雨の語り場
篠岡遼佳
雨の語り場
しとしと。グレーの曇り空から、細い雨が絶え間なく降りかかる午後。
この季節特有の冷たい雨だ。頭頂の耳先が痛いほど寒い。
ここはレイクウッドの森を越えた先、丘の上にある少し田舎のジャスパーの村だ。
彼は両手で包み込むようにマグカップを持ち、窓を見ていた。
特徴的な銀色にピンと立った狼の耳と、同じ色をしたほったらかしの長い髪。
琥珀の瞳は、旧きものの血を引いている証拠だ。
白衣――のような、薄手の上着の前を閉じ、ふーふーと息を吹きかけて、湯気の立つハーブティーを飲む。じんわりと腹底から暖まっていくのを感じる。
一息つくと、彼はカップをテーブルに置き、いつもどおり独り言ちながら店の入り口へ向かった。
そこには「ルーフの診療所 本日開店」という木札が下がっている。
「さて、今日はもう閉めようかね。お客さんはもう来ない――」
ばん!
「さむいさむいさむい~~~~~~!! ルーフ、寒いわ!!!」
「おっとっと、来たのかい、エーニュ」
「来たわよっ、寒いからとにかくお茶をちょうだいっ」
いきなりドアを開けてまくし立てるのは、水色の長い髪をした少女だった。
かなり薄着で雨の中やってきたらしい。唇まで寒さで血色が悪くなっている。
「さあ、このタオル使って。ちゃんときれいだよ」
「ルーフが洗濯好きなのは知ってるわ!!」
「さっきからなんだか、ちょっと声が大きくないかい?」
「叫ばないと寒いのよ!!」
暖炉近くに椅子を置き、そこに少女を招く。
エーニュはさっさと席に着くと、タオルで丁寧に水滴を拭った。火に手を向け、暖める。
「はい、お茶」
「あら、ありがとう、早いわね」
「どういたしまして」
先ほどのルーフと同じように、両手で湯気の立つカップを持って、ふーと息を吹きかける。
こくこくとしばらく喉を動かすと、「ぷはっ」と呼吸をして彼女は笑顔になった。
「やっぱり専門のお医者様が作る薬湯は違うわね。なんか滲みるわ」
「うーん、ふつうのハーブティーなんだけどな。都会だともっといろんな種類があるよ」
「それでもここじゃあ最新技術よ、ルーフ先生?」
「先生はやめてほしいなあ……」
頭頂の狼耳を、へな、と垂らして、ルーフは困った顔で大げさだと手を振った。
「そりゃね、『あれ』があったから、場数は踏んでるかもしれないけど、使える魔法だって大したもんじゃないんだから」
「『あれ』から帰ってこられただけでも、充分実力があると思うんだけど」
「――運がよかったのか、悪かったのか――」
再びカップに口をつけながら、ルーフは一瞬過去を見る目をし、しかしすぐにいつもの柔和な目元に戻る。
エーニュがルーフに視線を送りながら、また茶に息を吹きかける。
「今はお医者さんと、村の相談役でしょ。バリバリ現役な魔法士でもあるわけだし」
「でも、相談役って言っても、ほんとに『相談されるだけ』だからね? 一方的にたくさん話してもらって、それにちょっと相づち打ってるだけだよ?」
「それでも、みんないろんな不安とか困りごとが解決してるって、森の方でも噂になってるわ」
「うーん、そこまで言われるとなぁ……」
苦笑して、エーニュの隣に座る。
「最近は、読み書きを教えてくれないか、って言われてて」
「すごいじゃない。期待されてるんだ」
「それに応えられるかちょっと不安かも」
「ルーフはいつもそうね。なんだかんだ足踏みして、でも一歩進むとどんどん道を作っちゃう」
エーニュは信頼のこもった青い瞳でルーフを見た。
「こんな雨の日でも、ちゃんと診療所は開店してるし?」
「そうだね……、ここを開くときも、村長さんたちにお願いされて、迷って迷って、でもこの村に決めたんだった」
「でしょ? ルーフはえらいえらい」
「それ、子どもあつかいでしょ……」
なでなで、と銀髪と狼耳を撫でられながら、ルーフはまた困ったような顔をした。どうやら癖らしい。
「ところで、エーニュ、この雨はいつまで降るのかな?」
「それは個人的に聞いてる? それとも季節の精霊として?」
小首をかしげて、とがった耳朶を持つエーニュは尋ねた。
ルーフは首を振り、
「個人的に。耳が冷たくてさ……けっこう古傷も痛むんだ」
「いしゃのふよーじょー」
「ちがいますー」
「ふーん。ま、個人的にだったら答えてあげる。今日の雨は明日まで。明日からはすこし晴れるけど、このまま季節は進むから、雪が降るようになるわ」
「そうか……」
ルーフは自分の左手を見た。
「麻痺って、治らないの?」エーニュが、薬指と小指の動かないその手を見て言う。
「いつかは治るよ。でも、まあ、『あれ』の後遺症が、この程度で済んでよかったかな」
「でも、足は……?」
二人は、壁に立てかけた杖に視線をやる。
ルーフはしかし微笑みながら、
「動かせないわけじゃないから、いいんだ。生きていける。村のみんなのおかげでね」
「そう……」
一瞬、焚き火のはぜる音が過ぎた。
「――『あれ』は、もう二度と起こってほしくないわ……。『繋がった門』が失われた以上、もう『あいつら』はやってこないと思うけれど」
「ああ、必要のない戦いの道具ばかり増えてしまった。ほんとうに、『異世界人との遭遇』というのは、恐ろしいものだよ……」
「うん、だから、あなたが生きて、お医者様をやっているというのは、とても尊いことだと思うわ」
「褒めすぎだ……」
「ほんとのことよ」
にっこりと微笑むエーニュは、もう寒さの影を残していない。
もう一度、いつものように親愛の情を込めてルーフの頭をゆっくりと撫でる。
もうすぐ冷たい雨は止むだろう。
雨の語り場 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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