第15話 夜の女子会

 仕方なく戻った宿で、私は予想外の相手に出迎えを受けた。



「おかえり、セレア」


「リダール!」



 借りている一人部屋のベッド脇に、リダールは立っていた。微笑んで腕を広げたリダールの胸に、遠慮なく飛び込む。



「少し、まずい状況のようだから。大丈夫か?」



 心配させてしまったみたい。見下ろしてくる彼の目は、ほんの小さな異変すら見逃さないとでも言うように、熱心に私の顔をなぞっている。肩口から垂れた黒髪の毛先が、私の頬をくすぐった。少し鬱陶しそうに自分の髪を払い除けて、リダールは額にキスをくれる。



「多分、まだ大丈夫よ。だけど、嫌な予感がするわ……」



 今のところは、何も起こっていない。ただ、デムがどう動くか分からないわ。魔石を盗んだという引け目があるから、もしかしたら通報はしないかもしれない。だけど、兵士時代の伝手を使わないという保証もないし、兵士じゃなくても周りの人に話すかもしれない。可能性だけがたくさんあって、どう動くべきかを決めかねている。


 確実なのは、早くこの街を離れた方がいいということだけ。魔導車が夜に出ないことは想定していたけれど、街から出られなくなるなんて思わなかったわ。


 失敗したとほぞを噛む。泥棒を探すとき、ルシオンを連れて行かない方が良かったわ。いえ、魔石なんて放っておいて、すぐに次の街へ移動した方が良かったのかしら。それとも……。


 考えていてもきりがない。思考を追い出そうと頭を振った私に、リダールが案じるような声を出した。



「不安があるのなら、ほかの三人も連れて今すぐ城に行こうか? 一応、その準備もしてきている。セレアは何も心配しなくていい」


「だけど……。何も知らないパンデリオの人に、リダールの国を見せるせっかくの機会なのよ。前に言ってたクシェは、もう心が動きかけてるわ。これがうまくいけば、リダールが望んでいる本当の和平の第一歩になるかもしれないのに……」



 リダールはずっと、魔族と人間が手を取り合う世界を望んでいた。不可能ではないと信じて疑わなかった。だから、私は勇者を連れてこの国を旅することを選んだのよ。


 だって、マヴィアナ国とそれ以外とで、何が違うというの? 人々は同じように笑い合って生活をしている。魔族だから――人間と相容れない異端の種族だからと、蔑む必要性がどこにあるというの。


 私たちは、こんなにも同じだというのに。



「確かにそうだが、セレアの身を危険に晒す必要はないんだ」


「心配してくれるのは、すごく嬉しいわ。でも……」



 控えめなノックの音が聞こえて、私とリダールは体を固くした。後ろ髪を引かれる様子で、リダールがすっと離れていく。思わず手を伸ばすと、柔らかく微笑んだ彼は一度指先を握ってくれた。



「ずっと見守っている」



 空気に溶けるように消えたリダールの姿を名残惜しく思いつつも、私は扉に駆け寄ってドアノブを回した。



「姫様、あの、今大丈夫ですか?」



 ひょっこりと顔を出したのはクシェだった。思わぬ来訪者に、目を瞬かせる。



「クシェさん。どうされたのですか?」


「明日に備えなきゃっていうのは分かってるんですけど、寝付けなくて。それに、これから慌ただしくなるかもしれないから、今のうちに姫様と話しておきたいことがあって……」



 カリオ様には、遅くならなければいいと言われています。


 そう言って、クシェはマグカップを二つ掲げて見せた。文句を言いそうなカリオには、あらかじめ許可を取ってきたらしい。随分と用意がいいわね。



「ホットココアです。姫様の分もありますよ」


「……いい香り。どうぞ、お入りになって」



 照れたように笑ったクシェは、するりと部屋に入ってきてマグカップの中身をこちらに見せた。ほんのりと湯気が立っていて美味しそう。手の塞がっているクシェの代わりに扉を閉めて、一緒に鍵もかけた。



「あたし、ココアなんて祭りの日にしか飲んだことないの。そう言ったら、カリオ様がこれを買ってくださったんです」


「まあ、カリオが?」



 珍しいこともあるものね。何か心境の変化でもあったのかしら。


 マグカップを受け取って、クシェに一つだけある椅子を勧める。私はベッドに腰を下ろして、首を傾げた。



「それで、どうなさったのですか?」



 わざわざ訪ねてくるからには、大事な話のはず。もしかしてルシオンのことかしら。とはいえ、ケンディムの街に入ってからは、クシェからの敵意は和らいでいるような気がしているのだけれど。


 ココアを両手で持って、クシェはまっすぐにこちらを見つめてきた。



「姫様は……、ルシオンのことがお嫌いですか?」



 予想通りの話題、でも内容は予想と正反対だったわ。あと、いきなりすぎて心の準備がまったくできていない。



「ええと……」



 思わず口ごもってしまったけれど、クシェも突然であることは分かっていたみたい。慌てなくていいですよ、とココアを一口飲んでいる。


 私もそれに倣って、マグカップに口を付けた。とても甘くて美味しい。だけどもう少し、苦みが欲しいかもしれないわ。



「……どうして、そう思われたのですか?」



 とりあえず、これを聞かなきゃ話にならないわね。いったいどこでバレたのかしら。


 クシェは何でもないように答えた。



「この街に入る前、呼び名の話になりましたよね。あの時に」


「あの時……?」


「だって姫様、『そわそわするから』ってルシオンが呼び名を変えるのを断ったのに、全然照れた顔をしてなかったから。だいたい、照れてるなら本人にそう言わないでしょ?」



 確かに。なるほど、私が誤魔化しきれなかっただけね。ルシオンがあっさり騙されていたから、行けると思ってたわ。



「ルシオン様は気づかなかったのに」


「姫様、こういうのは女の方が気づきやすいに決まってるじゃないですか」


「……それもそうね」



 特にクシェは、私とルシオンの様子をずっと見ていたでしょうから、仕方ないのかもしれないわね。私も、もっと演技力を磨いておくべきだったわ。


 でも、私ばっかり戸惑うのはちょっと悔しい。どうせならクシェも驚いてほしいと、私はなんでもない顔を取り繕った。



「わたくしがルシオン様をお慕いしておらず、安心いたしましたか?」



 残念ながら、クシェは悪戯っぽく笑っただけだったけれど。



「安心、というよりは、ちょっと不思議に思いました」


「不思議に、ですか?」


「はい。好きでもない相手なのに、結婚は受け入れるんだ、って」



 そんなことか、と一瞬考えてしまったわ。貴族と平民じゃ、結婚に対する価値観が違っていて当たり前なのに。



「わたくしは、パンデリオの王女ですから」



 もしも私が聖女なんかじゃなくて、普通の王女だったなら。きっと私は、何の疑問も持たずにお父様の決めた相手と結婚していたのでしょう。貴族の結婚とはそういうもので、本人の意思が反映されることは、無いとは言えないけど珍しい。


 だけど私は、魔力を奪う力を持って生まれ、聖女として祀り上げられた。それが無ければ、母国を愛する普通の王女としていられたかもしれないわね。今となっては、そんなの絶対に願い下げだわ。



「王女だったら、嫌いな人とも結婚するんですか?」


「国のためになるならば」



 納得がいかない、という顔をしているクシェ。私の本心ではないことを見抜かれているのかと、少しひやひやしちゃうわ。



「貴族の結婚は、政治手段の一つですわ」



 付け加えたけれど、クシェの渋い顔は変わらなかったわ。



「……貴族様って楽しく暮らしてるだけなんだと思ってたけど、実際はそうでもないんですね」


「意外と自由は少ないのですよ?」



 それが当たり前の世界だから、疑問にも思わないだけで。



「たとえ嫌なことでも、国や家のためにやらなくてはならないことも多いのです」


「姫様って……」



 何かを言いかけたクシェは、またココアを飲んでから話を変えた。



「姫様とカリオ様って、ちょっと似てますよね。あ、見た目だけですけど」



 何を言おうとしたのかは気にかかるけれど、クシェはもう話を戻す気はなさそうね。



「ええ、カリオは従兄ですから」


「そうなんですか!? 全然性格は違うのに……」


「ふふ。カリオは血縁ですし、年も近いのでわたくしの遊び相手でした。昔はよく、二人で悪戯をして回ったものです」


「それこそ意外です。姫様もカリオ様も、すごく真面目なのに」


「わたくしはともかく、カリオは騎士になってから固くなりました。もちろん間違ったことは言わないのですが、たまに頑固すぎて困ってしまいますわ」



 あれをやるな、これをするなと、うるさいことこの上ない。心配してくれるのは分かるけれど、子供のようにあれこれと口を出されるのは、やっぱり鬱陶しいと思ってしまうわ。


 でも、この旅ではそれがルシオンに向かっているから、楽と言えば楽ね。ルシオンは不満そうにしているけれど、カリオが言っていることは正しいもの。


 もしかして、あちらはあちらで説教大会が開かれてるのかしら。確か二人は同室だったはず。


 それを口にすると、クシェも微妙な顔をした。



「まあ……。ルシオンは怒られて当たり前のことをしましたから……」



 ええ、庇いようのない失態だったわね。



「ルシオン様は昔から、あのような?」


「そう、ですね。正義感が強くて、まっすぐで。馬鹿なのは本当だけど……。村の皆が、ルシオンが勇者に選ばれたのは当然だって言ってました。魔族を倒して、そうしたら今は貧しい暮らしをしている人たちも豊かになるから、って……」



 徐々に視線を落としていくクシェ。


 手の中のマグカップを見つめながら、分からないんです、と呟いたわ。



「あたしたちが辛い暮らしをしてきたのは、魔族のせいなんだって思ってました。お金も食べ物もなくて、ずっと魔獣に怯えないといけない。でもこの国で見た魔族は、すごく……、普通だった」



 荒れた魔族の国が近いから、貧しい暮らしをしている。そんな前提は、とっくに崩れてしまっている。だって、この国はこんなに豊かなんだもの。


 ルシオンと違って、クシェは馬鹿ではないわ。ちゃんと考えれば分かるのよ。



「本当に魔族は、人間と敵対しているの? 今日のあの泥棒さんは、魔力を持たない人間だって言ってた。なのにちゃんと国民として認められて、一度は兵士にもなってる。そんなの見たら……」



 きっとクシェの心にあるのは、デムのことだけではないわね。二つの街で見た魔族の暮らし、そのすべてが引っかかっている。多分、あの赤ん坊のことも。



「本当は、こんなこと言っちゃ駄目だって分かってるんです。姫様は、魔王を倒すために来たんだから」


「わたくしは気にしませんわ」



 クシェは目を丸くした。



「え?」


「考えるのは悪いことではありません。感じたことは大切になさって。わたくしたちは魔族のことを知らないのですから、戸惑うのは仕方がありませんわ」



 クシェにとってはかなり型破りなことを言っている自覚はあるけれど、どうか魔族に好意的な印象を抱いてほしい。だって彼女とは、本当に仲良くなりたいのよ。


 クシェは少し黙り込んだ後、小さな声で呟いた。



「姫様も……、戸惑ったんですか?」


「ええ」



 もちろん、最初はね。


 ふわりと微笑むと、クシェは安心したようだった。魔王を倒すための旅なのに、魔族に心を寄せたら罪悪感が生まれてしまうわよね。クシェを味方にしたいなら、もっと気を配らなくちゃ。



「……本当は」



 憂いが晴れ、緊張がほどけて、その隙間からぽろりと零れ落ちたような声色だった。



「ルシオンを返してほしい、って話をしたかったんです」


「クシェさんは、本当にルシオン様がお好きなのね」



 場を明るくしようと、少しだけからかうような調子を込めたのに、クシェはそれに否定も肯定も返さない。ただ、苦く笑っただけだった。



「あたしとルシオンは、同じ村で兄弟みたいに育ちました」



 語られるのは、幼い日々の記憶。



「同じ年頃の子供はあたしたちだけだったから、一緒にいるのが当たり前だったんです。あたしの思い出には、全部ルシオンがいます。ルシオンも、多分そう。だから、この先もずっと一緒なんだって思ってました」



 懐かしむような目で遠くを見ているのに、どこか寂しげな声をしているのはなぜなのかしら。



「昔からルシオンは強くて、彼はあたしにとってのヒーローでした。大きくなったら結婚しようって、約束もして。だから……、ルシオンが勇者選抜に出るって言ったときは、信じられなかったんです」



 ……それは、どう考えてもルシオンが悪いわよね。子供の約束とはいえ、結婚を誓った相手がいるのに。



「魔族を倒すために勇者になるんだとは分かっていても、ずっと落ち着かなくて。それで追いかけてきたら、本当に姫様と結婚する気でいるし。腹が立ったけど、でもちょっとだけ理解もできて。だって、村から出て見る世界は、本当に輝いていたから。これなら目も眩んじゃうなって思いました」


「それでも、不誠実なことに変わりはありませんわ」


「あはは、そうですよね。でもやっぱり、あたしはルシオンと一緒にいる未来しか思い描けない……。その、つもりだったんですけど」



 クシェの茶色い瞳が揺れて、再び不安の色が覗いた。



「今日初めて、ルシオンのことが分からなくなりました。確かに魔族のことは嫌っていたけど、あんなに……、あんな風に盲目的だなんて」



 盲目的、というよりも、自分本位なだけなのだと思うわ。ルシオンは自分が正しいと思い込んでいるのよ。自分の心だけが正義を知っていて、世界を導けると思っている。だからこそあんなに自信満々なんだわ。


 そんなもの、軽く突けば崩れ去る藁でできたお城みたいなものなのに。


 重いため息を吐き出したクシェに、私はわざと明るい口調で切り出した。



「実は、わたくしにも結婚の約束をした方がいらっしゃるのですよ」


「え!?」



 素っ頓狂な声を上げたクシェに、「しーっ」と人差し指を立てて見せる。



「ほかの二人には内緒ですわ」


「わ、分かりました!」



 クシェの目がきらきらと輝いている。やっぱり女の子って恋の話が好きよね。お城のメイドたちも、絶え間なく男性たちの噂話をしていたもの。



「とはいえ、クシェさんたちと同じように、子供の頃の約束なのですが」


「そうなんですね! ……もしかして、カリオ様とか?」


「まさか! カリオはわたくしのことを、妹のように思っているのですわ。本当に、いつまでも過保護なんだから……」



 もういい大人なんだから、妹離れしてほしいものだわ。



「カリオ様じゃないなら……」


「わたくしが辛い思いをして落ち込んでいたとき、優しく励ましてくださったの。今はそれが誰なのかお教えすることはできませんが」



 教えたら裏切っていることがバレるわ。



「けれど、わたくしの幸せを一番に考えてくださる、そんな方なのです。だからわたくしも、いつかは、と……」



 私が、普通の王女なら。きっとお父様に言われるがままだった。そしてリダールが魔王でなくても、私たちは結ばれなかっただろう。ただリダールに心を残したまま、意思のない結婚をしていたはず。


 私がパンデリオの聖女で、リダールが魔王だからこそ、今の状況が出来上がったのよ。



「もちろん、それが許されない立場であるのは分かっているのですが」



 すっかり同情的な目をしているクシェに、私は苦笑した。最初にルシオンを追ってきた時には、あんなに私を敵視していたのにね。



「ともかく、先に進まないことには何も始まりませんわ。今は終わった後のことよりも、目の前のことに集中いたしましょう」



 穏やかに微笑んで見せると、クシェも柔らかく笑ってくれた。このまま友達になれたら、本当に嬉しいわ。今まで同性の友達なんて、いなかったもの。


 そんな、優しい時間の流れる部屋に、再びノックの音が響いた。


 結構長く話していたから、カリオが様子を見に来たのかしら。そんな予想は、一瞬で外れたわ。



「僕です、ルシオンです。殿下、今いいですか?」



 カリオに説教されているはずのルシオンが、扉の前に立っているようだった。



「……どうされたのですか、ルシオン様」



 近くにカリオはいないみたい。一抹の不安を覚えながらも、部屋の外に向かって返事をした。



「今日のこと……、その、謝罪したくて」


「カリオに何か言われたのですか?」


「はい。作戦行動についてとか、みっちり……。殿下も怒ってらしたし」



 結局、私が怒ったから謝りに来ただけよね。カリオの説教を、本当に分かっているようには思えないわ。でもこれ以上小言を言っても多分無駄ね。



「今後は十分に気を付けてくださいませ。無事に目的が達成されれば、わたくしから言うことは何もありませんわ」



 鍵をかけた扉の向こうから、安堵の空気が伝わってきた。多少は行動を改めてくれるでしょうし、これ以上目に余る行動をするようなら……。うん、リダールにお願いして迎えに来てもらうしかないわ。


 正直、こんなに早く問題を起こすとは思っていなかったから、どう対応していいかが分からない。本当はもっとこの国を見て回って、クシェだけじゃなくカリオやルシオンにも魔族を知ってもらいたかったけれど。高望みは駄目と言うことかしら。


 魔王城にたどり着くまで、あるいはリダールが迎えに来るまで。油断はできないわね。


 表情を変えずにそんなことを考えていた私だけれど、次の瞬間にはそれらの思考は吹っ飛んでいたわ。



「殿下、よろしければ中に入れてくれませんか?」



 私とクシェは、そっくり同じ表情で固まった。その沈黙をどう受け取ったのか、ルシオンは照れたような声で続ける。



「実は下で、美味しいお酒をもらってきたんです。一緒にどうかな、と思いまして」



 ぞわぞわっと足元から悪寒が駆け上がる。ひぇ、と声が漏れなかっただけマシよ。


 相手が誰だろうと、夜に男を部屋に入れる訳がないでしょう。ましてやそれが、ルシオンならなおさらよ! 例外はリダールだけ。っていうか、お酒まで持ってきて何をする気!?


 ドアノブがガチャリと音を立てる。ルシオンが向こう側から開けようとしている。



「ほら……、いずれ結婚するんですから、ちょっとくらい良いですよね」



 良い訳ないわよ!


 でも、ここで勢いのままに断ったら、ルシオンに不信感を抱かれてしまうわ。魔王城に行くまでは騙し切らないと。


 ドアが枠ごとミシミシ音を立て始めて、私は焦った。怪力にも程があるわ!


 どうやって断ろうかと、停止した頭をなんとか回し始めた時。横から伸びてきた手が、上から私の腕を労わるように撫でた。はっとして目線を落とせば、細かく震える手の中で、ココアが不規則に波打っている。



「ルシオン!! あんた姫様の部屋に何しに来たの!!」



 すっくと立ち上がったクシェが、つかつかと扉に歩み寄って内側から拳を叩きつけた。



「えっ、あ、クシェ!?」



 動揺してひっくり返るルシオンの声。



「もう遅いんだから、部屋に戻るよ!」



 クシェは自分のマグカップだけを持って、こちらに手を振った。



「ごめんなさい、姫様。この馬鹿、回収していきますね」


「え、ええ。ありがとうございます」



 ぷんぷん、と効果音が出ていそうなクシェだったけれど、鍵を開ける前に「あ」と思い出したように笑った。



「姫様、街中にいる時みたいに話した方がいいですよ」


「え? そう、でしょうか」


「はい。なんだか自然な感じで、親しみが持てます。あたしはあっちの方が好きです」



 それじゃあ、おやすみなさい。そう言ってクシェは部屋から出て行った。二人の騒がしい声が、部屋の前から遠ざかっていく。



「……自然な感じ」



 最後に言われた言葉を思い出して、ふ、と笑みが零れた。クシェの目には、そう見えたのね。もちろん、あっちが素であることは間違いないのだけれど。


 嬉しいわ。ちゃんと見てくれているみたいで。


 ルシオンの突撃が無ければ、もっとクシェと話せたのに。寝室を訪ねられたことよりも、そっちの方が口惜しく感じてしまうくらい、クシェとの時間は楽しかったわ。


 どうにも、ルシオンが私に向ける感情が、日に日に大きくなっている気がする。まさかこんな行動をとるなんて、思いもよらなかったもの。……まだ手が震えているわ。


 ルシオンについては今以上に、もしかしたら私が思っているよりも、警戒しないといけないかもしれない。今日の昼に見た危険な思想も含めて。


 すっかり冷めてしまったココアを飲み干して、私はベッドに潜り込んだ。朝になったら、すぐに出発しなくちゃ。予定より遅い就寝になってしまったけれど、体を休めておかないと。


 握りしめた拳を胸に押し付けて、私は無理やり眠りについた。


 翌朝、ルシオンの頬が真っ赤に腫れていたのは、気づかないフリで流させてもらったわ。綺麗な葉っぱの形をしていた気がするけれど、気にしない。あと、ルシオンの部屋の扉に大きなひびが入っていたのも無視よ。


 ……これは嘘。ちゃんとリダールに弁償はしてもらわなきゃ。いくら魔王とはいえ、怒って壊した備品を放っておくのはいけないわ。

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