第21話 カリオの敗北
カリオ・トゥーリアの人生で、これほどまでに無力を痛感したのは、後にも先にもこれっきりだった。
カリオたちは、焦げ付いた空き倉庫から魔王城へと連れて来られた。転移魔法というのは本当に一瞬で移動するらしい。眠ってしまったセレステアを抱えた魔王リダールが足を踏み鳴らすと、瞬きの間に景色が変わっていた。
パンデリオの王城に勝るとも劣らない、むしろ勝っている豪華絢爛な大広間。床に敷き詰められたタイル一つ一つにも、繊細な細工が施されている。膝をついたまま呆然としてその模様を見つめていると、待ち構えていた魔族の兵士らしき男たちが周囲を取り囲んだ。
「セレアの客人だ。丁重に扱え」
リダールの一言で、警戒態勢が解ける。一緒に転移してきた過激派の面々は、次々に縛り上げられて連行されていった。
そのままどこかへ去ろうとするリダールの背を見送りかけ、カリオは我に返った。
「魔王リダール!」
衝撃的なことが多すぎて、喉にうまく力が入らない。萎びた声だったが、リダールは足を止めた。
唾を飲み込んで、片膝をつき胸に手を当てる、騎士の礼を取る。
「魔王、陛下」
小さなどよめきを無視して、カリオは振り返ったリダールを見上げた。
「謁見を求めます。俺たちには、話し合いが必要です」
セレステアに見せていたのとはまったく違う、冷たい視線が降り注いだ。容赦なく叩きつけられている、これは殺気か。いともあっさり敵の王に膝をつく騎士を、信用できないのは当然だ。
「名誉あるパンデリオの騎士が、そう易々と国を裏切るとはな」
上辺だけに笑いを乗せた声が、ちくちくとカリオを突き刺す。だが、そんな嫌味など痛くも痒くもない。
「国はどうでもいい。俺は姫様の騎士だ」
カリオが忠誠を捧げる相手は、とうに決まっている。その唯一無二の主が、故郷を捨てて魔族を選んだ。ならば、カリオのやるべきことは一つだ。
「姫様が幸せになるためならば、名誉など犬にでもくれてやる」
初めてリダールの顔つきが変わった。少し虚を突かれたように目を丸くした後、何やら考え込む様子を見せる。そこへ食いついたのは、クシェだった。
「あたしも! あたしも、姫様と一緒に!」
カリオとは違い、勢いに任せて名乗りを上げたようだった。胸の前で握りしめた拳が小さく震えている。
ルシオンを追いかけてきただけの、ただの村娘だ。この旅で心境の変化があったとはいえ、魔族側に寝返るなどそう簡単にできることではない。
それでも、クシェは撤回をしなかった。強い決意を秘めた瞳でリダールを見つめている。
その横顔に一瞬目を奪われたが、すぐにカリオの勘が警告を発した。体が動くままにクシェの前に立つ。
飛んできたのは聖剣の柄だった。それを叩き落とし、ほぼ同時に突っ込んできたルシオンの足を払って組み伏せる。
じたばたともがくルシオンは、血走った目でリダールと、カリオたちを睨みつけた。
「セレステアの危機に、何もしないなんて! それでも騎士かっ! 君もだ、クシェ! 何のためについてきたんだ、魔王を殺すためじゃないのか!」
この男は何も分かっていない。セレステアは自分の意思でリダールを選んだのだ。カリオはそんな主人について行くと決めた。そしてクシェが一行に加わったのは、ただルシオンの傍にいたかっただけだ。
ぎりぎりと噛み締めた歯が鳴る。何も分からず、何も知らず、ただ自分の夢見る幻想ばかりを追いかけて、栄光にしか興味がない。世間知らずの勘違い男だ。
呆れた目でルシオンを見下ろしていると、リダールが嫌悪感をありありと滲ませて吐き捨てた。
「その空っぽの脳みそによく刻み込め。お前の妄想が現実になることは、絶対にない。お前は、英雄にはなれない」
目を見開いたルシオンは、その綺麗な顔を憎悪の色で染め上げた。歯を剥き出して唸り声を上げ、拘束を振り解こうと暴れ狂う。
「殺してやるっ、お前だけは殺すからな、魔王!! セレステアは、僕のものだッ!」
ルシオンはカリオに及ばない。それは当然のことだ。小さな村で魔物退治をしていただけの若者と、国の騎士団で研鑽を積んだカリオとでは、培った経験が違いすぎる。
本当は、初めからそうだった。ルシオンは国一番の強者などではない。カリオだけでなく、勇者選抜に出ることを許されなかった騎士や兵士たちに、ルシオンは実力で劣っている。
パンデリオ国王は、国の戦力がわずかでも欠けることをよしとしなかった。使い捨ての勇者を選び出し、最低限聖女だけは帰って来られるように、専属の騎士を付けた。騎士団でも指折りの実力を持つカリオを。
旅の中でカリオが指導していたとはいえ、この短期間で腕が上がるなら誰も苦労はしない。
だというのに、何故だろう。上から押さえつけているはずのルシオンが、カリオの体を押し返している。
カリオのこめかみを冷や汗が伝った。膂力に優れていることは選抜試合の時から知っていたが、ここまでの怪力だったとは。
力負けし、カリオの体が弾き飛ばされる――、と同時に、ルシオンの体を光の鎖が取り巻いた。
「この男だけは牢へ。後の二人には部屋を用意しろ」
呆気なく捕まったルシオンは、暴れながら引きずられていく。聞くに堪えない口汚い罵倒が、少しずつ小さくなっていった。
「カリオとクシェだったな。こちらへ来い」
先ほどはセレステアだけを連れて立ち去ろうとしたリダールが、カリオたち二人を呼んだ。よろめきながらも立ち上がったクシェに手を貸して、さっさと歩いていくリダールの後に続く。
大広間を出て、魔法石の燭台がずらりと並ぶ廊下を進む。魔王城は、随分と明るく清潔な印象の城だった。パンデリオでは暗くおどろおどろしい雰囲気の城として語られることが多かったが、そんなことはない。美しく、それでいて歴史を感じさせる荘厳な城だった。
広い窓の外を見ると、どうやら随分と高い場所にいるようだ。これほどまでに高い建物は、マヴィアナ国外にはないかもしれない。
無言のリダールに連れて行かれたのは、ここで見た中でもひと際立派な扉の部屋だった。きらきらと輝く石が装飾されていて、宝石かと思えば魔石だった。どうやら魔法による守りが施されているらしい。
「ここは……?」
「俺の私室だ」
その返事にぎょっとしたのはカリオだけではなかった。興味深そうにきょろきょろと辺りを見渡していたクシェも、ひきつった顔で固まっている。
「城のメイドたちが張り切っていて、セレアの部屋がまだ準備できていないんだ。ひとまずベッドで休ませたい」
「なぜそれであなたの部屋に連れてくることになるんだ……!」
セレステアを休ませるのは賛成だが、何も魔王の部屋でなくともいいはずだ。しかしリダールにはほかの選択肢は無いらしく、不思議そうな顔をしただけだった。
「……ああ、そうだ。誰か、二人の手当てを」
挙句、別のところに気を回している。カリオはともかく、クシェは誘拐されていたままの風体だったから、その気遣い自体はありがたいが。
もはや何を言っても無駄だと、カリオたちは諦めた。リダールに促されるまま、彼の部屋へ入る。
よく考えずとも、この城の最も重要な部屋だ。だからこその魔法石による守りだろう。だがリダールは完全に味方と言うわけでもない人間二人を入れることに、何ら抵抗を感じていない。
試されている、というよりも、意に介していないのだ。万が一すらありえないと思っている。そしてそれは正しい。たとえここで二人がリダールに襲い掛かったとして、髪の毛の一本すら傷つけることはできないだろう。
魔王討伐作戦なんて、馬鹿げた考えだ。この世界に、それを成し遂げられる者などいやしない。聖女セレステアを除いては。
そのセレステアは、丁寧な手つきでリダールのベッドに寝かされている。眠るセレステアを見守るリダールの目は、優しく蕩けるように甘ったるい。砂糖と蜂蜜を煮詰めたような瞳は、けれどカリオたちに向き直った時には冷たい静けさを宿していた。
「座れ」
示されたのは向かい合わせに置かれた応接のためのソファー。ぎくしゃくと腰を下ろすと、メイドらしき女性がさっと寄ってきて、クシェの手当てを始めた。手当て、といいつつ、魔法による治療だ。カリオは特に怪我をしているわけではないので、治療を断った。
身の置き所に困って、とりあえずクシェの治療を眺めていたカリオだったが、「さて」というリダールの声に体を強張らせた。
「お前たちが何を考えているかはどうでもいい」
向かいのソファーでゆったりと足を組む魔王。
落ち着いて見れば、リダールは男の目にも惚れ惚れするような美丈夫だった。ルシオンも整った顔をしていたが、リダールと比べれば霞んでしまう。精悍な顔立ちは一分の乱れもない。長い髪と瞳は闇夜よりも深い漆黒で、まるで吸い込まれるような輝きを纏っている。職人が一生をかけて彫り上げた彫刻だ。愛らしく清楚な美しさを持つセレステアと並べば、まるで絵画のように映えることだろう。
「ただ、ひとつだけ忠告しておこう」
そんな美しい顔が、冴え冴えと冷たい色を宿して、カリオとクシェを睥睨した。
「俺は、セレアのためなら世界を滅ぼす」
まっすぐに、そう言い切った。
そこに躊躇いや気負いはなかった。ただただ、あまりにも深い愛情があるだけだった。
「もしもこれ以上、あの子が傷つけられることがあれば。この世界を火の海に変えて、セレアの憂いをすべて焼き尽くす。俺はセレアとその大切なものだけを守ればいい。手始めに、パンデリオだ。あの腐った国を塵一つ残さず消し去ってくれる」
深すぎるほどの愛は、マグマの如き怒りとなって暴れ狂っている。静謐な冷たさの只中で、漆黒の瞳だけがどろりどろりと蠢く。
「理想は魔族と人間の和平だ。セレアが一番幸せになれる道はそこにしかない。だが、それが不可能ならば……。一番の幸せを捧げることはできずとも、不幸の種をすべて消す」
マグマの怒りを皮膚の下に満たしたまま、セレステアへの愛を紡ぐ美しい姿。ひとたび弾けてしまえば、誰にも止めようのない災厄と化す。
真正面からぶつけられた殺気に、気づけばカリオはソファーにへばりついていた。まともに息ができない。はっ、はっ、と浅く呼吸を繰り返して、なすすべもなく眼前の絶対的強者を仰ぐしかない。
「お前たちに期待はしていない。殺せばセレアが悲しむだろうから保護はしてやろう。だがそれだけだ。俺は無能を部下として置く気はない」
それはつまり、セレステアに仕えることも許さないという意味だ。保護と言いつつ、実質は捕虜の扱いになるのだろう。監禁場所が牢から客室に変わるだけだ。
それでは意味がない。だから反論したいのに、威圧された体はまともに動かない。唇の間からは微かな呼気が零れ落ちるだけだ。リダールから発せられる殺気は一秒ごとに重くなり、ともすれば実体を伴っているのではないかと思うほどにのしかかってくる。振り払えない、視界が霞む、息が吸えない。
隣にいるクシェはカリオ以上に酷い有様で、ほとんど意識を飛ばしかけていた。庇ってやりたいのにそれもできない。リダールがすっと目を細める。
「――りだーる」
大きなベッドの上から、細い声がした。
「セレア?」
重苦しい殺気が一瞬で霧散した。目を見開いたリダールが、素早く立ち上がってベッドに駆け寄る。
「まだ寝ていろ。ずっと気を張っていたから疲れているだろう」
「カリオとクシェを、あまり、いじめないであげて……」
半ば夢現な訴えに、一拍おいてリダールが苦笑した。
「分かった、セレアがそう言うのなら」
「ぜったいよ?」
白い手がシーツの海から持ち上がって、リダールの頬に添えられる。まるで引き合うように二人の影が重なった。
やがて穏やかな寝息が聞こえてきて、セレステアが再び眠りに落ちたことを知った。
戻ってきたリダールは、もう殺気を放ってはいなかった。あのどろついた愛情をどこに隠したのか、ひたすらに穏やかな顔でゆったりと告げる。
「部屋が用意できたら下がれ。後のことはセレアと相談する」
さっきまでの魔王はどこに行ったのか。背筋を走った寒気に体を震わせながら、カリオは必死に声を上げた。
「ま、待ってくれ、聞きたいことが、ある」
「なんだ?」
「あなたは、なぜ、姫様にそこまで、心を傾けるんだ」
これだけは聞いておきたかった。敵国の王がなぜ、唯一の天敵となり得る相手を守るのか。その返事如何で、カリオはこの場で剣を抜かなければならない。
きょとんとした魔王は、そうすると普通の青年のようだった。そして、どこか自嘲気味に眉を下げた顔も。
「俺は昔、セレアの心を壊した」
「……なんだと?」
「セレアが魔族であると、初めに指摘したのは俺だ。そのせいで同族殺しの悪い聖女だと、セレアは一度絶望に暮れた。私の目を覚まさせてくれたんだと言うが、俺はあの時のことを忘れない。絶対に」
もしかしたらこの魔王は、自分の存在すら消してしまうのかもしれない。それがセレステアのためになるならば。
カリオは甘い敗北を知った。彼にそこまでの覚悟は、なかった。
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