エレベーター
第3の男
エレベーター
29 階行きのエレベーターでそれは起こった。気圧で詰まった耳を戻そうと唾を飲んでいる時だった。突然、上下に振られたその箱で、揺れに耐え切れなくなり腰を落とした。照明が点滅する。横に二、三回震えると、ブウンという音があがり、点滅が黒で止まった。
「えっ」
と、弱々しい声が小さく響いた。エレベーターには僕と日比さんがいる。いつも冷静な日比さんはこんな時にも冷静で、決してとんがった悲鳴を放つことはしない。
「消えちゃったかあ」
まさか、照明が消えるとは思っていなかった。操作盤も全く機能していない。
「ここにいますよ」
操作盤の前にいる日比さんの斜め後ろから和ますように声を掛ける。日比さんの長い髪が壁を沿う音がしゃっと聞こえた。同時にいつもの柑橘の香りが思い出された。
「うん」
向けられた丸い声が脳の先を撫でた。
日比さんは職場の先輩。光をよく弾く白い肌に肩まで伸ばした黒い髪、縦に開いた猫目とキュッと尖った小高い鼻、細くくびれた腰と長く伸びる脚、なめらかに整った手指と薄い桃色にそまる爪。お淑やかで物腰柔らかな日比さんは、職場で人気がある。
「どうしよっか」
日比さんが顎に人差し指を当てる絵が浮かぶ。
「どうしましょうか」
平静な僕だったが、これから二人きりの空間に長居するかと思うと、激しい緊張が胸を握り潰す。
「困ったね。携帯もってないよね」
「すみません。持ってません」
「そっか」
しばらく沈黙が続いた。日比さんの息遣いを数える。吸った息なのか、吐いた息なのか。考える。わからない。何度数えたのかもわからなくなる。また、初めから数え直しだ。
すーっ、すう。すうっ、す
日比さんの息が止まる。
「あのね、ずっと言いたかったことがあるの」
明確な距離感が掴めない今、日比さんの声が恐しく近くに聴こえる。
鼓膜を突き抜けた振動が僕の心拍数を更にあげる。
「なんですか」
すーっ。す。
「私ね、結婚するの」
行き場の無い気持ちが僕を襲う。上がった心拍が耳の裏を何度も打つ。その速かったノックは次第にゆっくりと、しかし大きくなる。
「おめでとうございます」
抑えきれなかった何かが震えとなって伝わってしまった気がする。
「でもね本当はね、まだ迷ってる」
「どうしてですか」
すっ、すー。ス、ス、ス、ス。スッ。
「ワカンナイノ」
日比さんの声がひび割れる。途端、心臓が跳ねた。そして、一気に落ちていく。下まで。
「ワカンナイノって訊いてるの」
張った声量が落ちていく僕を捕まえる。
日比さんは今何を見ているの、何を。何か聞いてるの。何を。
「わかるまで教えるから。黙ってて。黙って。黙れ」
暗さが滲む。歪む。止まらない。震える。
「はやく、ねえ」
何処からか足首を掴まれる。ギリと強く、強くなる。右、左、左右。上に上がってくる。昇る。脛、脹脛、膝、腿、腰、臍、肋、肩。
「日比さん」
はーっ、はー、はー。
「なあに」
聴こえる、側にいる。日比さんが。いる。甘い匂い、あの弾ける匂いが。ある。鼻腔に付く。細い髪が腕を柔らかく刺す。そのまま表面を走る。綺麗な痒みが心地よい。
ハー、はー、は、は。
肩が強く掴まれる。
「ね、なあに。なあに。なあに」
食い込んだ指が何度も何度も背中を壁に打ちつける。日比さん。日比さん。
「あははは。はやくしようね、ね」
さらっと離された両手が静かに腿に乗る。五指が僕の腿を叩く。親指、人差指、中指、薬指、小指。トントントントントン。トトトトトン。トントトントントン。トトトトトン。トトトトトン。トン、トントントン。そのまま爪を立てると、内腿を滑らせる。円を描いて駆ける。少しずつ欲望が立つ。別の甘みを含んだ髪が近い。
ハー、ハー。
「ね、どんな気持ち。教えてよ」
その甘みがゆっくり近く濃くなる。首筋を冷たさがなぞった。舐められる。そのまま上に這う。ゆったり這う。繰り返し繰り返す。上に這う。耳元で唾液をちゅっと啜る音が欲望を威嚇する。温かい。耳の周りを這う。何周も何周も。頰に髪が触れる。毛先が首を捲る。爪が腿を、円を、描く。熱い欲が僕を包む。
「日比さん」
日比さんの下に手を伸ばす。タイツの生地を確かめるように触覚を効かせる。両脚の内側からスカートを捲るように手を伸ばす。
はーっ、はっ、はー。
「だめだよ」
あなたは僕の両手を奪う。
ふっ、フー、フー。
「ねえ、答えは。コ、タエは」
僕は息をのむ。応えられない。
あなたはフーーっと、最後の息を吐く。
点滅が再開する、止まった点滅が光を観せる。数え終わったそこにいつものあなたは残っていなかった。目が眩むような酷い白は僕とあなたを元に戻した。
そして、また動き出したエレベーターは、29階に。
僕は日比さんの冷たい残滓を指でなぞった。その爪痕も何度も何度も確かめた。
何も残ってなかった。
エレベーター 第3の男 @lowgreen721
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