第9話
唇に温かなぬめりを感じて、和也が緩慢に瞼を開く。
「おはよう」
満面に朱を注いだミザリーが、自分の直ぐ近くで挨拶してくる。
もうそんな時間かと徐に起き上がり、朝食を出してやった後、挨拶を返して洗顔をしに行く。
共に珈琲(キリマンジャロAA)を楽しんだ後、直ぐに屋敷へと転移する。
「おはようございます」
既に起きて朝食を済ませていた二人が、元気よく挨拶してくる。
「おはよう。
よく眠れたか?」
「はい。
こんなに熟睡できたのは、田舎に居た時以来です」
ミレーがそう笑うと、レミーの笑顔も弾ける。
「ここのトイレ、ちょっと可笑しいですよ。
お掃除の必要がないんですよ!?
どうやって手に入れたんですか?」
「あれは自分のお手製だ。
他の者には内緒な?」
「はい。
私、とんでもない所に買われてきたんですね」
「・・大事な話があるから、珈琲でも飲みながら話そう」
彼女達を食堂の椅子に座らせ、まだ置いていなかった珈琲用のミルと豆を収納スペースから取り出し、お湯を沸かして、同じく取り出した4つのカップに、淹れたての珈琲を注ぐ。
それを皆の前に出しながら、和也は口を開いた。
「少し気になったので話しておくが、知っての通り、君達はもう奴隷ではない。
君達と契約を交わす上で必要だったから、お金を払って買うという形式を取りはしたが、自分は君達を買ったとは思っていないし、君達もそれを気にする必要は全くない。
自分に愛想が尽きれば、何時でもそう言ってくれて良いし、仕事さえしてくれれば、空き時間は好きに過ごして良い。
もし誰か好きな相手ができれば、結婚だって自由にして良い。
今の自分は、君達の人生を預かっているだけだ。
だから、無理に自分を主人と呼ばなくても良いし、変に義理を感じる事もないぞ」
努めて穏やかにそう話すと、ミレーとレミーの二人は、顔を見合わせた。
「済みません、私の言い方が悪かったですね。
ご主人様が仰っている事は、勿論ちゃんと理解できます。
ですが、納得はできない面があります。
形式はどうであれ、ご主人様が私達の為に支払った金額は、普通の人なら何年も、何十年も貯めなければならないものですし、ご厚意で奴隷から解放されたとしても、その恩が消えてなくなる訳ではありません。
ともすれば、親でさえ子を売るこの世界で、貴方は私達を手厚く保護し、自由にしてくれた。
愛想を尽かすなんてとんでもない。
結婚?
そんな事は先ずは貴方に尽くし終えてから考えます。
貴方をご主人様と呼ばずして、一体誰をそう呼べと言うのです?
私の言いたい事は、以上です」
レミーの愛嬌のある顔が、今だけは険しく、真面目なものになっている。
「私の言いたかった事も、彼女にほとんど言われてしまいました」
ミレーがそう言って苦笑する。
「貴方は私に賭けると言って下さった。
だから私も、貴方に捧げる。
私の残りの人生、その時間、その想いを。
与えられた仕事を頑張るだけでなく、何時か貴方に誇って貰えるように、これからを生きていきます」
「・・何と言うか、君達は本当に義理堅いな」
『まだそんな事言ってる。
彼女達の目をよく見なさいよ。
誰かに似てるでしょう?』
ミザリーが何かを言いたげに和也の顔を見るが、何故かそのまま黙っている。
「君達の言い分は理解した。
その気持ち、有難く受け入れよう。
今後とも宜しく頼む」
『あ、言っちゃった。
言っちゃったよ、この人。
もう知らないからね。
私だって、譲る積りないし』
初めて飲む珈琲を、『美味しい』と言ってくれた二人に、その淹れ方を教え、序でに仕事内容や給料の詳細な説明をする。
「先ず、自分との契約の証として、このリングを貸し与える。
これには幾つかの機能があり、1つはアイテムボックスの代わり、もう1つはこの屋敷とウロス市街の双方転移、最後に、ミレーの仕事上、各細菌、所謂病気への耐性が備わっている。
これは自分(和也)以外には外せないので、誰かに取られる心配もない。
右手の薬指に嵌めてくれ」
彼女達が、目を丸くしながらそうしている。
この世界の常識を、覆すような代物だからだろう。
「給料だが、レミーには月に銀貨70枚、それから半年ごとに金貨1枚の特別手当。
ミレーには、その仕事上、専門職の手当てを加算して、月に銀貨140枚、半年ごとの特別手当は金貨2枚。
住居費や食費などは勿論只だ。
毎月初日に、そのリングの中に明細と共に入れておく。
薬が完成し、商売が始められれば、その売り上げの中からも、毎年二人に僅かだが配当を出そう」
「銀貨70枚・・以前の奉公先の倍です。
特別手当なんて頂いた事さえありませんが、それが年に金貨2枚?
トイレ掃除さえないのに・・」
レミーが呆然としている。
「ご主人様、私の給料、高過ぎませんか?
それ程の働きができるでしょうか?」
ミレーが僅かに顔を曇らせる。
「高度な学問を修め、その分野の先端を行く研究者には、相応の給料を支払うべきなのだ。
ゆとりが無ければ人の視野が狭まるのと同様、収入が低ければ、不安で保守に走り易く、奇抜で革新的な発想がし難い。
支払う側の自治体や企業にも、其々の事情があるのだろうが、少なくとも自分はそう考える」
「私の場合、不安なのは給与額ではなく、ご主人様のお気持ちの方ですので、毎月の給料は金貨1枚(銀貨100=金貨1)で結構です」
「・・支払う側として給料を値切られたのは初めてかもしれん」
和也が苦笑しながら頷いた。
『ほら見なさい。
もう逃げられないかもよ?』
またしても、ミザリーから何か言いたげに見つめられる。
「レミーの仕事だが、基本は先日も伝えた家事。
この屋敷の管理と掃除、洗濯、君達が取る食事の用意と後片付け、それから買い物だ。
二人の生活費として、毎月銀貨50枚をリングに入れておくから、それで遣り繰りしてくれ。
後で庭に小さな菜園を造るから、気が向けば、好きな野菜やハーブ、花を育てるのも良いだろう。
休日や休憩時間は特に決めないから、休める時に休んで良い」
「それってメイドの仕事になりますか?
私の分も入ってますし、二人しかいないから、単に生活してるのと変わらないんじゃ・・。
私の給料も下げて良いですよ?」
「自らが生活するための家事でも、そこに家族や誰かが加われば、その分手間も増える。
自分だけなら手を抜けても、他者が居ればそれができないだろう。
ミレーが研究に集中するためには、君の日々の手助けが要る。
家事だからといって、軽く見るのは間違いだ。
珈琲など、この町で手に入らない物は、リングに欲しい品数を明記した紙を入れてくれれば、こちらから送る」
「ご主人様って、この大陸の方ですか?
そんな発想、普通の男性にはできませんよ?」
「訳有りで出身は言えないが、自分の知ってる世界では、極当たり前の考えだ」
「・・ご主人様の好物は何ですか?
私、頑張ってそれを得意料理にしたいです」
和也はリングから、2冊(料理とデザート)の本を出す。
「ここに載っている料理なら、大抵は好きだ。
素材によってはこの世界にないものもあるので、欲しい時はその品名を書いた紙を入れてくれ」
「随分上手な絵ですね。
魔法で描いてるのでしょうか?」
「それは写真といって、媒体をそのまま写す事のできる技術、・・魔法だ」
「・・ご主人様も、この魔法を使えるのですか?」
「ああ」
「あの、私の一生のお願いを聴いてくれますか?
その魔法で私とご主人様を写して欲しいです」
「・・・」
彼女を壁際に立たせ、自分も並んで写してやる。
「わあ!!
有難うございます!」
渡された写真を、物凄く嬉しそうに見ている。
「あの・・」
自分の袖を抓んでくるミレーにも同様にしてやると、暫く眺めてから、それを大事そうにリングへと終った。
その彼女を連れて、共に地下室に降りる。
100坪ほどの空間に、研究に使う専門書(地球のものを翻訳、要約したもの)が並ぶ書棚を設け、その壁に各種実験映像が見られるモニターを設置し、机や大型の長テーブル、顕微鏡やガラス板などの実験器具を用意して、サンプル細菌の保管場所として、冷蔵、冷凍庫を据え置く(全て和也の魔力で稼働)。
室内に更衣室と手洗い場を創り、実験の際は、専用の白衣、マスクとゴム手袋の着用を、ミレーに義務付けた。
「最初はこれを読むと良い」
和也がリングから、2冊の分厚い本を取り出す。
保存の魔法が効いているせいで、真新しい本のようにも見えるが、実は400年以上前に、ある一人の女性魔術師によって書かれた、細菌学の入門書である。
試行錯誤しながら、当時の魔物や植物などの菌を用いて、色々と実験を繰り返し、確証が得られたものを、随筆形式で書いてある。
初学者が読むには打って付けの本なのだ。
和也は、あの迷宮でこれを見つけ、何時か役に立つ日が来ると、それを持ち出した。
余談だが、この2冊は、それを何度も読み返したミレーにより、更に詳しい所見が随所に加えられ、十数年後、和也によって、二人(女性魔術師とミレー)の共著として世に出る事になる。
「分りました」
両手で持たないと落としそうな重さの本を、彼女が慎重に机の上に置く。
「では、後は宜しく頼む。
何かの質問や、困った事ができた場合には、これにその旨書いてくれ。
それだけで自分に通じる」
リセリーと未だにしている交換日記(ほぼ彼女の一方通行)を参考に、1冊のメモ帳を差し出す和也。
「有難うございます」
ほっとしたようにそれを受け取り、微笑むミレー。
ミザリー達を1階に待たせているので、それで上に上がる。
「月に
ではな」
玄関先で転移して行く和也達を、頭を下げながら見送る二人。
「ミザリーさんには気付かれてますね」
レミーが苦笑いしている。
「彼女も私達と同じだからね。
・・仕方ないわよ。
あんな人、他にいないでしょ?」
「ですよねえ。
・・お茶でも淹れますね」
彼女達二人の本当の生活が、こうして始まりを告げるのであった。
「見つけたぞ!
前回はまんまと騙された」
闘技場に顔を出した和也達に、『商人A』の主が嚙み付いてくる。
「騙した覚えはないぞ。
そちらが勝手に、自分達を格下だと評価しただけだろう」
「『モブA』に手を抜いていたじゃないか!」
指定戦を申し込んできたのは、その試合の前なのに、そんな事まで忘れている男。
金貨600枚の損失が、余程応えたらしい。
「それをどう判断するかはその者次第だ。
結局は、お前の目が節穴だったというだけだろう」
「何だと!
一度くらい勝っただけで、偉そうに言うな!
もう一度指定戦で勝負しろ。
今度はこちらも本気で行く。
その女を賭けて勝負だ」
「因みにお前は何を賭けるのだ?
彼女は金貨400枚以上の価値があるそうだ。
前回みたく、御負けしてはやらんぞ?」
「・・良かろう。
金貨400枚を賭ける」
「ケチだな。
勝つ気なら、もっと賭けられるだろう?
前回の不足分の200枚を上乗せして、金貨600枚。
それなら引き受けてやる。
それとも、やっぱり止めるか?」
「き・さ・ま~っ。
上等だ。
それで勝負だ。
良いか、絶対に逃げるなよ?」
「分った。
今この場で手続きしてしまおう」
受付で誓約書を書き、和也は負ければミザリーを、商人は明日までに金貨600枚を預ける事で受理される。
捨て台詞を吐いて去って行く商人を、呆れた目で見送る和也に、受付の男性が声をかける。
「でも貴方、よっぽど自信があるのですね。
長年この仕事をしていますが、初めてですよ、こんな試合?」
「ん?
何か変なのか?」
「・・もしかして、知らないで署名したのですか?」
受付の男性が、一転して憐れむような顔をする。
「何がだ?」
「相手の人数ですよ。
向こうは、上限の二十人ですよ?」
「・・そんなに出られるのか?」
「つい1年前までは、人数制限すらなかったのですが、あまり多過ぎても、弱い者同士ですと時間ばかりがかかるので・・。
でもその時だって、1パーティーの最高は、十二人でしたよ?」
この会話を盗み聞きしていた他の参加者達は、明日は全財産を『商人A』に賭けようと決めていた。
昼食に寄ったいつもの店で、店の娘の歓待を受けながら、奥の個室(VIP席)に案内される。
初めて通されたが、周囲の視線(主にミザリーに向けられる)が気にならないので、ゆっくり食べられる。
和也は、お気に入りのきしめん擬に、新たに生ハムのピザを注文して、子羊のソテーを食べるミザリーと会話する。
「勝手に話を進めて悪かった。
負ける積りは更々無いが、怒っているか?」
「別に。
ただ、少し意外だっただけ。
何であんな、相手を煽るような事を言ったの?
貴方にしては、珍しい事よね?」
「ああ言って少しでも巻き上げないと、彼は何度も挑んできそうだったからな。
・・だが、ちょうど良かった。
実力の差をはっきり見せて、以後の無駄な試合をなくしてしまおう」
「そういえば、情報が古くて御免なさい。
今は1つのチームで二十人までしか参加できないみたいね」
「気にするな。
大した誤差ではない」
「でも二十人なんて、よく集めたわよね。
奴隷だけでなく、他からも雇ったのでしょうけれど、皆それなりの実力者でしょうから、結構高くついたでしょうに」
「君も罪な女性だな。
それ程までに、男を惹きつけるか」
『だから貴方に言われたくないって。
貴方を見る女性達の目の方が、私には余程怖いわ』
冗談を言った積りだが、何故かミザリーは不機嫌そうな顔をする。
またしても会話の選択肢を誤ったと、苦笑いでごまかす和也。
その壁の向こう、個室へ通じるドアの隣で、二人の話を聴いていた(勿論和也は気付いている)店主の娘が、ある決心をしていた。
『闘技場でお金を賭けるのは初めてだけど、明日はあの人に、これまで貯めていたお小遣いを全部賭けよう。
駄目ならそれで諦めがつくかもしれないし、もし勝てれば、一体幾らになるかな?』
一方、ギルドでは、闘技場で受付と和也の話を聴いていた者の一人が、得意げに仲間達に吹聴していた。
「明日の指定戦、俺は全額『商人A』に賭けるぜ。
彼らの人数は、何と上限の二十人。
それに対して、『可笑しな二人』はたったの二人。
しかも、奴らはそれを知らないで受けたみてえだしよ。
・・前回はまぐれで勝ったかもしれねえが(この男は前回、『商人A』に賭けて損をした)、今回はそうはいかねえ。
損させられた分、しっかりと稼いでやる」
この男に便乗して儲けようとする仲間達の会話を、それとなく聴いていた(和也の馴染みの)受付嬢は、徐に、明日の休暇届けを書き始める。
『馬鹿な人達。
前回の試合を見て、彼の異常さが分らないの?
あれはもう、人数でどうこうできるレベルじゃない。
長年冒険者をやっていて、そんな事も分らないなんて・・』
彼女は、前回儲けた分に、己の蓄えである金貨15枚を足して、それを全部和也に賭けようと決めていた。
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