの提供は契約内容に入っていないのだが、毎朝同じ光景を見せ続けられたせいかサービスしてくれるようになった。

 明るいロビーにテオの全身が現れるとその珍しい装いに男はおや、と思った。時間も早い。人が出払ったタイミングで降りて来て新聞を独り占めし、いつの間にかいなくなるのがいつものパターンだ。

「……呼び出しです」

 礼を言ってコーヒーに口を付けたテオが封の開いた手紙を見せた。上質な紙に刻印されているのは、三枚薔薇の蝋。王宮の紋章である。普通なら飛び上がって喜ぶところだが、この常連客の態度は真逆だった。チェックアウトのサインを書く合間に引き止めてはくれないかとこちらを見つめ、しまいにはため息すら聞こえた。

「いってらっしゃい」

 記舎の主人がかけてやれるのは味気ない常套句だけだった。




 均一に敷き詰められた石畳に春先の穏やかな日差しが降っている。

 回廊を進むテオの足取りは重い。このまま姿をくらましてしまおうか。そんなことを考えていると耳なじみのある声が飛んで来た。

「テオ!」

 廊下の向こうからテオの前まで駆け寄って来た人物は軽く息を切らして顔を上げた。

「よかった、会えて」

 明るいグリーンの瞳がほっとしたように緩み、あまり整っていないプラチナブロンドの髪がぱさりと胸上で跳ねた。短丈のダッフルに麦色のスカート、両脇に抱えられた大量の書物――ルシカ・バースデイは変わらずのようだった。

「元気そうだな」

 明るく素直なルシカは人を寄せ付ける。テオも例外ではない。人と群れることをしないテオであるが、ことルシカに関しては別である。記録作家が少ないとはいえ、そんな彼女が召集されるのはテオから見ても納得だった。

「半分持とうか?」

「ありがと。仕事終わりにそのまま来ちゃったから……」

 記録作家は同じ地に留まることがほとんどない。刻一刻と変わりゆく物事を追うべく街から街へ、人から人へ、常に動き回っている。皆が皆こうも大荷物かと言われるとノーであるが。

「私、王宮に入るの初めて」

 ルシカがそわそわと辺りを見回す。回廊が囲むのはどこかの森と見紛みまがうほど広い中庭で、訪問客を案内する使い人、宮廷へ祈りを捧げる信者、巨大なキャンバスと向き合う絵描き、立ち話をする役人などさまざまな人がいる。

「あの人たちって何でいつも肩肘張って歩くんだろ」

「威厳を示すのが仕事だからな」

 役人の動きは国の情勢を知る良い目安になる。おのが権力を誇示する事に夢中になっているうちはこの国は安泰だ。


 テオは昔の王宮を思い返した。

 ほんの短い間のことではあったが、生活も表情も荒んだ人々がぽつりぽつりと通りを歩く中、王宮内は生き生きとしていた。豪華な装飾、役人の服は上等の生地。世界情勢の混乱の最中に似つかわしくない空間であることは子供でも分かった。

 最初は王が国を見捨てたのかと思ったが、それは少し違った。当時王宮には外交の関係者が多く招かれていた。要するに諸外国という戦場へ向かう彼らの士気を上げるためわざと潤った様相にしていたのだ。あれは確かに理想的な王ではなかったが少なくとも知られざる一面があった。

 とはいえ戦を忌諱きいする今の王の方が支持されているのは誰の目にも明らかだった。願わくは、この平和な時代が長続きしますよう――。

「!」

 テオは突然背後を振り返り、整備された風景を見つめた。気配を感じたのだ。無防備な背中をめ付けられているような、不気味な気配。

「テオ?」

 ルシカが呼び掛ける。

「どうかした?」

「……いや、何でもない」

 テオは静かに歩き出した。


 あの王宮は死人が着飾った舞踏会のようだった。いくら煌びやかにごまかしていてもどこか不穏なものが滲み出ていた。

 死人がその臭いを隠すことが出来ないのと同じように。




     *




 住む者が変われば建物も変わる。いつだったかとある大工に言われたことがある。大工は王宮とは程遠い下町で働いていたが、彼の言う事は正しかったのだとテオは思った。目の前の建物が言葉通り住む者を表していたからである。

 扉を守る衛兵に召集状を見せると二人は奥の部屋に通された。内装は全体的に素朴で、以前あった派手な彫刻やレリーフは無くなっていた。代わりに瑞々しい花が陶器の花瓶に生けられており、案の定ルシカが「意外」と呟いた。

 真ん中に来客用の白いテーブルセットがあるだけの応接間には三人の先客がいた。

 一人は黒いシルクハットに黒いコートの長身の男で、椅子には座らず壁に寄り掛かっており、何者も寄せ付けない剣呑けんのんとした空気を鎧のようにまとっている。残りの二人は中年の女性と銀髪の年若い少女で、それぞれ席に着いていた。テオたちが空いた席に座ると少女は頭を下げ、長身男は鋭いまなざしをテオに向けた。中年女性だけが顔を上げ、興味津々に話し掛けた。


「王様からの呼び出しがきたと思えば有名な記録作家と同席かい」

 オリーブ色の髪の毛をギラギラした髪飾りで引っ詰めた女性は酒の飲み過ぎなのか枯れた声をしている。

「あたしはロゼ。この際よろしく頼むよ」

 ロゼは異国の植物のような赤紫の耳飾りを揺らして握手した。

「私、存じ上げてます。“ロゼ・ラグーン。切れ者と言われる批評家で、風刺作品を書かせると彼女の右に出る者はいない”」

 ルシカが一息に言い切るとロゼは一瞬ポカンとし、それからカラカラと笑った。

「名前を知られてないからって悪さは出来ないね。お嬢ちゃん名前は」

「ルシカといいます。ルシカ・バースデイ」

「よろしく。二人は知り合いかい?」

「知り合いというか腐れ縁というか」

「おや、有名どころはひととおり知っていたと思っていたが……」

 ロゼが顎に手を当てるとルシカが慌てて遮った。

「いえ、私はほとんど記録作を出していないんです。本業は研究家ですし」

 転身したとはいえルシカは今も作家業の合間に街の研究をしている。

「彼に勧められて」

 ルシカがテオを見る。

「ここに召集された者は協会の推薦によるもの。実力の無い者は呼ばれてないさ」

「ありがとうございます」

 ルシカが顔をほころばせると扉が開き、二人の役人とともに男が入ってきた。ヘンドリクセン二世――この国で最も高位にある人間にして、今回の召集主である。


「召集に応じてくれてありがとう。ヨルノリア国王の名に於いて感謝します」

 落ち着いた声と大人びた所作ではあるが、年の頃は二十四とまだ若い。先代の力強い面影はあるものの深海に似た瞳は慈愛に満ちており、冠とビロードのマントはあたかも『あれがこの国の王である』と人々に示す為に従者に付けられたかのようだ。寛厚かんこうで誠実。世間で噂されている人物像と遠くないことはまわりにいる人間の顔を見れば分かることだった。

「ぜひ、君たちの力を借りたい」

 テオはすっと目を閉じた。

「……諸君も知ってのことと思うが、近頃妙な事件が頻発している」

 側近の男が咳払いし、事務的な口調で話し始める。ここからは彼からの説明になるらしい。

「警察の目を掻い潜るような不確かで不穏な動きだ。ヨルノリアには今、暗雲が立ちこめ始めている」

「……つまり事を荒立てずに真相を探れと、そういう事ですか」

 シルクハットの男が口を開いた。決して親切とは言えない説明を一瞬にして正確に咀嚼している。記録作家がさといのを知っているせいか、静かな佇まいから放たれる荒々しい眼光に射抜かれても側近は動じなかった。

「その通り。人目に付かず動き回れてこの国に詳しい者。そして国と忠誠関係にある者。それが諸君というわけだ」

 ルシカは不安そうに隣のテオをちらりと見たが、テオは居眠りしているかのように目を閉じたままだ。

「諸君にしてもらいたいのは二つ、調査と報告だ。通常通り仕事をしながら、異変に耳をそば立てて欲しい。もちろん減った仕事の分の補填はする」

 ロゼが「そりゃいい」と小声で言う。

「報告にはこの王宮直通のものを使うように」

 机に三枚薔薇が描かれた箱が置かれた。中にはヨルノリア王家の紋章が刻まれたシーリングスタンプが数本入っている。

「他に何か聞きたい事はあるか」

 質問がないことを確認すると別の役人が箱を持って回った。テオも目を開け、ワイン色のそれを一つ取る。

「では失礼する」

 用が終わったとばかりにシルクハットの男が颯爽と部屋を出た。少女とロゼ、ルシカも一礼して退室する。


「……テオ」

 最後に部屋を出ようとしたテオの背中をひとつの視線が捉えた。振り返り、ヘンドリクセンの深海のような双眼をのぞく。

「……」

 テオはただ一礼して部屋を出た。


 彼らは互いに、掛ける言葉を未だ考え付けずにいた。

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