ニュートンの幸せ

布施鉱平

ニュートンの幸せ

           ニュートンの幸せ


 

 私の友人に『ニュートン』と呼ばれている男がいる。


 ニュートンとはもちろん、万有引力を発見したあのニュートンだ。


 彼は、頭はそこそこいい方だが天才という訳ではないし、顔がニュートンに似ているという訳でもない。いたって日本人らしい顔をした、どこにでもいる普通の人間だ。


 だが、一つだけ他の人間と違うところがあった。


 それは、歩いているときの視線の高さだ。


 彼は下ではなく、前でもなく、常に上を向いて歩いていた。


 でこぼこした悪路でも、凍結した路面の上でも、絶対に下を見ようとしない。そのせいで、つまずいたり転んだりしたことも一度ではなかった。


 なのに、頑として視線を下げようとはしない。


「何でいつも上を向いて歩くんだ?」


高校生のとき、私は彼に聞いてみた。すると彼はまじめな顔で、


「かのニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力の着想に到った。もし彼が見たのがすでに落ちた後のリンゴだったら、彼は歴史に名を残さなかったかもしれない。ニュートンは上を向いていたからこそ、落ちる途中のリンゴを見ることが出来たのだ。現代人はみんな、俯いてばかりで上を見ようとしない。なら、上を向いて歩くことで、誰も思いつかなかった何かを、僕は発見できるかもしれないじゃないか」


 と、そう答えた。その話が広まり、彼はニュートンと呼ばれるようになったのだ。


 別に私が吹聴して回ったわけではない。彼が、誰に聞かれても同じように答えたからだ。


 それが、かれこれ五年前の事になる。


 私たちは地元の同じ大学に進学し、今でも友人という関係が続いていた。


 私は彼の奇行を、思春期にありがちな一過性のものだと思っていたのだが、大学生になっても彼は相変わらず上を向いて歩いていた。


 毛虫がうようよ這っている並木道でも、学友が十万円の宝くじを拾った後でも、決して下を向こうとはしなかった。


 もちろん、新たな発見などしていない。


 すでに様々な発見がなされ、科学技術の発達した現代において、上を向いていたくらいで新たな事を発見できるはずが無いのだ。


 彼はいやでも人の目に留まった。みんなが背中を丸めて俯き加減に歩いている中、一人だけ背筋を真っ直ぐに伸ばして、上を見て歩いているからだ。


 人ごみの中に紛れ込んでいても、彼の姿はやはり浮いていて、すぐに発見することができた。


 どこを歩いていても目立つので、ニュートンは有名人だった。学内で彼の名前を知らないものはいない。

 教授たちですら、彼の事をニュートンと呼ぶくらいだった。

 




 

 梅雨の季節が過ぎて、からりと晴れた気持ちのいい日が続いた。

 

 今日もニュートンは上を向いて歩いている。


 私はニュートンと、他の何人かの友人と一緒に男子寮に帰る途中だった。


 ゆるやかな坂道を登っていると、突然、後ろを歩いていたニュートンが、


「あっ」


 と声を上げて飛び跳ねた。


 私たちが振り返ると、ニュートンは女性物の下着を手に持ち、固まっていた。


 私は辺りを見回す。そこは女子寮の前だった。


 風で洗濯物が飛んでしまい、上を向いていたニュートンが偶然にそれを発見して捕まえたのだろう。


「おお、ニュートン。すばらしい発見をしたじゃないか。女子寮の前で上を向いていると、下着が手に入るようだな」


 友人の一人が、悪ふざけでそんな事を言った。


 ニュートンは顔を真っ赤にして固まったままだ。


 そのまま皆でニュートンをからかっていると、一人の女性が寮の入り口から出てきた。

 一年上の先輩で、学内でも評判の美人だった。私も、遠目から何度か見たことがあった。


 彼女は、真っ直ぐこちらに近づいてくる。

 そして、私たちの前で立ち止まった。


「あの、それ、私のなの……」


 顔を赤らめて、恥ずかしそうに言う彼女は、遠目から見るよりもずっと美しかった。


 私たちはニュートンをからかう気持ちもすっかり失せてしまって、彼女とニュートンの間に黙って道を空けた。


 ニュートンは、顔を真っ赤にしたまま彼女に近寄ると、掴んでいた下着を返した。


 その時はそれで終わりだったのだが、それから一月ほど経ったある日、なんとニュートンと彼女が付き合い始めた。


 出会いは言うまでもない、あの時だ。


 彼女は歩くニュートンを見かけるたびに、自分から声をかけたのだという。

 いやでも目立つ男だ、見つけるのは簡単だっただろう。そうやって何度も話すうちに仲良くなり、付き合うことになったのだそうだ。


 私たちは悔やんだ。あの時、ニュートンは最後尾を歩いていたのだ。


 もし私たちが上を向いていたら、彼よりも早く飛んでくる下着に気がついただろう。


 そしてそれを手にしていれば、彼女と付き合うことになったのは自分たちの中の誰かだったかもしれないのだ。


 ニュートンは、上を見続けることで新しい発見をすることは無かった。


 しかし、そのかわりにすばらしい女性を手に入れることができたのだ。






 風が木の葉を舞い上げて、地面の近くをくるくると回っている。足元で木の葉が崩れる感触を楽しみながら、私は空を見上げた。


 雲がずいぶんと高い位置にある。もう、季節はすっかり秋に踏み込んでいた。


 私は、ここが女子寮の前の坂道だということに気づき、苦笑いをしながら視線を下げた。


 今、この女子寮の前の坂道は『見上げ坂』なんて呼ばれている。


 この道を通るときだけ、男は丸めた背筋をしゃんと伸ばし、上を見て歩くようになったからだ。


 あの噂はすぐに学内を巡り、誰もが知ることとなった。


 何せ、あの変人ニュートンと学内一の美女が付き合うことになったのだから。


 男達は誰もが驚き、彼の事を羨んだ。


 だから、女子寮の前を通るとき、男達はつい上を見上げてしまう。

 たとえそういう目的が無かったとしても、噂を知っていると、つい見上げてしまうのだ。


 男のさがとでもいうのだろうか。


 この坂で上を見上げないのはニュートンくらいだろう。


 彼はもう、上を向いていない。


 そして、下も、前も向いていなかった。


 彼は今、いつでも横を見て、幸せそうに微笑んでいる。


 

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