番外編 異国の地にて その2

 『前略

お兄ちゃんへ。

新しい職場で楽しく働いてるようで、父さんや母さん共々、とても喜んでいます。

この間の仕送りで、父さんに借りたお金を完済した事、父さん、とても褒めていたよ。

前の職場で色々あったから、半ば諦めていたんだって。

それから、母さんが有難うって。

毎月の仕送りのお陰で、家計が大分楽になったってさ。

私からも、お礼を言うね。

以前送ってくれた浴衣は大事に着てるし(とても奇麗な絵柄で、友達に羨ましがられたよ)、いつもお小遣いと称して送ってくれるお金は、将来のために、大切に積み立ててるよ。

でも、あんまり頑張り過ぎて、身体、壊さないでね。

お兄ちゃんからの手紙は、全部きちんと保管してあります。

新しい職場に移ってからの手紙には、元気に働くお兄ちゃんの姿が溢れていて、読んでいて嬉しくなります。

また会える日を楽しみにしてるね。


貴方の可愛い妹より』



 『何かあったのか、戦友?

顔がにやけてるぞ』


ダンサーが仕事中の自分に声をかけてくる。


奴とはあの後も何だかんだと衝突を繰り返し、お互いに罵り合いもしたが、ご主人様とやらの命を頑なに守って、常に自分の側でうろちょろする彼を、段々憎めなくなってきた。


それに、何時だったか、田んぼの側にいたヤマカガシを見つけ、面白がって悪戯しようとした自分に、『止めておけ。あまり知られてはいないが、あいつはマムシより強い毒を持ってるぞ』と忠告してくれ、当の蛇には、『田んぼの害虫駆除用に、ある程度の蛙を残しておけよ』と注意していたし(驚いた事に、蛇は頷いたように見えた)、週に一度の休みに、偶に自転車で周囲を走り回って、山でキノコや自然薯を探す時には、その荷台に器用に乗って付いてきて、その場所を的確に探り当て、社長宅での食事の品数に、大いに貢献してくれた。


他の鶏たちにも、食べて良い雑草や虫の事を教え込んでくれたり、群れから離れてあまり遠くに行かないよう、気を配ってもくれる。


そんな奴に、友好の証として、社長に奴が阿波尾鶏という品種だと聞かされたので、ダンサーという渾名を贈った時は、それを聞いた奴から、『良い度胸だ。ならお前が踊れ』と、くちばしで散々突かれた(結局は、執拗にそう呼び続ける俺に、向こうが根負けして妥協するのだが)。


何時しか、鶏(ダンサー)が喋る事には、違和感がなくなっていた。


どうやら俺以外には聞こえないみたいだし(以前、社長に確かめた時には、『寂しい時は、家の電話で家族と話しても良いよ』と、何とも言えない笑顔で返された)、本当に奴が言葉を話しているにせよ、俺の妄想であるにせよ、今の自分は、精神的にも奴の存在に大いに助けられている。


奴との他愛無い会話のお陰で、前の職場の事を思い出す事もなくなった。


社長夫婦は親切で優しいが、恩人だけに多少の遠慮はある。


異国の地で、まだ知り合いの少ない自分には、時にはつまらない与太話に付き合ってくれる、気の置けない相棒が必要だ。


因みに、何故奴が俺を『戦友』と呼ぶのかというと、共に畑を荒らす害虫と闘うからだそうだ。


ダンサーのご主人様とやらが誰かは、奴は決して語りはしないが、俺には御剣のような気がする。


彼が奴をここに連れて来たのだから、当然と言えば当然なのだが、ダンサーが人の言葉を話す事を含めて、彼が真の主人なのだと思う。


あいつには、何処か不思議な所がある。


人の心を読んでいるというか、その未来を見通しているというか。


あいつが置いていったのなら、ダンサーがここに居るのには、何かしらの理由があるのだろう。


俺に、友達をくれたという以外に・・。


「妹から、ちょっと嬉しい返事が届いてな・・。

今度の休みに、少し遠出して、街まで買い物に行こうと考えてる」


『ああ、お前が溺愛している妹か。

兄貴というのは、そんなに妹が可愛いものなのか?』


「当たり前だろ。

お兄ちゃんは何時でも妹の味方だ。

仮令、あいつが何処かに嫁に行っちまっても・・な」


『街じゃ、俺が付いて行く訳にもいかんな。

一人で大丈夫か?』


「おいおい、俺は子供じゃないぜ。

第一、自転車じゃ流石に駅までしか行けねえよ」


自分が行こうとしている街は、ここから電車で3駅もある。


都会と違い、1駅の区間が長いから、かなりの距離があるのだ。


自転車といえば、今俺が愛用しているやつは、御剣から貰った物だ。


社長が預かり物だと言って渡してくれたのは、新品の自転車だった。


ただ、何処となく見覚えがある。


ハンドルやギア周りなど、俺が逃走用に拝借していた物にそっくりなのだ。


だがあれは、所々錆ついて、椅子も表面のカバーが破れていた。


何にせよ、変に愛着が湧いたので、日頃から愛用している。


『土産は煎餅で良いぞ』


「分ってるよ」


ダンサーは煎餅が好物なのだ。


以前、何気なしに、おやつにとポケットに入れておいた煎餅を砕いて撒いてやったら、とても喜んで食べていた。


それ以後、週に一度は強請ねだってくる。


1袋全部あげたって、奴の働きからすれば全然安いものだけどな。


そんな事を考えながら、休みの分の仕事にまで、精を出すのであった。



 時は遡って、タヤンがこの農場に初めて訪れた日の夜。


和也は、タヤンが乗り捨てた自転車の前に居た。


大分錆びついて、大方捨てられた物であろうが、一応元の所有者の深層心理に所有の意思が無い事を確認し、その力で新品の状態へと変化させる。


かの地では、何処に行くにもそれなりの距離があるから、こういった、手軽に乗れる乗り物は重宝するだろう。


ギアに油をさし、彼に渡すべく収納スペースに放り込む。


序でに、この国全体を見回し、放置自転車の数の多さに悲しくなる。


まだ十分乗れるもの、処分料惜しさに道端に放置されたもの、勝手に借りて乗り捨てられ、そのまま朽ちていくもの。


少し考え、明らかに捨てられたと判断できるものは、金属部分は原子レベルにまで分解した後浄化し、インゴットにして収納スペースに放り込み、タイヤは古タイヤを扱う業者の置き場に積んで、プラスチックは消滅させる。


その数ざっと数千台。


盗まれた物は、元の所有者の家の近くに停め、まだ十分使える自転車は、そのままにして行政の判断に任せる。


さる大国で、以前自転車の共有が試みられたが、業者の回収費用が割に合わず、計画が頓挫して、莫大な量の自転車が打ち捨てられた場所がある。


上空から見ると、そこはまるで野に咲く花のように見える。


だが、和也はそれには手を付けなかった。


細々と、そこから資源を回収している者がいたし、様々な弊害を抱えてはいても、かの大国は一度決断すれば仕事が早い。


これからどんな解決策を見せてくれるのか、後に続く国のため、暫く様子を見る事にしたのだ。


そう考えている内に、和也が置いた自転車に気付き、喜びの声を上げる者が出始める。


それらの歓声を聞きながら、静かに姿を消していく和也であった。



 その日、タヤンは電車に乗って、大きな街の商業施設に来ていた。


自分の腕時計と、妹や親への贈り物を選ぶためである。


毎月の仕送りの他に、彼が敢えてそうしようとしたのには理由がある。


社長がボーナスをくれたのだ。


実習生にボーナスなど、普通では有り得ない事であるが、恐縮する彼に、社長は言った。


『君の事は社員だと思っている。実習生として扱っているのは形だけだ。君は本当によく働いてくれるし、私の言った事を忠実に守って、地域の住民の方々にも挨拶を欠かさず、非常に良い関係を保ってくれている。お陰で、業績もかなり上向き、安定して高い利益を出せている。有難う』


自分の部屋に帰ってから、頂いた明細を見ると、給料の2か月分の40万円が振り込まれていた。


その夜は、嬉しさで中々寝付けなかった。


金額の大きさも然る事ながら、社長の気持ちが何より心に響いたのだ。


女将さん同様、自分を本当の家族のように扱ってくれる。


自分達も一生懸命働き、偶の休みには、相変わらず勉強会などに参加して、知識の吸収も疎かにしない。


それなのに、ちゃんと他人を気遣う事を忘れない、心の余裕も兼ね備えている。


立派な人だ。


本心からそう思える。


これまでの自分は、お金を稼ぎ家族を支える事、恩ある社長夫妻の為に精一杯働く事を目指してきた。


そしてこれからは、そこにもう一つ、目標を加える。


自分自身を磨く事。


社長のような、心の大きな人物になりたい。


そして何時の日か、この国にも、必ず恩返しするのだ。


御剣や社長夫妻に会わせてくれた、この国に。


一通りの買い物を終え、休憩にと入ったショッピングモールのフードコートで、手に入れた腕時計を眺める。


スイス製ほど高価ではなく、シンプルなデザインや高性能を誇るこの国の腕時計はタヤンの憧れであり、このメーカーが特に好きだった。


文字盤の、SE〇KOの文字を満足げに見ていると、何処かから声がかかった。


「良い気なもんだよな。

俺達が仕事がなくて、陸に金を使えない中、出稼ぎ労働者が腕時計なんて買ってやがるんだからよ」


明らかに悪意を含んだその声の主を探して周囲を見回すと、少し離れた席に、二人組の男が座ってこちらを見ていた。


食事時を過ぎていたので、あまり混んではいないフードコートに、彼らの声が響き渡る。


「どうせ詐欺でも働いて儲けてるんだろうよ。

最近は〇国人だけじゃなくて、東〇アジアからも、大分来てるって聞いたぜ」


タヤンが黙っているのを、陸に言葉が分らないからと勘違いしたのか、薄ら笑いしながら、これ見よがしに話す二人。


「何で政府はこんな奴らを受け入れるんだ?

子供でも産まれて(生まれて、ではない)数が増えたら、俺達の税金が使われるんだぜ?」


「おいおいマジかよ。

仕事だけじゃなくて、金までたかろうってか?」


彼らの会話に顔を顰める者も居るには居たが、皆、関わり合いになるのを恐れて黙っている。


タヤンはテーブルの下で両の拳をギュッと握って、その暴言に耐えていた。


ここで自分が騒ぎを起こせば、社長夫妻に迷惑がかかる。


それだけは絶対に駄目だ。


こんな事、前の職場での扱いに比べれば、大した事はない。


悲しい笑いと共に、彼が瞳を閉じたその時、一人の老人の声がした。


「その辺にしておきなさい」


二人の男に向けて、老人は静かにそう告げる。


「何だじじい、何か文句でもあるのか?」


二人組の内の一人が、彼に向けて凄んで見せる。


「あるから言っとるのが分らんのか?」


「何だとてめえ!」


もう一人も吠え立てるが、公衆の前で暴力を振るう程の度胸は無いようである(もしくは最低限の分別はあるのか)。


「お前さん達、まるで彼が自分達の仕事を取っているみたいに言っとるが、そうじゃなかろう?

彼がしている仕事なら、お前さん達でも雇って貰えるだろうよ。

もう少し、礼儀と常識を学んでおればじゃがな。

・・お前さん達は仕事が無いんじゃない。

能力も無いのに選り好みして、分不相応な仕事ばかりを望んでいるだけじゃ。

世の中には、その仕事に就きたくても、その仕事が好きでも、収入の面で、どうしても諦めざるを得ない事もある。

家族などを養わねばならない者なら、収入を考慮するのは当然の事じゃ。

身内の世話などで、時間が足りない者もおろう。

彼らは、そうしてできた穴を埋めてくれているに過ぎん。

親が学費を出してくれてた間、お前さん達は何をしてた?

勉強に、運動に、何かしらの努力をしたのか?

仮令親に恵まれなくても、この国では様々な制度がその者達に手を差し伸べてくれる。

その制度が不十分だと?

甘えるな。

わしらが子供の頃は、二親の揃っている子は今よりずっと少なかった。

ほとんどの子供が働きながら、親の手伝いをしながら学校に通っておった。

昼に食べる物にも苦労しながら、働いた金を全部親に渡しても足りずに、それでも懸命に、より豊かな明日がある事を信じて頑張った。

時代が違う?

そんなのは只の言い訳に過ぎん。

人が頑張る事に、努力する事に、時代など、何の関係がある?

お前さん達は彼が外国人だからと見下しているようじゃが、この国だって、戦後間も無くは何もない、只の焼け野原でしかなかった。

そんな国がここまでになれたのは、先達の努力と知恵の賜物ではあるが、諸外国からの援助があった事もまた、決して忘れてはならない。

某国の女王のように、敗戦国の皇太子を優しく迎えてくれたような人々が、この国に、再び立ち上がる自信と未来を与えてくれたのだ。

・・彼はな、この国が好きで、この国に憧れて働きに来たと聞いておる。

そしてその言葉通り、いつも熱心に働いておるよ。

何度か共に働いたわしが保証する。

お前さん達も、それを見習えとは言わんが、せめて前向きに努力している人間を、無闇に貶めるのだけは止めてくれんか。

わしと違って、お前さん達には若さがある。

まだ幾つかの選択肢や可能性だって、残されているんじゃぞ。

一時いっときの憂さ晴らしにうつつを抜かし、それを無駄にしているのは、勿体無いと思わんか?」


「・・説教臭い爺だ。

興ざめしちまったな。

行こうぜ?」


あくまで静かに、諭すように語り掛ける老人から目を逸らし、男が片割れに声をかける。


「ああ。

ゲーセンでも行って、気晴らしすっか」


もう一人も、そそくさとフードコートを出て行く。


その姿を目の端に捉えながら、老人はタヤンに声をかけた。


「久し振りじゃな。

折角の休みに、嫌な思いをさせて済まんの」


その穏やかな物言いと、年齢にそぐわない姿勢の良さには、タヤンにも覚えがある。


人手がどうしても足らない時、何度か手伝っていただいた方で、若い時は都会で大学の教授をしていたとか。


定年後、親の後を継いでここに移り住んだらしいが、奥様を亡くし、子供も都会に住んでいるとかで、所有していた農地を社長に売り、今は気楽な隠居生活をしていると仰られていた。


立ち上がって、丁寧にお礼を述べる。


「ご無沙汰致しております。

こちらこそ、身に余るお言葉を頂き、有難うございます。

本日は、何かをお探しに?」


「・・いや、自分でも不思議なんじゃが、何故か今日は、ここに来なければならないような気がしての。

特に欲しい物はないはずなんじゃが・・」


自分の気持ちと行動に、今一つ納得していない、そんな風に見える。


「もしお時間がお有りでしたら、この国の大学について、少しお話を伺えませんでしょうか?

珈琲くらいしか、お出しできないようですが」


周囲の店を見回し、老人の嗜好に合っていそうな店を探すが、生憎それくらいしか思いつかない。


タヤンの気配りに、嬉しそうに目を細めながら老人が言う。


「わしは結構甘い物も好きでな。

あそこの鯛焼きも良いかな?」


1個100円と書いてある店を見ながら、彼の厚意に応えてそう告げる。


「勿論です!」


笑顔でそう答えるタヤン。


そんな彼の頭の中に、何故か和也の、あの独特な微笑みが浮かんできたのだった。



 「〇マト宅急便です」


昼下がりのオフィスビルに、ダンボールが何箱も積み上げられる。


皐月はそれを一つ一つチェックしながら、伝票に判を押していく。


送られてくる相手は、いつも同じだ。


『まったり農園』


こちらまで眠くなるような、長閑な名前である。


「はい、ご苦労様です」


制服姿の可愛い女子高生に微笑まれた配達人は、その笑顔に元気を貰ったかのように、颯爽と帰っていく。


学校から電車で20分くらいの、小奇麗な賃貸ビル。


その2階の、結構広いスペースを、彼女のバイト先である『御剣商会』が占めている。


今日は土曜日。


授業が午前中で終わるため、彼女はいつもより早くからここに来て、自習室代わりに使っている。


何せここには、珈琲メーカーや老舗のお菓子など、学校の自習室にはないものが置いてある。


置かれた自分用の机も、マホガニーの一級品だ。


その椅子の、何と座り心地の良いことか。


何時間勉強していても、お尻が痛くならない。


きちんと後片付けさえすれば、何を使っても、何をどれだけ食べても良いと言われているので、その言葉に甘えさせて貰っている。


尤も、置いてあるカップや備品の類は、皐月でも一流品と分る物ばかりなので、節度を持って、丁寧に扱っている。


自分は本来、ここに仕事で来ているのだから。


パソコンを操作し、メールをチェックする。


青い文字で書かれた件名を開き、仕事の内容を確認していく。


青文字は最優先事項、通常の黒文字は自己の判断で処理、赤文字は問答無用で削除だ。


ただ、赤は滅多に来ない(彼女は知らないが、赤は各国のハッカーが、何とか御剣商会の情報を得ようと仕掛けてきているものだ)。


セキュリティーがしっかりしているせいだろう。


「ええと、今日の仕事はっと・・」


案の定、送られてきた荷物の、伝票の貼り替えだ。


ダンボールに貼られたものを、指定された宛先のものに貼り替える。


何で最初からここへ届くようにしないのだろうと疑問に思うが、余計な詮索はしない。


それに、伝票を剝がすだけで、貼りかえない物もある(実はこれが一番量が多い)。


伝票を貼り替えた物は、翌日、再度宅配に出されるが、剝がすだけの物は、次に自分が来た時には、何時の間にかなくなっている。


因みに、箱の中身はどれも同じなので、一々気にする必要はない。


前に先生に、『どうして同じ種類ごとに入っていないんですか』と尋ねたら、『仕分けが面倒だから、皆同じ中身にしてくれと頼んだらしいわ』との答えが返ってきた。


稀に土付きの野菜も入っているから、もし自分がここでその仕分けをするとなると、確かに制服姿の身では、汚れ等に気をつけねばならなかっただろう。


床の掃き掃除なんかもする必要が出たかもしれない。


でも、只でさえ高校生にあるまじき高給取りの身なのに、そんな気配りまでしていただいて、本当に申し訳ない。


その名前から、何処かのお店だと思われるもの用に2箱(ここは週に2回くらい)、香月先生のご自宅用に1箱(彼女はまだ有紗のマンションに行った事がないので、この時点ではどんな家か知らない)、最後に自宅用に2箱。


美味しい野菜を毎月沢山買うからと、先生が、アルバイト代の他にくれると仰るので、有難く頂いている。


お陰で毎日美味しい野菜に事欠かなくなり、買い物の手間も省けて大助かりである。


母は非常に恐縮して、先生に何度もお礼を言っていた。


私がこのバイトをする際、銀行口座のコピー等を提出しにここに訪れたが、その時母も一緒に付いて来て、先生にお会いし、偶然とは思えない再会に、とても驚き、喜んでいた。


『あの方にもどうか宜しくお伝え下さい』と母が言っていたが、私はその人をまだ見た事がない。


母の口ぶりや、以前に母から聞いた話からして、恐らく先生の恋人なのだろう(式はまだのようだけど、もしかしたら旦那様かも)。


そうそう、先生が左手の薬指にリングを嵌めてきた時は、学校中、大変な騒ぎだったと聞いている。


生徒達は勿論、男の先生方なんて、一日中、心ここにあらずのように呆けていて、その日は全く授業にならなかったようだ。


国語の先生なんか、通常の授業をせず、失恋の悲しみを歌った詩や和歌ばかり取り上げて、生徒に情感を込めて詠ませては、涙ぐんでいたと先輩から聞かされ、香月先生も罪な人だなぁと、少し他の先生方に同情した(先生が悪い訳ではないんだけどね)。


1日4時間のアルバイトだが、今日の仕事はこれで終わり。


他には電話番があるだけだ。


まだ一度もかかってきた事ないけどね。


・・私って、本当に楽させて貰ってるなあ。


香りの良い珈琲を淹れ、オフィスに備え付けの本棚から、イタリア語の辞書と教材を持ってくる。


ほとんど仕事が無いので、曜日ごとに3つの外国語を勉強しているのだ。


イタリア語、中国語、ロシア語。


何故かここの本棚には、真新しい、語学や法律の辞書や参考書が、ぎっしりと並んでいる。


まるで、これを使って勉強しろとでも言っているかのように。


もしかして、私、試されている?


時々、そんな事を考えるようになった。


でも、それなら、一体何のために?



 『なあ戦友、お前、彼女とかいないのか?』


土産の煎餅を貰い、上機嫌でそれを啄みながら、ダンサーが聴いてくる。


「いきなりだな。

どうしてそんな事を聴くんだ?」


『ここに来て、もう1年半近くになるだろ?

若い男が色々持て余してるんじゃないかと心配になってな。

・・もしかして、未だに右手が恋人なのか?』


「余計なお世話だ!!

お前だっていないだろうが!」


図星をさされたのか、過剰に反応するタヤン。


『フフン、俺様は元の場所にちゃんと居るぜ?

それも二人も』


ダンサーに、憐れむように笑われる。


「・・鶏のくせに生意気な。

俺だって、自分の国には好きな奴くらい居たさ。

この国に来る時、諦めたけどな」


『何でだ?』


「俺達実習生は、恋愛禁止が暗黙の了解なんだよ。

子供でもできちまったら、問答無用で国に帰されるからな。

前の職場でも、女性を目にするのは、仕事場の中だけだった」


やるせない表情でそう告げるタヤンを、ダンサーがじっと見ている。


『・・済まん』


「気にすんなよ。

ここに居る間の辛抱さ。

国に帰れば、稼いだ金で、良い嫁さん見つけて楽しく暮らすさ」


自分を無理やり納得させるような、そんな笑いを浮かべて、仕事に戻るタヤン。


そんな彼を、ダンサーの眼を通して、もう一人、見つめている者が居た。



 「はい、まったり農園です」


仕事中に、社長の携帯に電話が転送されてくる。


和也からだった。


「え?

人手は足りているかですって?

うーん、お陰様で売り上げが順調に伸びてますし、妻も子育てが忙しいですから、正直、あと2、3人くらいは欲しいですね。

は?

自分が紹介しても良いかですって?

勿論です。

御剣さんのご紹介なら是非欲しいですよ。

タヤン君、凄くよく働いてくれてますよ。

・・はい、はい、分りました。

では、お待ちしています。

有難うございます」


会話を終えた社長が携帯を切る。


「・・本当にいつもタイミングが良いんだよね。

今度はどんな子かなあ?」


和也が建てた寮は、全部で6部屋ある。


新しい人が来ても、直ぐに対応可能だ。


数日中に、相手の方から連絡が入るそうだ。


わくわくしながら、社長は仕事に戻る。


ここに移り住んで良かった。


今では、本心からそう思える彼であった。



 『前略

タヤンへ。

随分ご無沙汰してるわね。

でも、元気でやっているみたいで安心しました。

この所、そちらの国に働きに出た人達から、あまり良い噂を聞かないので、少し心配していました。

だけど、久し振りに会った貴方の妹さんやご家族の方から、今の職場で貴方が元気に働いている写真(社長の妻が、家族を安心させるため、年に何度か彼の様子を写真に撮って送っている)を見せて貰い、ほっとすると同時に嬉しくなりました。

何で喜んでいるのかって?

フフッ、内緒・・と言いたい所だけど、どうせ直ぐに分るから、教えておくね。

今度、私もそちらに行くの。

何しにって?

勿論、働きによ。

先日、御剣さんという方(まだ学生さんのようにお若い方だけど)がわざわざこちらまでお見えになって、人手が足りないからと誘っていただいたの。

初めは、どうして家に来たのか分らなかったけど、貴方の事をご存じで、どうせ一緒に働くなら、お互いに知り合いの方が気が楽だろうという事らしいわ。

弟達の世話が一段落して、家での仕事が無くなった私も、何処かに働きに出ようと考えていたし、貴方のご家族の勧めもあって、両親も大分乗り気だったんだけど、ただ、悲しい事に、あまりお金がなかったのね。

御剣さんはブローカーではないと仰ってたから、彼に払う手数料は必要なかったけど、弟達の学費にお金がかかって、私自身がそちらに向かうための旅費が足りなかったの。

そしたらね、御剣さんが当たり前のように仰って下さったの。

『彼女の旅費や、その準備のためにかかるお金は、全て自分が持つ』って。

お父さんもお母さんもびっくりしちゃって、何でそこまでしてくれるのって、逆に少し不安になったみたい。

きっと、変なお店にでも連れて行かれて、そこで働かされるとでも考えたのね。

でもね、私には不安は全然なかったよ。

だって、御剣さんの眼、とても澄んでいて、凄く温かかったから。

真っ黒な身なりとは正反対の、心の優しい、素敵な方だと思えたから。

彼の勧めで、仕事先の社長さんにも連絡を取った両親は、御剣さんの、『心配なら両親のどちらかが同行しても構わない』という破格のお言葉に駄目押しされて、最後には満面の笑顔で彼と握手していたわ(親の分の旅費は勿論、国に着いた後の観光まで手配してくれるっていうのだから、当然よね)。

ちょっと馴れ馴れしかったけど、我慢できずにその後こっそり彼の耳元で聴いちゃった。

『私にそこまでの価値があります?』って。

そしたらね、御剣さん、何て仰ったと思う?

『人の価値をどう測るかはその者次第。それに、君を連れて行く事で奴のやる気が何倍にもなるなら、安いものだ』ですって。

前半はともかく、後半はどういう意味かしらね?

そちらに着いたら、是非教えて欲しいものだわ。

・・この手紙が届く頃には、私は母と飛行機に乗っていると思います。

久し振りに貴方に会えるの、楽しみにしてるね。


貴方の幼馴染より。


そうそう、私達が子供の頃に遊んでいたあの裏山、買い手がついたみたいよ。

ずっと手入れもせずに放置されていたから、荒れ果てて凄い事になってたけど、誰か買ったみたい。

広さだけは十分あったから、何かに使うのかしらね』



 「突然だけどタヤン君、今度うちに新しい実習生の人が入る事になったから」


朝食後の、これから午前の仕事に取り掛かろうという時、社長から徐にそう告げられた。


「本当っすか?

最近かなり忙しくなりましたから、助かりますね」


初めの頃は社長には全て敬語で話していた彼も、半年過ぎた辺りから、状況に応じて、気さくな物言いもするようになった。


それだけ、彼が社長に対して心を開いているという事だ。


ただ、女将さんには、相変わらず全て敬語で話している。


これは、心を開いていないのではなく、他者の配偶者である彼女に対しての、彼なりのけじめである。


「またしても御剣さんのご紹介でね。

それに何と、君の知り合いでもある」


「は?

俺の知り合い・・ですか?」


自分には、この国での知り合いなど、極限られた者達しかいない。


実習生というからには、恐らく外国人だろう。


だとすると、前の職場で一緒だった者達くらいしか思い浮かばない。


一瞬暗い気持ちになるが、御剣の紹介だと気が付いて、平静を取り戻す。


あいつが俺の不利益になるような事をするはずがない。


彼への強い信頼が、タヤンの乱れかけた心を直ぐに静める。


「ソニさんというんだけど、知ってるよね?」


「え!?

それって、もしかして俺の幼馴染の・・」


「家が近いと言っていたから、そうじゃないかな。

彼女は君の事を知っていたよ」


「マジっすか!?

でもあいつ、弟達の世話で忙しかったし、働きに出るにしても、海外の仕事に就くために、ブローカーに渡す程の金は無かったはず・・」


「それがね、御剣さんの方で、全て負担してくれたらしいんだ。

付き添いで来られる、お母様の分まで全部。

もうどっちが社長か分らないよね。

僕ももっとしっかりしなきゃ」


そう言って笑う社長に、タヤンは告げる。


「社長は既に、十分しっかりなさってますよ。

あいつが年の割に、気が利き過ぎるだけだと思います。

・・でも、どうして奴はソニの事を知っていたんだろう?

社長もご存じなかったですよね?」


余談だが、和也に関係した全ての人物達には、仮令何年経っても、和也が少年のままに見える。


そしてその事に対して、彼らは何の違和感も抱かない。


あたかも、人の外見は年相応に変化しても、心はある一定の若さをずっと保っていられるかのように、自分達の見た目は変化していくのに、和也の姿が不変である事に、一切の疑いを挟まない。


これには当然、和也の力が働いているが、彼の妻や眷族達には、元から彼が今のままの状態で見えるので、他の人物達から彼がどう見えるかまでは分らない。


この事は、後に有紗達、御剣家の為に先祖返りを演じる者達の知る所となるが、その結果、和也が彼女達からどういうお仕置きを受けたかは、彼の名誉のためにも、語らないでおこう。


「そうだね。

御剣さんにお聞きするまで全然知らなかったよ」


考え込むタヤンに、社長は思い出したように言う。


「彼女の寮での部屋は、君の隣だ。

分らない事があったら、色々と教えてあげて欲しい」


「・・え?

同じ寮なんですか!?」


それまで考えていた事を忘れるくらいに驚く。


「そりゃ、寮は1つしかないからね。

お互い全く知らない者同士なら、僕もきちんと対策を考えるけど、君達は仲が良いみたいだし・・御剣さんから聞いたけど、タヤン君、彼女に気があるんだって?」


「!!!」


社長が後半部分を、急に声を落として大事な秘密のように聴いてくる。


「・・正直、この国に働きに出るまでは、そうでした。

今も好きかと聞かれれば、まだ未練はあります。

でも、今の俺には仕事の方が大事です。

彼女がここへ来たからといって、決して付き合ったりはしません!

だから俺を、あと2年はここで働かせて下さい。

国に帰さないで下さい。

どうか、どうかお願いします」


思い詰めた顔をして、必死に頭を下げるタヤン。


「・・タヤン君、僕の聞き方が悪かったのかもしれないけれど、君は何か、大きな勘違いをしているよ。

御剣さんがソニさんをここへ呼んだのは、君を追い出すためじゃない。

冷静になって考えれば、それは君にも分るだろう?」


そうだった。


あいつはそんな奴じゃない。


「それに僕だって、従業員同士が恋愛したくらいで、追い出そうなんて考えないよ。

そりゃ、無理やり相手を傷つけたというなら話は別だけど、合意の上でなら、一々口を挟まないよ」


「でも社長、実習生同士の恋愛は、いえ、実習生が恋愛するのは御法度なんじゃ?」


「誰がそんな事を決めたんだい?

実習生が家族同伴でこの国の仕事に就けないとは聞いた事があるけど、恋愛禁止なんて、聞いた事がないよ?

実習生なんて肩書は、あくまでこの国に便宜を図って貰うための呼び名に過ぎないじゃないか。

君が僕らと同じ人間である事に、何ら変わりはないだろう?

・・人間であるなら、恋をしても可笑しくない。

いや、寧ろそれが当たり前だと僕は思う。

自分にないものに興味を持ち、あるいは自己と同じ価値観や考え方に安心し、相手を思い遣る事で、自らの心を満たしてゆける。

素晴らしい事じゃないか。

そんな機会を、経験を、若い内から奪い去ろうなんて、僕は考えないよ。

合意の上で、節度を持って、仕事に影響を及ぼす事がないようにできるのなら、寧ろ推奨するよ。

それが人としての自然な姿だと思うし、ここでの生き方にも合っているような気がする。

・・君も、そうは思わないかい?」


広大な畑と、周囲に溢れる緑を目の前にしながら、社長が大きく伸びをする。


『俺は、ここに来て本当に良かった。

仕事だけでなく、人として大切なものまで学ばせて貰っている。

社長は勿論だが、御剣、またしてもお前に借りを作ったな。

約束通り、何時か必ず返すから』


「・・そうですね。

自然に抗いはしても逆らわず、共に暮らしてゆける道を探す。

俺も、何だかそんな気がしてきました。

色々と、有難うございます」


同じように眼前の風景を見ながら、タヤンも穏やかに同意する。


「君はもう家族も同様だ。

つまらない事で、君を解雇なんてしないよ。

だから、望むだけここで働いてくれると嬉しい。

仮令、実習期間が終わった後でもね」


それは暗に、正社員としても迎え入れる用意があると言っているのだ。


タヤンの顔を見て、もう大丈夫だと判断した社長が、今日の仕事場に向かうべく、車へと移動する。


タヤンもまた、自らの仕事場へと、足を運んでいく。


ゆっくり歩くその先に、自分を待っているダンサーの姿が見える。


今日もまた、ここでの1日が始まる。


やる事はいつもと同じでも、仕事に対するその気持ちは、その思いは、いつもより数倍は大きいタヤンであった。



 それから数年が経った。


ソニを迎え、益々活気に満ちた農園は、その後も順調に売り上げを伸ばし、到頭和也から全ての株式を買い戻し、改めて全株式の半分を、今までのお礼として和也に贈呈した。


和也は、彼らの想いの籠ったそれを有難く頂くと共に、寮をもう1つ建て、男女別で使えるようにした。


と言っても、別にタヤン達が羽目を外し過ぎた訳ではない。


寧ろ彼らは、必要以上に節度を持って付き合っていた。


仕事中は絶対にイチャイチャしない。


人前では、手を繋ぐ事さえ躊躇った。


自分達を信頼して、一切口出しをしてこない社長夫妻に、その態度で以って応えたのだ。


ただ、若いだけあって、それなりの頻度で愛し合っていたために、避妊具の減りが早く、その確保に苦労したのは事実である。


車の免許を持たない彼らは、自転車で行ける駅前の唯一のコンビニで購入していたが、そこでも次第に顔を覚えられて少し恥ずかしい思いをしていた所、ある日、農園付属の店に、それまで置かれていなかった避妊具が積まれているを見つける。


深く考えずに、これで恥ずかしい思いをしなくて済むと純粋に喜ぶソニを尻目に、何となく事情を察したタヤンは、苦笑いするしかなかった。


『あいつ、まさか行為の最中は見てないだろうな』



 ソニが加わっても、ダンサーとの関係に変化はなかった。


最初は鶏に話しかけるタヤンを変な目で見ていたソニだが、次第にその人懐っこさに魅了され、やがては弟達のように可愛がり始める。


ダンサーも、タヤンに対するようには彼女を扱わず、時折彼女に甘えるような仕種を見せては、ご褒美の煎餅を貰っていた。


感極まって、ソニがダンサーを抱えて抱き締める時には、わざわざタヤンの方を向いて『フフン』と彼を挑発するので、彼女が先に部屋に戻った後、大抵はバトルになる。


2年経って、タヤンが実習生として働ける期間が終了する直前、和也は彼の母国に現地法人を設立し、実習が終了したタヤンを正社員として雇い、出向社員として、ソニの実習期間が終了するまでそのまま農園で働かせる。


その途中で、彼の仕送りによって大学を卒業できた妹が、同じく和也の現地法人に雇われ、大学での専攻を活かして、母国でレストランの経営に携わる事になる。


首都のある市の一等地を買い取り、安価でその国の料理を提供する店を準備する和也が、その経営をタヤンの妹に任せるべく、出向扱いにして様々な飲食店で経験を積ませた。


ソニの実習期間が終わると、親の老後はその世話をしなければならない彼女の都合に合わせて、二人は母国に帰る事になる。


農園はその頃、子育てが一段落した社長の妻が仕事に復帰し、二人が抜けても地域の人の手を借りれば辛うじて何とかなるくらいであった。


タヤンは大恩ある社長のため、自分だけ帰国を遅らせようとしたが、ここでも和也が手を差し伸べる。


先ず、和也は彼の母国で買い取った裏山を更地にし、農地に適するよう、時間をかけて土を作っていた。


そしてその間、国中を見渡し、生活が苦しく、かつ、働く意欲に溢れた若い男女で、もしお金が有れば、ブローカーにお金を渡してでも海外で稼ぎたいと願う者達を四名程探し出し、日本語を学ぶ事を条件に、雇い入れる。


午前は農業について、現地の講師を頼んで学ばせ、午後は座学で、日本語と、その国の礼儀作法や習慣等を学習させる。


その間、給料は手取りで15万円、教材や食事も支給し、遠方から来る者のために寮を建て、そこに無償で住まわせた。


当初、外国人の和也に対し、信用して良いものか半信半疑であった若者達は、和也の誠意と、至れり尽くせりの環境に直ぐに心を開いて、真剣に努力するようになる。


タヤン達が国に帰る頃には、その者達は即戦力として農地で働かせる事が可能な状態にまで仕上がり、彼らの代わりに『まったり農園』へと出向された。


勿論、その際の給料は手取りで月20万円、ボーナスは年4か月分で、寮費及び食費は只である。


しかも、寮の各部屋には、ソニが来て以来、テレビとパソコンが備え付けられている。


その彼らには、夕方仕事を終えてから朝までの長い自由時間の間に、翌日の仕事に影響が出ない程度に、日本語と、英語か中国語の何れかの語学を学ぶ事が推奨された。


帰国後、希望する者には試験を課し、合格者には、和也が設立した現地法人の幹部候補として扱うと、予め伝えられていた。


ソニと共に帰国したタヤンには、社長から慰労金名目で100万円が渡される。


彼は既に和也の法人の出向社員なので、退職金ではない。


だが、和也はタヤン達が帰国すると、その場で彼を解雇する。


それから、訳が分らぬという顔をした彼らの前に、1通の封筒を差し出す。


タヤンが中をあらためると、そこからある土地と、それに付随する建物の権利書、そして1枚の小切手が出てきた。


その土地は、彼らが子供の頃に遊んだ裏山のもので、今では農地として奇麗に整備されていた。


土地の広さは約3ヘクタール。


建物は、語学習得用に建てた教室と、生徒のための寮、及び車数台分の車庫である。


小切手に記載された金額は、300万円であった。


「退職金の代わりだ。

農地は直ぐに作物が植えられる状態になっている。

そこで生産された作物は全てうちの現地法人が買い取り、お前の妹が経営するレストランで使われる。

小切手は、作物が収穫できるまでの、当座の生活費でもある。

これからは独立して、彼女とここを切り盛りしていくと良い。

今まで、本当にご苦労だった」


いつもの独特な笑顔を浮かべてそう告げる和也に、タヤン達二人は、ただ下を向いて、感謝の涙を耐えるのが精一杯であった。


因みに、ダンサーとの別れは、少し呆気なかった。


出発前、いつもより念入りに鶏舎の掃除をするタヤンに、ダンサーは、『元気でな』と一言告げただけで直ぐに目を閉じてしまった。


タヤンも、何か言えば、彼との楽しかった日々を思い出して泣きそうになるので、敢えて言葉少なく、『ああ』と答えるだけであった。


さらに時は流れて、タヤン達夫婦は、自分達の農場で、かの国へ実習生として送る人材を育てていた。


そして毎年1、2名ずつ、『まったり農園』へと送り出すのである。


和也がタヤン達の代わりに出向させた者達は、その者達と入れ替わりに全員が帰国し、和也の現地法人で幹部候補生として働いている。


ある者は自国でタヤンの妹が経営するレストランのチェーン化に携わり、ある者は海外で、タヤンの農場で採れた作物の輸出交渉などの仕事に携わる。


社長を見習い、独立後も勉強を欠かさなかったタヤンの農場は、御剣グループ傘下の銀行からの無利息融資によって周辺の小規模農地を次々に買い取り、今では3倍の9ヘクタールを有し、更に拡大中である。


彼らはそこで、働きたい若者達にかの国の言葉と礼儀作法を学ばせ、その中から特に優秀な人材を、農園へと送り出している。


お陰で『まったり農園』は、それ以後人材不足に陥る事なく、完全有機栽培の、質の良い作物を提供し続けている。


タヤンには、恩返しとして、もう一つやっている事があった。


地元や近隣の飲み屋で、日本の悪口や不平を漏らしている者を見つけると、『俺も仲間に入れてくれ』と言って、その者達に酒や料理をご馳走し、先ずはその者達の不満や文句に耳を傾ける。


彼らが一通り鬱憤を晴らした後、今度はタヤンが静かに語り掛ける。


「でもよ、嫌な奴や悪い奴なんて何処にでも居るじゃねえか。

別にあの国だけに限る訳じゃねえさ」


彼らが実際にあの国で酷い扱いを受けていた時は、決してそれを否定せず、受け入れる。


その時感じた痛みや思いは、彼らにしか分らないのだから。


「俺もよ、あの国に憧れて働きに出たんだが、最初は結構酷い扱いを受けてさ、一旦は逃げ出したんだ。

・・でもな、やっぱりあの国には凄く良い奴や温かい人達も居てよ、その後で俺を助けてくれた人達には、今でもずっと感謝しているんだ。

憧れや好きだという想いが強い分、それを裏切られた時の失望や怒りは大きくなる。

初めて訪れる地では、最初に出会った者の印象で、その土地の評価が決まってしまう事もある。

だけどさ、そこで諦めてしまったら、勿体ないと思わないか?

この世界だけでなく、その国だって広いんだ。

きっと何処かに、自分達が憧れた、その国の本来の姿があると思わないか?」


時には反論される事もある。


ただ黙って耳を傾けてくれる者もいる。


そして暫く考えてから、『そうだな』、と漏らしてくれる人がいる。


そんな時、タヤンは思うのだ。


『友よ、御剣よ、何処かで見ているか?

俺は今も元気でやってるぜ。

お前との約束を忘れた事はない。

受けた恩は、必ず返すから』



 深夜、人通りのないタヤンの農場付近に、怪しげな複数の男達が集まっていた。


各自が、銃等の武器を携帯している。


その内の一人が言う。


「本当にここに金がうなっているのか?」


「はい。

酒場で見知らぬ奴に酒を奢ったり、周辺の土地を買い漁ったりして、えらく羽振りが良いそうです」


「俺も聞きました。

田舎から貧しい奴らを集めては、只で学ばせ、飯まで食わしているそうです」


手下と思われる者達が、そう証言する。


「けっ!

俺達が陸に金も無いってのに、随分な身分だなぁーおい。

今日は久し振りに楽しめそうだな。

構う事ねえ、皆殺しにしてやれ」


部下達が薄笑いしながら頷く。


彼らが行動に移ろうとした、ちょうどその時、各自の頭の中に響く声がする。


『今ならまだ許してやる。

武器と有り金置いて、さっさと失せろ』


「何だと!」


人の声と勘違いした男達が、周囲を慌ただしく見回す。


『失せろと言っている。

お前達の会話を聞いて、今の俺様はすこぶる機嫌が悪い。

死にたくなければさっさと失せろ』


「ふざけるな!

姿を見せやがれ!」


月の隠れた深夜の闇に向かって、親玉の男が吠える。


すると、前方の闇に、2つの眼玉が浮かび上がる。


男達の腰より低い位置に、紅く輝く小さな目玉だけが浮いている。


「ひい!」


見掛け倒しの部下達から、悲鳴のような声が上がる。


パン、パン。


銃を持った者達が発砲するが、一向に手答えがない。


『これがお前達の答えだな?

・・ならば死ね』


2つの眼玉が光を発する。


その光を浴びた男達は皆、瞬時に石になった。


石像のように動かない彼らに向かい、ダンサーがくちばしを突き刺していくと、その石像が粉々になって砕け、風に吹かれて何処へと消え去ってゆく。


『あいつの顔を見ていくか?』


農場の看板を嬉しそうに眺めるダンサーの脳内に、和也の声がする。


『いいえ、嫁さんを貰った以上、奴ももう一人前の男ですから。

・・帰りましょう、ご主人様』


『・・そうか』


今では蒼く輝くその2つの眼が、闇夜に静かに溶け込んでゆく。


穏やかなそよ風を受ける農場の看板には、何処かで見たような鶏の絵と、ある国の文字が書いてあった。


『ダンサーズファーム 我が、戦友よ』

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