第2話

 青々と明るく晴れ渡った夜空を一つの流れ星がふいに横切った。

 雪の上に敷かれた遮蔽マントの上にゆったりと仰向けに寝転んでいたナナクサは頭を少し起こすと、星が流れた方角を見やった。しかし流れ星は光輝く天の川に溶け込んで、もう見えなくなっていた。

 ふと隣に視線を移すと、同じキサラ村出身のミソカが小さな両手を胸の上で交差させ、目をつぶっている。彼女が眠っていない証拠に微かに口が動いている。彼女は、この地球しんじゅぼしが雪と氷に閉ざされる遥か以前にあった古代の習わしのとおり、流れ星に向かって願い事をしているのだろうか。

「やっぱり、始祖さまは偉大だね」

 ナナクサは大きく息を吸い込み、再び夜空に視線を戻すと隣に横たわる親友に声をかけた。

「なぜ?」と目をつぶったままのミソカ。

「星が空を横切るあんな短い間に願い事を十三回も唱えることができただなんて、わたしたちにはできるわけないわ」

 応えるかわりにミソカは満足げな表情で横たわっている。それを見たナナクサは勢いよく上半身を跳ね上げると、ミソカに覆いかぶさらんばかりに顔を近づけた。サラサラした薄墨色の髪が細っそりとした頬からミソカの小さな鼻に触れんばかりに流れ落ちる。

「まさか、あんな短い時間に願い事ができたの、ミソカは?」

 祈れたからといって、願いが叶うわけなどない。そんなことくらい大人になろうとしているナナクサも承知している。しかし自分ができなかったことを友達だけができたとすれば話は別だ。迷信を信じてはいないが、ゴクリと唾を飲み込む音を聞かれたんじゃないかと少し恥ずかしくなった。暫しの沈黙のあと、ミソカはおもむろに口を開いた。

「できるわけないじゃないの」静かにそう応じるとミソカは笑った。「できたら、もっと元気な身体になってるよ、私」

 小さな頃から身体が弱く、遊ぶ時もいつも息を切らせて、必死に友だちの後を追っていたミソカを思い出したナナクサは何も言わずに、ドサッと再び大の字になった。そんな彼女にミソカの歌うような声が沁みわたった。

「願い事は簡単には届かないよ」

「…そうね。そうそう届いてたら、願い事を叶える始祖さまだって、たいへんだものね」

 ナナクサはミソカが、また笑っているのに気づいた。今度は楽しそうに声をあげている。

「どうしたの?」

「だって、願い事が届いたからって、御先祖さまが叶えてくれるかどうかだって、わからないじゃない」

「生意気だぞ、小娘」

 互いに信仰心がそれほど篤いわけではないが、願い事のすぐあとで、御先祖さまの力を否定するようなことを言うなんて。

 やはり、わたしと同じように、このデイ・ウォークが彼女にそんな一言を言わせたのだろうか。ナナクサは銀髪に隠れがちな雪よりも白い親友の顔を見つめた。

「『陽は我から星々を隠し 夜は我にそ(星々)を与えたまふ 夜こそ我が友人はらから……』」

「『されど』」と、ナナクサは親友が口ずさんだ昔の詩の後半を引き取って空んじた。「『陽もまた星々の同胞はらから されど我が想ひ誰ぞ知り給ふ』。ツェペッシュの詩ね……」

「うん……」

 遥か昔に生きた一族の若き詩人、史書師かたりべの見習いだったツェペッシュは青々と澄み渡る満天の星空を見上げて何を思ったのだろう。彼もまた自分たちと同じように不安と歓びを抱えながら生き、そしてデイ・ウォークへの第一歩を踏み出したのだろうか。旅の途中で命を落とさなければ、その後、彼はどんな詩を詠んだのだろうか……。

「あの青い夜空を見上げながら何を思ったんだろう?……」

 ナナクサは自分の心を代弁したかのようなミソカの呟きを聞きながら、自身の心に問いかけた。「あなたは、この空を見上げながら何を思う?」と。

「おぉい! みんな!」

 その時、ここが山なら雪崩でも起こしそうなほど大きなドラ声が辺りに響きわたった。昨日から、このデイ・ウォークのリーダーを気取る、ミナヅ村から来たというジンジツだ。

「聞いてんのか?! 出発の時間だ!!」

「あいつ、何なんだろうね」

 ナナクサは若き詩人の失われた未来の旅から続く静かな施策の中から引き戻された。彼女の溜め息混じりの反応に、ミソカもこくりとうなづく。

「でも、まだ二人足りないね」

 ミソカの言うように、出発人数が揃っていない。

 出発が遅いとドラ声を張り上げている逞しい身体つきをしたジンジツ。そしてナナクサとミソカに村からくっついてきた感がある大柄だが頼りなげな気の良いタンゴ。それに、皆と離れたところで一人、黙々と出発の準備を始めているジンジツと同じ村から参加した、確かあの娘はチョウヨウ……。今この小高い雪原で出発を待っている若者は五人。残りの二人がまだ来ていないのだ。

 二週間前の夜。村を出る際に長から今期のデイ・ウォークは近隣の三村から合わせて七人もの未成年者が参加すると教えられていた。これから往復で百五十日余り。パーティを組む参加者は助け合いながら目的地モールに行き、始祖さまの残した記念品をそれぞれ持って還らなくてはならない。これが出来なければ、たとえ百歳を越えていようが一人前の成人とは認められず、もちろん村に還ることすら許されない。それは実質的には、村からの追放に等しい。凍てつき渡り、食糧が手に入らないこの氷の世界で、そんなことになれば間違いなく餓死する。夭折した詩人ツェペッシュを筆頭に、今までどれほど多くの若者が、この成人の儀式で命を落としたことか。

 ナナクサは隣で半身を起こしたミソカに目を転じると、その不運な若者たちに思いをはせた。ある者は道半ばで力尽き、半死眠ハーフ・ダイイングもままならず凍てつく洞窟に骸を横たえ、またある者は記念品だけを残して雪原の太陽の下、一握りの塵に還った。儀式の重圧に耐えられず、途中放棄した者は身体に決して消えない刻印を銀で穿たれた上で故郷を追われ、野たれ死んだ。そして空腹から仲間同士が食糧を奪い合い、凄惨な死闘を繰り広げて全滅したパーティもあると聞く……。

 ナナクサは身震いすると、不吉な想像を頭から払いのけた。いくら追い詰められても一族の誇りだけは捨てるまい。生き残るためとはいえ幼馴染みと争うなど、およそ考えられるものではない。だが、ミソカとタンゴ以外、パーティの参加者はどんな人物かもわからない。彼らは極限に追い詰められても信頼に足る者たちだろうか。

 単細胞のジンジツはまだしも、あの無口で人を寄せ付けない雰囲気を体中から発散させているチョウヨウは、どんな為人ひととなりだろうか。いや、それよりも心配なのは集合日時すら守らない、まだ見ぬ二人の参加者の方か……。

 それにしても七人とは、いささか多過ぎるのではないか。通常は合同するなら二村まで。人数だってせいぜい四人まででパーティは構成されてきたはずだ。幼馴染みのミソカとタンゴだけなら、どんなにか安心で心強いだろう。ナナクサはこれから、より深く知り合うはずの他の者たちに漠然とした不安を覚えずにはいられなかった。

「参加者だ!」

 耳元で突然、声がしたのでナナクサは飛び上がって我にかえった。

「脅かさないでよ、タンゴ!」

「だって、ほら。参加者、仲間だよ!」

 いつの間にかナナクサとミソカの横に来ていたタンゴが指差す遥か地平線の向こうから、二つの小さな影がこちらに近づいてくる。ジンジツもそれに気づき、雪原にどっしりと腰を落ち着けた大きな岩塊に駆け上り、「早く来いよ」と毒づいた。

 ナナクサは腰を上げると、そんなジンジツを尻目にチョウヨウの側まで行くと、思い切って声をかけてみた。

「どんな人たちかな、彼ら?」

 声を掛けられ、一瞬、ギョッとした顔をナナクサに向けた彼女は、すぐにポーカーフェイスを取り戻すと予想通り無言の応えをナナクサに返してきた。何とか打ち解けようと恐る恐る声をかける可憐な村娘と、冷たい視線でそれに応える旅仲間。何て素晴らしいパーティだろう。

 ナナクサはうんざりした気持ちを顔に出すまいと、黙ってその場を離れた。離れる口実を考えねばならぬほどチョウヨウに気を使うのも馬鹿らしいし、気を使ったところで相手が心を許して、しゃべりかけてくれるとは思わなかったからだ。しかし、その考えは見事に覆った。ナナクサの背中にチョウヨウがぶっきらぼうに声を投げかけたのだ。

「一人はおさの子だな」

「えっ?」

 チョウヨウが声をかけてきたのも以外だったが、それ以上にチョウヨウの言った言葉が心に引っかかった。

 ほとんどの仕事が世襲で決まる今の世の中では、村長むらおさの子は単独でデイ・ウォークを成し遂げなければ将来のリーダーとは認められないからだ。もし村長むらおさの子がデイ・ウォークでパーティを組むとしたら、二つの意味しかない。パーティの面々が低い能力しか持ち合わせていないため、ずば抜けたリーダーシップを持つ者が村長むらおさたちの協議で選ばれたか、それとも、逆にその子ども自体がおさの子として著しく適格性を欠くかのどちらかだ。適格性を欠く場合、そのパーティの面々は、嫌が応にも半人前をカバーする重荷を背負わされることになる。ナナクサは今この場にいる旅の仲間の一人一人に視線を移し、最後に親友のミソカを見た。ミソカは私たち一族の平均より少し小柄で体もあまり強い方ではないが欠格者というには程遠い。だとすると……。

 今では二つの人影は親指くらいの大きさから、腕くらいの大きさになり、ようやく顔が見分けられる程度に近づいてきた。目深に被ったフードで顔は定かに判別できないが背中のリュックの他に肩から大きなバッグを提げている一人は、その体つきから男だとわかる。その隣では男の歩幅に合わそうと険しさを顔に貼り付けた娘が足元から粉雪を撒き散らしながら、ちょこまかと小走りで付いてくる。ただ手ぶらであるところを見ると、男が持っている荷物の一つが娘の持ち物に違いない。これから助け合わねばならない仲間、しかも同じ村の人間に自分の荷物を持たせるとは。

 出来の悪いおさの子なら、そんな暴挙に出ることが考えられなくもない……。

「あたいたち、どうやら貧乏くじを引かされたな」

『あたいたち』とチョウヨウが自分に向かって仲間と認めるような発言をしたことはナナクサの中に嬉しい、ある種のくすぐったさをもたらせたが、『貧乏くじ』という不吉な単語によって、それはあっと言う間にかき消された。

 やがて遅れてきた二人はナナクサたちがいる大きな岩塊のところまでやってくるとピタリと止まった。いつの間にか一かたまりになった五人と遅れてきた二人。当たり前のこととはいうものの両者の間に互いを値踏みする視線が沈黙を伴って交錯した。睨み合いとはいかないまでも初めての出会いとしては良い兆候とはいえない。

「遅かったな」

 堪りかねたジンジツが遂に声をかけた。筋肉質の身体から抑えた怒りが自然とにじみ出るような口調だ。遅れてきた二人のうち娘の方がその言葉に反応して、ジンジツをキッと睨みすえた。そして口を開きかけたが、機先を制するように隣の男の方が応えた。

「すまなかった」よく通る澄んだ声がナナクサたち五人に向けられた。「村から出る道が雪崩でふさがってたんだ」

「で、三日も遅れたってわけか」

「すまない。迂回するのに手間取ったんだ。これからパーティの中で埋め合わせができればと思ってる」

 ジンジツの矛先を、やわらかな物言いでかわしながら、それでいて毅然とした態度も崩さない。男がフードを脱ぐと薄茶色の髪の中に穏やかな眼差しが現れ、ジンジツに微笑みかけた。「タナバタ。ヤヨ村の薬師くすしの息子だ。遅くなって本当にすまなかった。これからよろしく」

 そう言うと、タナバタは右手を軽く左胸に添えて頭を垂れた。敬意を表す我々一族共通の挨拶だ。敬意には敬意をもって応える一族の習わしを無視することなど誰にもできない。やや遅れてジンジツもそれに倣った。

「あっ……あぁ。俺はジンジツ。方違かたたがえ師の子。ミナヅから来た」

 それを契機に少し場の空気が緩んだ。タナバタは同行の娘の機先を制しただけでなく、ジンジツのそれをも制したのだ。ジンジツの強引さに内心では辟易するところもあった先着隊も、彼をやり過ごしたタナバタの応対にある種の爽快感を憶えた。

 タナバタに対して、ある者は親しみを込め、またある者はまだ恐る恐る、そして別の者は少しぶっきら棒になりながらも、それぞれが声を掛けはじめ、時々笑い声もあがった。

「へぇ、君は史書師かたりべの見習いだったのか。身体が大きいから、てっきり…」とタナバタはタンゴに笑顔を向けた。

石工おおたくみと思ったんだろ? よく言われるんだ」

「見た目で判断しないこったね、兄ぃさん。でないと大失敗するよ」と、チョウヨウが離れた所から、割って入ると、「そうそう。見た目じゃなく、言葉遣いで判断しなきゃなぁ、姉ぇさん」と、ジンジツが空かさず混ぜ返す。

 まだ遠慮がちながらも、若者たちの間に再び笑いが起こった。そんな中、タナバタの視線がナナクサのそれを捉えた。彼が薬師くすしの子なら自分と同じ職種だ。これからの旅でもいろいろ得ることもあるだろう。

 ナナクサがそう思って、彼と話そうした矢先、今まで皆の会話の外にいたタナバタの連れの娘がナナクサとタナバタの前をさっと横切り、身軽に岩塊に登るやいなや、体が触れ合わんばかりの近さでジンジツに向かい合った。真っ赤なリボンで頭の左端にまとめられた濃い水色の髪の中に気の強そうなツンと澄ました小さな顔が見える。

 突然のことにジンジツが気押されて一歩後ずさる。娘はそれを当然のことのように満足げに見やると、タナバタを囲む輪に振り向いた。話し声が収まるまで待つ必要はなかった。沈黙がぎこちなさと気まずさを伴って瞬時にもどってきたからだ。

「ヤヨ村のジョウシ。親はおさじゃ」

 朗々と歌い上げるように名乗りを上げた娘は、そう宣言すると眼下の聴衆を満足げに見わたした。しばらくその雰囲気を楽しんだ後、再び口を開こうとしたとき「そして、てめぇは馬鹿だろ」とくぐもった揶揄が輪の中から起こり、タナバタのときとは違った笑いが、さざ波のように広がった。

「だ、誰ぞ、いま言うたは?! 何が可笑しい?! 我れを侮りおるか?! 許さぬぞ!」

 ジョウシは声を荒げた。見る見る頬がピンクに染まり、犬歯が伸びているところを見ると本気で怒っているのは確かだ。しかし、その表情とは正反対に、駄々っ子のように大きな外套をばたつかせてまくしたてる姿が何とも滑稽で、いっそう皆の笑いを誘った。

 タナバタは、その場を冷たい敵意が支配する前、滑稽さに皆がくすくす笑っているうちに、自らも笑いに堪えながらジョウシを制した。

「もう止めとけよ」

「何じゃと?!」

「止めとけって、ジョウシ」

「侮辱を受けたのだぞ!」

「軽い冗談さ。村でもよくあっただろ」

「冗談で済ませらるるものか!」

「止めないのか?」

「止めぬ!」

「それなら、もう荷物持ちジャンケンはなしだな」

「な、何を突然……」

「じゃ、止めた。金輪際しない」

「まっ、待て。タナバタ!」

「じゃぁ、いいな」

「致し方あるまい、お前の顔を立てて免ずることとする……」

「ふぅ……見ての通りだ。付き合いにくいところもあるけど、なかなか面白いところもあるんだ」それは、もうわかってるだろと言わんばかりにタナバタは肩をすくめてみせた。「さっき、久しぶりにジャンケンに勝って気が大きくなってたんだと思う。ここらへんで、許してやってくれないか、みんな?」

「何を言うか! それに、そこまで下手に出ることはなかろう!」と、ジョウシが再び声を荒らげたとき、ジンジツが口を開いた。

「俺はジンジツ。おさの子じゃないが、方違かたたがえ師の見習いだ。この儀式の後、三十年ばかし修行して政府チャーチ飛行船乗りサブマリナーになるんだ」そう言うと、ニヤニヤ笑いをたたえた彫りの深い顔を必要以上にジョウシのそれに近づけた。

「なっ、何じゃ?……何用じゃ?!」

「お前、なかな可愛いな。これが終わったら付き合ってやってもいいぞ」

 怒りと恥ずかしさで、またもジョウシの白い顔がみるみるピンク色に染まっていった。

「おっ、お前……」と、ジョウシはわなわなと口を震わせた。

「どうした?」

「…お…お前っ……」

「んっ?」

「塵に還れ!」

  一瞬の静寂の後、どっと笑いが起った。

  出発予定の日から三日。何とか七人の仲間が顔を揃えた。

  凍てついた真っ青な空は薄っすらと明ける兆しを見せはじめていた。

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