新 新宝島
六葉翼
第1話「前編」
僕たちの通う小学校は、都内ではモデル校に指定されているらしい。
とは言っても、普通の小学校と比べて、別に変わったことはなにもない。
ただ、後から普通になる新しいことは大概、この学校で試されてから始まるらしい。
その日、僕は久しぶりに学校に行った。
そこではクラスの友だちにも会えた。
けれど校舎の中に入ることはなかった。
その後しばらくしてから。
世間の人たちの間で、その日のことは【式日】と言われるようになったんだ。
そして、式日は誰でも一度は通る。
七五三みたいなものになった。
その年は何年かに一度の当り年だった。
当りと言っても、コンビニのくじとか、宝くじ、作物や海産物の当り年ではない。
ウィルスが蔓延する当り年だった。
世界規模で新型のウィルスが流行ると、のきなみ学校や国中の、大勢の人々が集まるイベントが中止になった。
僕たちの通う小学校も、ずっと休校が続いている。
小学校だけではなく、お姉ちゃんの通う高校もお休みだ。最近では、お父さんも家にいて部屋で仕事をしている。
スーパーはどこでも、食物が不足していてた。
以前なら、年末年始も開いていたレストランもお休みで店の中には人気がない。
ドライブスルーがある、ハンバーガー店やチキンを売る店は、いつも開店と同時に車の長い行列ができていた。午前中にはすべて売りきれてしまうらしい。
僕の家のご飯もそんな感じだ。
買いだめしたポテトやハンバーガーをレンチンしたり、カップ麺や冷凍食品が食卓にならぶ。
僕もお姉ちゃんも、そういうのが大好きだから問題ない。最初はそう思ってたけど。
さすがに毎日だと飽きて来る。
「まだ3食、しっかり温かいものが食べれるだけありがたいんだぞ!」
「本当にいつまで続くのかしら」
お父さんやお母さんが、心を見透かしたように、そんな話をするので、僕たちは今日も黙って用意された食事を食べた。
【体育祭もだめだったな】
【このぶんだと文化祭も】
【無理だな】
【卒業式とかどうなるんだろう・・私たち6年生だよ!このままみんなに会えないで、卒業なんていやだよ!】
雨の日の、曇り空を恨めしそうに見上げて、呟くような言葉たち。
アバターではない。
それぞれのウェブカメラの映像が分割されて、タブレットの画面に映る。
友だちの顔を僕は見ていた。
クラスメートのたっかんや柚たちと。
僕は部屋でそんなやり取りをしている。
学校が休校になる前に、家で授業を受けるために買ったタブレットのおかげで、僕たちはお互いの顔を見て話が出来る。
【文化祭とか体育祭なんてさ・・めんどうで、かったるいだけと思ってた】
【私たち行事がなにも出来ないまま終わるのかな・・いやだあ】
修学旅行も中止になった。
「彼らが大人になって『そんな学生時代、そんな時代だったねって』それも彼らには思い出になるんでしょうけどね」
そんな無責任なことを、テレビで話す大人がネットで叩かれたり。でも、悪いのはその人じゃないこともわかっていた。
『学校に行って、感染して・・家族が病気になったり、死んだりするよりはましだ』
みんな心の中でわかっていた。
「ヒロト出かけるわよ!」
母さんが部屋の外から僕に言った。
「ハンバーガーショップならパース!」
どうせ休みだって、遊びに行ける場所なんて僕らにはどこにもない。
何時間も車の中で、ドライブスルーの行列に並ぶのは退屈だし嫌だった。
「違うわよ!学校に行くのよ!」
母さんの言葉に僕は驚いた。
「たっかんや・・クラスの友だちみんなに会えるの!?」
思わず、体重をかけていた椅子の背もたれごと後に倒れそうになる。
「そうね・・学校でみんなに会える」
部屋に入って来た母さんの言葉に、僕は思わず身を乗り出した。
たっかんや柚たちと学校で会える!
「もしかして予防注射?」
僕は少し怯んだ。
今は悪い病気が流行ってる。
学校に集まる理由ってそれじゃないか?
「それはまだ・・今の病気にも効く、新しいお薬は出来てないみたいなの・・」
そう言って母さんは、少し悲しそうに首を振った。
予防接種じゃない。
僕はその言葉に、つい安心してしまう。
あの消毒薬のにおいって嫌いじゃないけど。
腕や足に巻いた包帯もかっこいい。
でも注射は苦手だ。
「母さん早く学校行こう!」
僕は、机の上に置いたスマホをつかむ。
「ええ・・でも、それはお母さんに預けてね。学校での手続きに必要だから」
「へ・・なんで?キシュヘンするの?」
学校で?われながら変なことを言った。
母さんはそれには答えず。
「さあ・・すぐにお風呂場に行って。ちゃんと水色の蛇口のシャワーの方を浴びてね」
ウィルスが流行ってから、家の浴室シャワーノズルが二つになった。
一つは温水や水が出る、元々お風呂場にあるシャワー。もう一つは、ポリタンクに繋がれた消毒薬を浴びるシャワーだ。
どんなにめんどうでも、それを浴びる。
それが家を出る時の家族の約束だった。
「めんどくさいし僕きれいだから・・」
「だめよ!」
そのルールは、わが家では絶対だった。
そして僕は風呂が嫌いだ。
出来れば、あんまり入りたくない。
だから買い物にもついて行かない。
「今は、おうちの中でも安全じゃないの!シャワーを浴びないと、みんなに迷惑がかかるのよ!わかるでしょ・・」
もう6年生なんだから・・そう言われて、僕はしぶしぶ浴室に向かう。もうすっかり慣れた手つきで、滅菌シャワーのコックを捻る。
冷た!つめてえ~!
せめてこれ・・お湯にならない?
そんなことを言ったら、また母さんに怒られそうだ。
ここ最近のわが家では、前と変わってしまったことがたくさんある。
シャワ一のルールだけじゃない。
わかりやすいのは、お風呂場の香りだ。
前は浴室に入れば、石鹸や、父さんが使ったばかりの髭剃りのクリームの香り、使うとすごく姉ちゃんにすごく怒られる、姉専用のシャンプーや、リンス、洗濯したてのタオルの柔軟剤の香り。
そんな匂いたちが残っていた。
今は、消毒薬の匂いが壁や床に染み付いている。風邪で熱が出たり、サッカーで怪我をした時に、病院に行くとする消毒薬の匂いだ。
それを嗅ぐとなぜか安心出来た。
でも今は違って。
それは家にいつもある。
「1日仕事をしてさ・・風呂場の匂いを嗅ぐとなんだかな。朝から憂鬱になるよ」
お父さんもそんな話をしていた。
でも僕たちは今それに守られている
だから仕方ないことなんだ。
お風呂場から出ると、母さんが僕にばかみたいな滅菌服を手渡したした。
母さんも服に袖を通す。
顔まですっぽり。
透明なレインコートみたいなやつを被る。
僕も母さんもばかみたいだ。
でもこれがないと、長時間外出するのは危険なのだから仕方ない。
「うふああ・・出かけるの?あれ?ヒロトの・・今日だった?」
眠そうな声で、あくびを噛み殺しながらスエット着姿のお姉ちゃんが、ゆっくりと階段を降りて来た。
「そうよ、ヒロトは今日の午後。あんたの高校は来週月曜の午前だから・・忘れないでね。お姉ちゃんなんだから!」
「お姉ちゃんなんだからはよけいだふわ」
お姉ちゃんは、いつもの、のんびりした口調で、あくびしながら母さんに言った。
「でもさ、大丈夫なのかな?ヒロトは、まだ小学生だよ・・私だって不安だよ・・」
「大丈夫」
母さんは、僕と姉ちゃん二人を急に両手で抱き抱えながら言った。
「大丈夫・・国の認可だって降りて、安全なものだから。これからは、これが当たり前になるの。大丈夫・‐すぐにみんな慣れるわよ・・あなたたちが家に引きこもったままで、大切な時間を失くさないでよかった・・今はそう思ってるの」
よくわからないけど息が苦しいよ。
まだ母さんの腕の中は殺菌剤じゃない。
やわらかくて優しい匂いがした。
でも、それで僕も姉ちゃんも安心出来た。
「じゃあヒロト・・また後でね」
「また後で」
僕はお姉ちゃんと短い言葉を交わした。
それからすぐに、母さんの運転する車の助手席に乗り込んだんだ。
「ちゃんとシートベルト締めなさい!」
母さんがそう言うとこまで予想できた。
車が通る道もいつもと同じだ。
小学校に向かう道。
6年間いつも歩いた。
見慣れ過ぎた街の景色だ。
僕は走る車の窓から眺めていた。
やがて車は、学校の正門まで着いた。
さらに見慣れた、僕らの小学校の校舎だ。
だけど随分懐かしい気がした。
小学校の鉄の正門は、いつも通りに閉じていた。それは、今学校が休校になってるからじゃない。
登校時や下校時、なにか特別な行事で父兄が出入りする時以外を除いて、学校の正門はこの時間は閉じているのが普通だった。
僕が幼い頃、学校に悪い人が侵入して、生徒や生徒を何人も刃物で襲った。
でも、それは他所の県の他所の学校の話だ。
犯人が逮捕された後でも、似たような事件が全国で何度も起きたらしい。それ以来、どこの学校の警備も厳しくなったんだって。
「母さん・・今日は、学校に呼ばれたんじゃないの?」
「そうよ」
そう言って母さんは、ブレーキを踏むこともなくハンドルをきる。
車は、学校の敷地を迂回するようにして走る。
そのまま校舎の裏手の道に吸い込まれた。
正門が閉まっている。母さんは先に、担任の先生から聞いていたらしい。
正門のぐるり反対側にあるのは、フェンスで囲まれた小学校のグランドだ。
運動場入り口の門は開いていた。
入り口には既に何人かの先生が立っていた。
学先生たちに指示された通りに、白線で仕切られた校庭の駐車ブロックに、母さんは車を停めた。
「母さん今日はなにがあるの?」
車を降りた僕は、思わず訊ねていた。
学校のグランドは、いつもの見慣れた景色とは、全然違っていたからだ。
「今日はなにかのお祭り?」
僕がそう言ったのも無理もないことだ。
広いグランドの敷地には、普段は見かけないような、大きな特設の白テントや、そのまわりを取り囲む、たくさんの登り旗が立ち並んでいた。
その旗に見覚えがあった。
見ると、僕と同学年の生徒たちが親に連れられ、グランドを歩いている。
みんな見覚えのある顔ばかりだ。
まるで、なにかのお祭りのようだった。
「ねえ・・母さん」
「ヒロト君と・・お母さん!」
僕が袖を掴み、母がなにか答える前に、僕らの前に駆け寄る人がいた。
クラス担任の矢崎華先生だ。
先生も上から下までビニールお化けだ。
「ヒロト君!元気だった!?」
「先生・・さっきもチャットの授業したばかりだよ!」
「うんうん!そうだね・・でも、生ヒロトが元気でよかったよ!」
矢崎先生は、滅菌服越しに、いつもの笑顔を浮かべて僕の頭に手をのばす。
「あ・・手は消毒してますから」
慌てて母の顔を見て言った。
「構いませんよ」
母は頷いて言った。
「でも・・一応消毒せんとね!」
服の袖口から携帯スプレーを出して、自分の手に吹きつけ、さらにそれを丁寧にすりこんだ。
「こんな時代だからね」
そして、改めて僕の頭に手をのばした。
母にも姉にも、よく頭や体を触られる。
最近の僕は、本当はそれがすごく苦手だった。
くすぐったいし、嫌がるとよけい面白がってしつこい。
小さい子供扱いされるのがとにかく嫌だ。
先生も同じだ。
「やめてよ」
いつもなら、身をよじって抵抗するところだ。
だけど今日は、黙ってされるがままにしていた。それは。
「こんな時代だから」
そう言った先生の声が、なんだかとても悲しそうだった。先生が泣いているように思えたから。
「6年生の時間は今からですよ。丁度いいですね・・」
「必要な書類はこちらに」
「機種変更扱いらしいので。同意書や契約の書類には、親御さんのサインだけでいいそうです。確認のために、今まで使用していた端末の機種と、やはり確認のための、パスワードと暗証番号が書かれている書類があれば・・」
「全部揃ってます」
お母さんは、手にしたバッグを開けることもなく、先生にそう言って頷いた。
なんだ、やっぱり携帯の機種変更か。
言われて見ればだけど、校庭のあちこちにある、特設テントの看板や旗は見覚えがある。
テレビのCMや街でよく見かける、携帯会社の文字が書かれていた。
食物やおもちゃを売る、お祭りの出店の屋台やテントではない。それは見ただけで、何となくわかったけど。
つまらない。
「それでしたら」
矢崎先生は言った。
「今は体育館も解放してますが、そちらに人が集まってるので・・テントの方が待たずに済みますよ!ちなみにお母さん、家でお使いの機種は?」
「SBです」
「なら西側のブースです」
「ありがとうございます!矢崎先生!」
僕も、母に先生にお礼を言うように促された。
なんのお礼か未だにわからない。
「2度目の出欠だね。でも、今日は点呼もいらないし集合もなし・・ヒロト君まるっと」
先生はそう言って、タブレットの出欠簿に、タッチペンでチェックを入れた。
「また学校でね!」
矢崎先生に見送られながら、僕と母さんはSFのブースに向かって歩いた。
「お?」
「ヒロト~」
途中で、同じように親子連れて歩いてた柚やたっかんと会った。
「久しぶり」
「ていうか、声聞かないとわかんねえよ!お前本当に柚か?男か女か・・どれどれ・・ぐは!」
「あほ!」
柚の胸に手をのばした、たっかんが思いっきり尻に蹴りをくらって悶絶する。
「柚!女の子がそんなことするんじゃありません!本当に乱暴ですみません!」
「いえいえ・・悪いのは、うちのばか息子の方です!すみません!ほら!早く謝って・・」
学校では、いつも通りの見慣れた光景だった。
僕たちは、親子ともども久しぶりに会えた懐かしさからしばらく足を止めて話をした。
親たちの話題は、やはり最近のウィルスによる不自由な暮らしや、今後の不安についてだった。
「じゃあまたな!俺はAUだから」
「私はDなんであっちね!」
「じゃあ・・また学校でね!」
僕たちは、お互い違う携帯の会社と契約していた。それぞれ別々のブースへと別れて歩いた。
先生に教えてもらった通り、母さんと校庭内の特設テントの中に入った。
そこは、中身は外とまったく違っていた。
本当に普通の携帯ショップだった。
僕が、携帯を生まれて初めて買って貰えたのは、確か小学校3年生の時だった。
他の同級生は、もっと早く持ってる子も大勢いた。だから、ようやく買って貰えた携帯はすごく大切な宝物だった。
とは言っても学校では持ってるだけ。
メールやラインやアプリも禁止だった。
子供を狙った凶悪な犯罪や、事件が年々増えているから。
見守り機能や、居所がわかるGPS機能を使っての防犯のため。それが、僕ら子供が携帯を所持していい主な目的だった。昔も今も変わらない。
色んな楽しいゲームや、アプリで遊んでみたいのはみんな同じだ。
だけど、大概はは親に年齢や視聴制限のロックをかけられていて好きなようには使えない。
それでも友だちの中には、必ずそうしたロックを外せる天才なやつがいて。
僕もそれを真似た。
好き放題ゲームアプリで遊んでたら。
ある日家に法外な請求書が届いた。
僕と、なぜか父さんまで、母さんに大目玉をくらった。やらせないから、必要がないと思ってたアプリや動画見放題プラン。
契約時には、一週間だけそのプランが試せる。
その契約を解除するのを、母さんが忘れていたおかげで、僕がやらかした高額支払いだけは、なんとかまぬがれた。
父さんは、今でもおこづかいを減らされている。
どこの家でもよくある話?みたいだ。
初めてスマホを買うために、母さんとショップに出かけた日。今も覚えてる。
自分がちょっと大人になれた気がした。
その時の店内と、今いるテントのブースの中は、ほぼ同じ内装に見えた。
ただ、そのショップよりもずっと広かった。
端から端まで並べられたカウンターには、通常なら、3人か4人しかいないはずのショップのお姉さんたちが、ずらりと並んでいる。
まるで、テレビでたまに見るモーターシヨーや、ゲームのイベントみたいだった。
僕と母さんは、カウンターの前にある、順番待ちのソファの前に、機械で発行された整理券を手に座った。
順番を待つ間、母さんも僕も会話はなくて、それはひどく退屈な時間だった。
「終わったら(みんなと)遊べる?」
一応ダメもとで聞いてみた。
母さんは黙って首を横にふった。
「早く終わんないかな」
胸の中の呟きが思わず口に出てしまう。
母さんはたしなめることもせず。
「そうね」
それだけ言うと、それきり黙って自分のスマホの液晶をいじりめた。
思っていたより待たされなかった。
携帯ショップはいつも狭くて混んでて、けっこう待たされる。そんな印象だ。
それでも、その時間帯学校に呼ばれたのが、6年生の生徒と父兄だけだったせいか、僕と母さんは、それほど待たされずに、手持の整理券の番号で呼ばれた。
「本日は・・御契約の御家族様のうち、現在小学校などに就学中のお子様のみ、機種変更の対象となります」
ショップのお姉さんは、少しだけ緊張気味の僕と母を笑顔で出迎えた。
後は前にも聞いたような説明。
僕は少しだけ眠くなった。
「では・・ご説明は以上になります」
それで、新しい携帯の入った紙のバックを手渡され家に帰る。そう思っていた。
「では・・お子様は、そちらの衝立の裏で必要な処置を受けて頂きます」
処置ってなに?
新しい機種を受けとるだけでしょ?
「制定された新法では、外科手術扱いになりますので。なお、処置には医師が必ず立会いますので・・どうか御安心下さい」
外科手術ってなに!?
僕は思わず母さんの顔を見た。
「それなら安心出来ます」
見上げた母の顔は、美術室の石像のレプリカみたいに無表情に見えた。
店員の言葉と、立ち上がった母に促され、僕は白い衝立で仕切られたブース裏のスペースに足を踏み入れた。
小学校の身体検査の時の教室。
その場の印象はそれだけだった。
違うのは父兄の同伴者がいること。
白衣を着た、おそらくは医師と看護師さん。
そして携帯ショップの人。
普段あり得ない組合せ。
その前には見慣れた同級生たちの列。
男女の区別はなく、生徒たち皆がその場に行儀よく並んでいた。
服を脱いで心音を計ることもない。
「滅菌服の頭だけ脱いでこちらのかごに」
自分の順番が来ると、目の前に置かれた、丸い椅子に腰かけて、ただ黙って医師に必要な処置を受けていた。
「注射よりも痛くないからね」
目の前で唇を弓に結んで座る女の子。
目の前には、白い電話の受話器に似た物体。
その子が目を瞑る。
「ほら痛くないでしょ?」
それが右耳の裏にあてがわれたのは、ほんの一瞬に思えた。
「もういいですよ」
彼女は、看護師さんに耳裏に小さな絆創膏を貼ってもらうと、医師に小さな紙箱を手渡された。
ご褒美の飴でも入っているのだろうか。
そのまま、彼女は解放されたような安堵の表情を浮かべて立ち上がる。
「ぜんぜん痛くないよ」
彼女は小声で僕に囁いた。
そのまま、近くで待っている母親の元へと、ぱたぱたと走って行った。
すぐに僕も看護師さんの言葉を聞いた。
耳裏にひやっとする消毒ガーゼの感触。
彼女の後ろでチカッ!
光ってた青い光は今の僕には見えない。
それでも僕は病院の匂いが嫌いじゃない。
安心出来るんだ。そう思った。
皮膚にあてがわれた謎の機械から、バチッ!という音が耳の中で響いた。
家に帰ってから、携帯ショップで貰った紙の小箱を開けた。
サービスポイントで貰える、携帯ケースや会社のキャラグッズだと思った。
箱の中身はコンタクトレンズだった。
「母さん・・僕、目は悪くないよ」
「新しいヒロトの携帯には必要なのよ」
そうは言っても、肝心の機種は渡されなかった。僕は首を傾げた。
「新しい携帯は・・もうヒロトの頭の中に埋め込まれているの」
母さんは、説明書に目を通しながら僕に説明した。
「これは表示された画面を見るためのモニターの代わりになるらしいわ」
そう言って、一度消毒した手でレンズを人差指の先にのせた。
「ヒロト・・天井に顔を向けて」
まず僕の右目の目蓋を左手の細い指で広げて。
それからレンズを眼球に被せる。
左目も同じようにして、僕にコンタクトをつけてくれた。それで、視力が急によくなるわけではないみたいだ。僕はもともと目は悪くない。
「まだ機種の電源が入ってないからね」
少しだけ異物感。
涙が滲んで来そうになる
僕はこぶしの裏で瞼を擦る。
「それにこれは・・自然の植物由来の成分で作られているらしいから、ヒロトの涙で溶けてから眼球全体を覆うの・・大丈夫?痛くない?」
「痛くないよ」
「そうよかった」
母さんの言葉通りだった。
僕の目の中に、何かが入ってるという感じ。
それは、すぐに消えて無くなった。
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