第29話 勇者との戦い

 雨霰と降り注ぐ剣戟を、リダールは易々と捌く。リダールの実力もあるけれど、私でも分かるわ。怒りに我を忘れたルシオンの動きは単調すぎる。


 強化された体も、扱いきれていない。せっかくの怪力なのに、力が剣にほとんど乗っていないわ。


 冷静に、攻撃を受けることに徹していたリダールが、ふん、と鼻で笑った。



「この程度で俺を殺そうなどと、よく吠えられたものだな」



 光の剣を大きく薙ぎ払い、ルシオンと距離を取ったリダールが、そこで初めて攻撃に転じた。


 ぱちりと指が鳴る。溢れ出した大量の水が美しく揺らめき、幾本もの槍を形作る。



「行け」



 号令と共に水槍がルシオンに殺到する。顔を引きつらせ、それでもルシオンは剣を振るった。体に裂傷を作りながらも、水槍を切り裂き、叩き落とす。


 よくよく見れば、剣にもうっすらとルシオンの魔力が纏わりついているわ。拙い魔力コントロール。けれどルシオンは、確かに魔力の使い方を覚え始めている。


 私が気が付いたのだから、リダールが気が付かない訳がない。魔法攻撃をやめて、面白そうに呟いたわ。



「魔族化して間がないというのに、魔力の扱いが上手いことだ。本当に自覚していないのか?」



 殺気を全身に漲らせていたルシオンが、さらに不愉快そうに顔をしかめた。



「魔族化? 訳の分からないことを言うな!」



 大きく踏み込み、一閃。鋭いルシオンの一撃をさらりと避けて、リダールは再び指を鳴らす。ぱっと空中で咲いたたくさんの花が、風に乗ってルシオンの目を眩ませた。



「こんなもの……っ」



 華やかな花吹雪も鉄の剣で切り払い、視界を確保したルシオンが、大きく瞠目するのが見えたわ。



「ひらめき、きりさき、とどろく。天より与えられし祝福と試練。逃れること叶わぬ災厄。俺の心のままに、万雷奔流花開け」



 普段は何でも無詠唱で済ませるリダールが、淡々と詠唱を紡ぐ。緩く結んだ黒髪が、立ち上る魔力に乗ってふわふわと揺れた。



「フルメ・ミーレ」



 バチリと爆ぜる音。やがてそれは耳をつんざく轟音となる。思わず耳を塞いだルシオンの周囲に散ったたくさんの花。それらめがけて、無数の雷が降り注いだ。


 嫌になるくらい正確に、ルシオンの周囲を雷が灼く。私や他の人に被害が及ばないのは、リダールがちゃんと守ってくれているからね。音も光も、魔法の規模に比べてとても小さいわ。


 でも、直接攻撃を受けたルシオンにとってはそうではなかったみたい。雷撃が止み、ルシオンの体に焦げ跡はなかったけれど、ほとんど自失状態だったわ。


 呆然と座り込むルシオンにゆったりと歩み寄り、リダールは冷たい目で見下ろした。



「まだやるか?」



 ルシオンだって、分かっているのでしょう。リダールが手加減していなければ、ルシオンはここで死んでいた。手を抜き、周囲を守り、それでもなおルシオンを圧倒した、魔王の実力。リダールが強いのも、ルシオンでは及ばないことも、最初から分かっていたわ。


 なのに、ルシオンはまだのろのろと剣を持ち上げようとする。その剣も、すぐにリダールが弾き飛ばした。



「いつまで妄想に浸っているんだ。セレアはお前の物にはならない。決してな」



 リダールの宣言は強い響きを孕んでいて、胸がどきどきしたわ。場にそぐわないのは分かっているけれど、彼の怒りが私のためだと知っているから、どうしてもときめいてしまう。


 リダールの隣に並んで、体を寄せる。そして、自分の妄想から逃れることのできない、可哀想なルシオンに声をかけた。



「ルシオン。もう終わりにしましょう。これ以上はもう無意味だわ」



 魔族と人間が手を結ぶ。それで解決するならその方が好ましいじゃない。誰かが命を犠牲にしなくていいなら、争い続けるよりもずっといい未来があるはずなのに。



「僕は……、魔王を倒して、セレステアと……」


「まだ言うか」



 もはや呆れて笑ってしまっているリダールに、ルシオンが絞り出すような声で叫んだわ。



「なぜ……! 貴様はセレステアと共にいても、なんの得もないだろう……! なぜセレステアを傍に置く、理由を答えろ!」


「理由?」



 初めてリダールが、ルシオンの前できょとんとした顔を見せた。少し幼くて可愛いわ、その顔。そのまま私に視線を移して、ふわりと笑う。



「愛に、理由なんて必要ない」



 私の銀髪を、武骨な手が掬い上げる。流れるようにキスが落とされて、何も感じないはずの髪から熱が広がっていくような気がしたわ。



「リダール……」


「誰かを愛するのに、理由や理屈をつける方がどうかしている。きっかけはあったとしても、そんなものはどうでもよくなってしまうくらい、俺はこの魂でセレアを愛している。この愛に背くということは、自分の魂を引き裂くのと同じことだ」



 だが、とリダールは、漆黒の瞳を細めた。



「ただ一つ言えるとするなら、セレアは愛されるべき人間だ」



 あら? と思った時には、もう遅かったわ。リダールの瞳の奥に、いつか見たのと同じような、燃え滾る怒りがぐらりぐらりと煮立っていた。



「だからな、お前のように、セレアの立場にしか価値を見出さない奴には――、この子の名を呼ぶ権利さえない!」



 リダールが、指を鳴らす。その指先に細やかな作りの鎖が浮かび上がった。細い鎖はルシオンの頭上へ飛んでいき、腕を振り回して払おうとするルシオンの頭に巻き付いた。一度だけ強く発光した鎖は、左耳の上から吸い込まれるように消えていく。



「……あ?」



 何が起きたのか分からず、ポカンと口を開けるルシオン。目に見える変化はないわ。私はリダールの袖を軽く引いた。



「何……、したの?」


「言葉を縛った。奴はもう話せない」



 え、と声を漏らしてルシオンを見た。そのルシオンは、咄嗟に自分の口に手を当てているわ。



「あ、あ……、あぇ?」



 そして、本当に話せないと気づいて真っ青になった。


 声は出る、けれど言葉にならない。ただただ、目に憎悪を込めてリダールを睨むしかないルシオンに、優しい魔王様は嘲笑を見せたわ。



「殺されずに済んだだけ、ありがたいと思え」



 リダールの言う通り、これが国同士の戦争であったのなら、軍の先頭に立ったルシオンは殺されるのが普通だわ。言葉を失った苦しみが一生続くのだとしても、ここで殺されるよりは幾分かマシなはず。戦争にならないように動いたリダールに、ルシオンが文句を言う資格はないわね。



「俺のセレアを傷つけたこと、許すつもりはない。だが、何よりもそのセレアが、人の死を望まない。せいぜいそこに這いつくばって感謝することだ」



 ルシオンが暗い瞳でリダールを見上げた時、凛と張ったクシェの詠唱が空気を裂いた。



「安寧の破壊者、文明の創造主、終わりの始まりに生まれし揺らぎよ、あたしの力になりなさい! ここは竈、薪をくべて。燃え盛る火は永遠に途絶えない!」



 慌ててそちらを見れば、クシェが堂々と胸を張って杖を構えていた。その先には、カリオに拘束されたラートルがいる。


 クシェの杖に嵌め込まれているのは、リダールが用意した新しい魔石よ。今までの物は、魔力を随分と消耗していたから。その大きさと純度に見合った魔力を立ち昇らせるクシェに、ラートルが冷や汗を掻きながら叫んだ。



「この騎士まで巻き添えにするつもりですか! そんな大きな魔法を、人間如きが……!」


「クシェが失敗するはずがないだろう」



 あまりに平然とカリオが言うものだから、ラートルは言葉を失った。



「行くよ! カロル・フラム!」



 そして、クシェの詠唱が完成したわ。ラートルが悲鳴を上げる間もなく、灼熱の業火が吹き上がった。リダールが慌てて障壁を張りなおすくらいに、強く強く燃え盛る大輪の炎。


 カリオとラートルを飲み込んだ炎は、広場の石畳すら溶かしながらなおも勢いを増す。伝わる熱に耐え切れなくなって顔を覆ったところで、クシェはさっと杖を払った。


 あれだけの炎が、一瞬で消え去った。残されたのはぐずぐずに溶けた地面と、ほんのちょっぴり焦げて気絶しているラートルと、無傷のカリオだったわ。


 無言でラートルを見下ろしていたカリオは、壇上の私たちを見上げて真顔で呟いた。



「確かにクシェを信じていましたが、まさか熱も感じないとは思いませんでした……」



 その状態で、羽交い絞めにしているラートルが焼かれたとなると、怖かったでしょうね。当のクシェは自慢げにしているけれど。



「陛下、生かさず殺さず、ですよね!」



 ちょっとリダール、なんてこと教えてるの。目を逸らさないでちょうだい。


 ああでも、これで厄介の種はすべて片付いたわね。あとはお父様をどうにかして止めて、宣戦布告を撤回させなければ。他の国では戦争の準備が進んでいるのだもの、のんびりしてはいられないわ。


 最初からすべて見ていた兵士たちが、どう思うかが分からないけれど……。少なくとも、リダールが彼らをちゃんと守っていたことは認識しているはずよ。きっと、分かってくれる人もいるわ。魔族は人間の敵じゃないって。


 壇上から兵士たちを見渡すと、皆一様に困惑していたわ。控えていた大臣たちは、少し残念なことに気絶しているけれど。彼らもリダールが守っていたはずだけれど、すぐ近くで戦闘が行われる恐怖が勝ったみたい。


 縋るようにこちらを見上げる兵士たち。息を大きく吸い込んで、私は一礼した。



「皆さん、お騒がせしました」



 ざわめく兵士たちに向けて、きっと聞き耳を立てているはずの王都の住民に向けて、魔道具を通して言葉を紡ぐ。



「私のことは知っているはず。セレステア・トゥーリア・パンデリオよ。突然のことで驚いたでしょう。けれど、どうか耳を傾けてほしいわ。信じてほしいとも、ついてきてほしいとも言わないから」



 恐怖や武力で縛ろうとは思わないの。だってそれでは意味がないわ。魔族と人間の溝を埋めるためには、そんなものは必要ない。


 だからただ、語りかけるのよ。足りないかもしれないけれど、届かないかもしれないけれど、私はそうすべきだと思うから。



「私は、皆にずっと、嘘をついていたわ」



 たとえ罵られようと、このパンデリオで、盾として厳しい暮らしを余儀なくされてきた彼らには、知る権利がある。



「私には聖なる力なんてない。私は聖女でもなんでもないわ。私は、取り換え子……。魔族として生まれたのよ」



 胸に下がる魔貴石のペンダントを、そっと両手で包み込む。



「けれど、私は人間を傷つけようだとか、支配してやろうだなんて思わない。それは、マヴィアナ国に住むほとんどの魔族も同じよ。残念ながら、魔族の中にも悪い人はいるわ。彼らは人間であるあなたたちに敵意を向けることもあるかもしれない。けれどそれは人間だって同じことでしょう?」



 考えてほしいの。魔族は敵なのだと、誰かに言われてそれを信じるのではなく。彼らが今の在り方に疑問を抱くきっかけになりたい。



「魔族と人間には、魔力というほんの些細な差異しかないわ。何も変わらないのよ。姿も、感情も、私たちは何もかも同じなの。楽しい時には笑う。悲しければ泣くわ。そして……、そして、誰かを愛する気持ちだって」



 隣に立つリダールが、強く肩を引き寄せてくれた。それだけで、心の底から力が湧き上がってくる。



「私たちの道はいつの頃からか分かたれて、随分と長く争い合ってきたわ。始まりは歴史の中に埋もれてしまった。けれど、戦わずに済む道があるなら、私はそれを選びたいの」



 綺麗ごとだと笑われてもいい。別に悪いことじゃないわ。何もせず、ただ誰かの言いなりになって、閉じこもっているよりもずっと。



「だって……。人が死ぬのは、とても恐ろしいことよ」



 思い出すのは、幼いあの日。初めて自分の罪を知った時。



「憎み合うのではなく、愛し合いたいわ。良き隣人として、お互いを尊重して生きていけたら……。そうしたら、今よりもっと素晴らしい世界を作っていける。私はそう信じているのよ」



 結局愛せなかった街を見渡して、ぼんやりと思う。新しい世界では、私はこの国も愛せているのかしら。



「ここから新たな歴史が始まるの。あなたたちはその目撃者よ」



 ふわふわと夢見心地で、そう締めくくった。まるで私の言葉じゃないみたい。でも、兵士たちは口々に何かを叫び始めた。興奮の熱が波のように広がっていく。


 賛成も反対も、いろんな声が聞こえてくる。反対だけでないのが嬉しい。そんな中、リダールがさっと私の前に跪いた。



「リダール?」



 まるで演劇のように私の手を取り、大仰な仕草でマントを払ったリダールは、よく通る声で名乗りを上げたわ。



「俺の名は、リダール・グンテ。マヴィアナ国の国王で、最強の魔族だ。ここでもう一度、セレステア・トゥーリア・パンデリオ、お前に誓おう」



 整った顔をさらに美しく綻ばせるリダール。



「世界で一番、幸せにすると誓う。だから、俺と結婚してくれ」



 さっきまでの熱狂が嘘のように、広場が静まり返ったわ。兵士たちや、家から出て広場に詰めかけてきた住民たちが、固唾を飲んで成り行きを見守っている。


 そんなに緊張しなくても、私の返事は昔から決まっているわ。



「ええ、もちろんよ!」



 王女のような淑やかさも、聖女のような清らかさも投げ捨てて、私は笑う。顔にかかる長い髪をかき上げて、腰をかがめ、リダールと唇を重ねた。


 驚いたように一瞬だけ目を丸くしたリダールは、けれどすぐに私の手を引いて体を寄せた。そして、腕に乗せるようにして軽々と私を抱え上げる。


 もはや何を言っているのか分からないくらい、民衆の叫びが轟いて、大地を揺るがすようだったわ。けれど、そのすべてが祝福に聞こえるくらい、今の私は満たされていた。


 その中に交じる、絶望を込めた声にならない絶叫。座り込み、言葉を奪われたルシオンが、激しく首を振りながら叫んでいた。


 そんなルシオンに、クシェが近づいていく。そのすぐ後ろに、カリオが案じるような顔つきで控えた。



「ルシオン」



 クシェの呼びかけに、ルシオンがぱっと顔を輝かせる。立ち上がって、まるで甘えるようにクシェに駆け寄って。


 その顔面に、魔王城での宣言通り、クシェの拳が突き刺さったわ。


 細いクシェの手じゃ、大した衝撃はなかったでしょうけれど。それでもルシオンはよろめいて、信じられないという顔で幼馴染の少女を見つめた。



「よくもあの時、あたしのこと見捨ててくれたね。あんたみたいな女の敵、あたしも姫様も、大っ嫌いよ!」



 裏切られた悲しみを怒りに変えたクシェの叫びに、ルシオンはカチンと固まった。それを呆れた目で見ながら、カリオがクシェの拳を優しく撫でる。



「クシェ、手が赤くなっている」


「これくらい平気です!」


「平気なわけがないだろう。まったく、本当に殴るなら俺が代わりにやったのに」


「……カリオ様」



 頬に朱を散らせたクシェを見て、カリオまで赤くなる。見つめ合う二人は、あっという間に周りの状況を忘れたみたい。


 ――その初々しいやり取りが、止めになってしまった。



「あ、ぅ、あ」



 突然呻いたルシオンが、頭を抱えて崩れ落ちる。はっとしたカリオがクシェを連れて飛び退ったのと同時に、丸くなったルシオンの背中が、ぼこりと膨れ上がった。


 祝福なのか罵倒なのか分からなかった民衆の叫びが、悲鳴一色に塗り潰される。恐怖の声を一身に浴びながら、ルシオンの体は膨張し、際限なく大きくなっていく。着ていた服がいとも簡単に千切れて飛び散った。


 ぼこぼこと肉を幾重にも纏わせながら、太った足が石畳を割り、腕が演壇を叩き壊す。リダールに抱き上げられたまま、巨大化し続けるルシオンから距離を取った。


 醜く、悍ましい、肌色の巨体。大きな肉の塊だわ。その全体に、異常なほどの魔力が駆け巡っている。


 また魔力が暴走したのよ。それも、悪い方へと。無意識に体を強化していた魔力が、制御不能なほどに暴れ狂っている。



「全員広場から出ろ! 誰もそいつに近づくな!」



 リダールが障壁を張りながら人々に呼びかけるけれど、逃げ出せた人は少なかった。恐怖に身を竦める彼らが、一つの結論に達するのは早かったわ。



「あ、あれが魔族の、本当の姿なんだ!」



 誰かの叫びを皮切りに、一帯が凄烈な憎悪に満たされた。



「やはり魔族は敵なんだ!」


「俺には分かるぞ、あの激しい魔力が!」


「もうおしまいよ、魔族が私たちを滅ぼすんだわ!」



 違う、違うのに。分かり合えるのに。そんな私の訴えは、狂乱する彼らには届かない。


 せっかくここまで来たのに。うまくいきそうだったのに。


 もはや自我もなく暴れるルシオンの腕が、人々の上に振り下ろされる。それを防いでいるのは魔王であるリダールなのに、民衆はそんなこと関係ないとばかりに魔族への憎しみを叫ぶ。



「どうすれば……」



 五倍ほどにも膨れ上がったルシオンが、ゆっくりと歩き出した。王城を背にして、パンデリオの王都へと。


 リダールが舌打ちして、ルシオンの前に分厚い障壁を作り直す。愚鈍に突っ込んだ巨体が、たたらを踏んで地面にひびを入れた。



「魔法で縮め……、いや、それだと圧縮された魔力が大爆発する。どうにか魔力を外に発散……、攻撃を加えれば自動で迎撃するか? 駄目、だな、街に被害が出る……」



 リダールが対処法を考えているわ。ああだけど、多分犠牲の出ない解決方法なんて存在しない。


 一番犠牲が少なく済む方法。あるじゃない。私は何を躊躇っているのかしら。



「リ、ダール」



 出した声は震えていたわ。それだけで、リダールには分かったみたい。静かな瞳が、私を見つめる。



「セレア。それはしなくていい」


「だけど……」


「やるなら俺がやる」



 いいえ、力づくで止めれば、少なからず逃げ切れない人が出てしまうわ。


 私がルシオンの魔力を奪えば、一瞬で終わる。犠牲はただ一人、ルシオンだけで済むのよ。もうそれしか方法はないわ。誰の血も流させない為には、私がやるしかない。


 ――だけど、怖い。


 怖くて仕方がない。人を殺すのは、こわいわ。動かなくなった体、光を映さなくなった瞳、そこにもう命がないと、ひと目でわかる置き物の姿。


 こんな情けない私に、できるのかしら。なんて、言っている場合じゃないの。



「……私が、やらないといけないのよ」



 だってきっと、ルシオンがこうなってしまったきっかけは、私なのだもの。


 ひとつ息をついたリダールが、呻き声を上げながら前進しようとするルシオンを振り仰いだ。獣のような低音が体を揺さぶる。


 その姿をしばし眺めたリダールは、決意を固めたように頷いて、私を地面に下ろした。



「大丈夫だ、セレア」



 そして、思いがけないことを言い出す。



「落ち着くんだ。何も怖いことなんてない。セレアなら、その力をちゃんと使えるはずだ」


「ちゃんとって……」


「ルシオンを殺さずに、最低限の魔力以外を奪うんだ。セレアは魔力のコントロールが上手いから、きっとできる」



 リダールの声はこんな時でも優しい。



「無理よ、これは魔族を殺す力なのよ」


「いいや、それは魔力を操るための力だ。セレアはほんの少し特別で、人の魔力まで操れるだけなんだ。だからセレアが心から信じていれば、ルシオンを殺したりしない」



 私は弱々しく微笑んだ。リダールって、私に対して隠し事が出来ないのよね。


 分かってるわ、私が決意できるように、私の背中を押すために、リダールが嘘をついてくれていること。仮にリダールの言うことが本当だとしても、今まで命と一緒に魔力を奪ってきた私が、この一度きりを成功させられる確率なんて低いわ。


 けれど、けれどね? 心から愛する人がそう言ってくれたのだから……。その言葉を信じるのなんて、簡単な事だわ。



「言っただろう、セレアは何も心配しなくていい」



 リダールは私を抱き締めて、耳元で優しく囁いた。



「もしルシオンを殺してしまったとしても……。俺が一緒にその罪を背負う。俺たちはこれから先もずっと、二人で歩いていくんだから」



 罪深い聖女。それが私。それでもリダールが隣にいてくれるなら。



「……ありがとう、リダール。どうしてかしら。あんなに怖かったのに、今はとても、心が穏やかだわ」



 きっと大丈夫だと、なんの根拠もなく信じられるくらいに。



「そうか」



 綺麗に笑ったリダールと、手を取って向かい合う。人とは思えないくらいに膨れ上がり、ただただ暴走するだけの巨人と化したルシオン。それから、魔族を滅ぼせと声高に叫ぶ人々。


 すべて丸く収めてみせるわ。だって私は、自分では望んだことなんて一度もないけれど、それでも、救国の聖女と呼ばれたんですもの。



「行こう、セレア」


「ええ、リダール。ずっと、二人で」



 手を繋いで、並んで、どこまでも。


 胸元の魔貴石が、淡い輝きを帯びる。今までに奪ってきた膨大な魔力を握り締めて、私は何をすればいいのか唐突に理解したわ。


 魔族というだけで殺さねばならない立場が、それが出来てしまえるこの力が、嫌いだった。私は私のことが、大嫌いだった。


 リダールの傍だけが安穏の地だった。彼の隣に居られないなら、死んでしまいたかった。彼のいない世界なら、存在する価値もないと思っていた。


 けれど、誰も殺さなくて良くて、そしてリダールの隣にいられる世界なら……。そんな世界なら、私はもっと幸せになれると思うの。


 やっぱり、ダメね。私は聖女になんて向いていない。


 それでいい。それがいいのよ。



「リダール、愛しているわ」


「俺も愛してるよ、セレア」



 ルシオンの慟哭するような咆哮を合図にして、私はすべての魔力を解き放った。


 魔貴石が手の中で砕け散る。そして、世界が白く染め上げられた。






 その日。パンデリオの王城から上がった光は、無数の流れ星となって世界中に降り注いだ。


 光を浴びた人々は穏やかな顔で夢へと落ちた。


 そして変化は訪れる。誰も気づかないうちに、ゆっくりと、けれど確実に。


 世界が塗り替えられていく。

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