第9話

 『何か今年はいつもと違うな』


何軒かを回った後、一人を除き、事情を知らない役人達は首をかしげた。


先ず、村人の表情が違う。


いつもなら、平静を装ってはいても、怯えや諦めの色を濃く宿した顔つきの者が多いが、今年の彼らには、希望のようなものが見受けられる。


それに、生活状況が劇的に改善している。


見窄らしい身なりをした者がいない。


それどころか、真新しい衣類に身を包み、女性の中には高価な着物を着ている者も多い。


各家には薪もふんだんにあり、果物や野菜の大量に入った籠が見られ、米や塩の袋が積んである。


この島では獲れないはずの、海の魚なんかも軒先に吊るしてあった。


「これは一体どういう事ですかな?」


役人の上役が、不思議そうに付き添っている源に尋ねる。


「さるお方から、姫様への贈り物として頂いた品々を、村の皆にも分け与えたのです」


「さるお方?

それは本国の方ですかな?」


「いえ。

島の外から来られた、他国のお方です」


「何と!!

結界はどうなされた?」


「あのお方は、この島の結界など、ものとも致しません。

長距離の転移魔法すら、自在にお使いになられます。

この島にある新たな物資は、全てそのお方がお一人でお運びになったものです」


「・・お屋敷の蔵はどうであった?」


男が女官に尋ねる。


「どの蔵も、食料や道具類で溢れておりました」


「それは喜ばしい事ですが、・・本国としては、少し複雑ですな」


個人的には良い事だが、かけ続けている圧力を台無しにされる本国が、何らかの措置を取るであろう事は明白なので、男としては、少し厄介な事になったとも思っている。


女性しか高度な魔法の習得を許されない国にいるため、長距離転移や収納の魔法を使う者が男性だとは考えてもいない。


「できればそのお方にお会いしたいのですが、・・無理でしょうな」


何分なにぶん、今はこの島に居られませんので」


上役の男はそれ以上は何も言わず、調査を再開する。


共同浴場が真新しく生まれ変わり、その側に大きな養鶏場と養魚池が何時の間にかできていた事に驚き、そこを走り回る鶏たちと、ゆうゆうと泳ぐ大量の魚に目を見張る。


『この島には鶏は存在しなかったはず。

これも紫桜様への贈り物だろうか?』


「これらの鶏も、さるお方からの贈り物ですかな?」


「いえ。

ここは、あのお方が直接管理なされています。

我々にも何度か焼き鳥を振舞って下さいましたが、ここの鶏たちの数は1羽たりとも減ってはおりません。

恐らく、食用として飼われているのではありますまい。

毎日、自ら餌をお与えになり、可愛がられていたようですから」


源の説明を聴きながら、女官はそこに立てられている看板に目を遣る。


そして、書かれた内容に思わず笑みを洩らす。


『随分と気さくなお方のようですね。

この島の住人に対して、少しの偏見もお持ちではないご様子。

それどころか、何だか優しい眼差しを感じるわ。

機会があれば、是非一度、お会いしてみたいわね』


毎年この島を訪れ、職務上平静を装いながらも、村人の暮らしに密かに同情していた彼女は、その心に、ほんのりと温かい光が灯るのを感じるのだった。



 小さな集落故、日が暮れる前には全ての家と施設を見終えた役人達は、今度は村人の数がかなり減っている事に疑問を抱く。


去年は確か百十五人で、その内六人が火狐の餌になったから、差し引き百九人。


それに、今年この島に流された十六人を加えると、全部で百二十五人いるはず。


なのに、八十七人しかいない。


残りの三十八人は何処に行ったのか?


年寄りや子供が全く居らず、女性の数も少ない気がする。


「去年より三十八人も少ないが、一体どうされたのですかな?」


「それが・・流行り病が発生したり、食うに困って何処かに行方を晦ませたり・・あとは、火狐との戦いに悲観し、奴らに食われるくらいならと、自ら命を絶つ者も出たようでして、それで・・。

何分、病を移される訳にもいかず、年に二度の収穫の際に税を取り立てる時にも、一々村人の数を調べませんので」


源が神妙な顔をして、そう説明する。


この島に流される者は『穢れし者』故、二度と本国の土を踏む事はない。


過酷な場所で、何時死ぬとも分らぬ故、島には村人の戸籍すら存在しない。


飽く迄、本国からは動物と同じように、数で管理されている。


せめて戸籍があれば、誰がいなくなったかくらいは分るのに、毎年陸に村人の顔も見ずに、課税の頭数だけ形式的に数えているせいで、人数以外の事はまるで分らないのだ。


源達は、そこを上手く衝いて、今年は五十九人も隠している。


2年前、初めて二十人程度を隠した時と、言い訳も似たようなものなのだが、元々本国は、重要な資金源たる鉱山と違って、こちらは単なる嫌がらせの面が強いので、あまり深くは追求してこない。


本国にとっては、『穢れし者』など使い勝手の良い奴隷と同じなのである。


死んだら死んだで、また補充すれば良いくらいにしか考えていない。


尤も、軽い罪を犯しただけで、その家族まで『穢れし者』として島流しに遭うため、本国の治安はかなり良く、ここ数年は、この島や鉱山に送られる人数が激減しているのが悩みの種だ。


「・・そうですか。

紫桜様や皆様がご無事で何よりでした」


薄々可笑しい事には気付いているが、明確な証拠がない限り、皇族である紫桜に疑いをかける訳にはいかない。


それに、命懸けで火狐と戦う彼らに対して、毎年それを間近で見ているこの役人達は、同情的でもあった。


先代までと異なり、今の天帝が興味を持って報告書を見る箇所は、紫桜に関する記述だけなので、住居や施設などの建物の中以外に、わざわざあちこちを探し回るような事まではしなかった。



 その頃、避難先の地下住居の中では、一人の子供が心細さを感じていた。


母に連れられてここへやって来たが、その時に、慌てていたせいか、父親に買って貰った人形を家に忘れてきてしまったのだ。


鉱山送りになった父親が、自分がまだ小さい頃に、誕生日のお祝いにと、無理をして買ってくれた人形。


寝る時はいつもそれを抱いて寝ていたせいで、かなり草臥くたびれてはいるが、今でも大切な、父親との思い出の品である。


一緒に来た母親は、今年は戦うと言って、今この場には居ない。


顔見知りの人達も少なく、不安だけが膨らんでいく中で、到頭少女に魔が差してしまう。


『ちょっとだけなら見つからないよね?』


少女は地下住居を出て、家へと人形を取りに向かうのであった。



 『うう、少し水を飲み過ぎたかな。

もう我慢できそうにない。

幸い、役人達は村の者と話をしている。

林の陰で、さっさと用を足して来よう』


一人の兵士が、近くの林へと駆けて行く。


この島では、火狐の住む広大な森以外、木々が生い茂る場所は限られているが、老朽化した家屋等の修繕に大量の木材が必要になる事から、村の何箇所かに、それ用の木を育てる林があった。


あまり陽の当たらない、鬱蒼とした林の中で、手早く用を足した男が持ち場に戻ろうとすると、道のない林の中から、一人の少女が走ってくるのが見えた。


『うん?

あんな子いたっけな?

今年は子供が見当たらなかったはずだが・・・まさか!』


兵士の男は少女の跡をつけていく。


程無く、民家の1つに入って行った少女は、直ぐに人形を抱えて出てきた。


各家を調べる際、数えた人数の重複を避けるため、調べ終えた家の者達は、一旦村の広場に集まる事になっている。


なので、そこに母親の姿はない。


人形を取りに戻っても、見つかって叱られる事はない。


少女がほっとして家から出た時、一人の男に声をかけられた。


「何処から来たんだい?」


ぎょっとして身をすくませる少女に、再度尋ねる男。


「もしかして、何処かに隠れていたのかい?

もしその場所を教えてくれたら、お父さんに会えるかもしれないよ?」


「・・本当?」


男としては、恐らく父親が罪でも犯してここに流されたのだろうと、多少あてずっぽうにそう言ってみたのだが、どうやら当たりだったようだ。


そんな事くらいで、鉱山送りになった者が戻される訳がないのだが、所詮は『穢れし者』である。


知恵が足りないらしい。


ここで手柄を立てれば、来年はこんな島に来なくて済むかもしれない。


男はわざとらしい笑顔を作って、少女を怯えさせないように告げる。


「本当だとも。

天帝様は、正直者にはご褒美を下さるお方だよ」


少女が迷っている。


もう一押しだな。


「・・急がないと、鉱山の毒ガスで、お父さんが死んでしまうかもしれないよ?」


「!!」


「良いのかい?」


「本当に助けてくれる?」


「勿論だとも」


ニヤリと笑ってそう保証する男を、到頭少女は、地下住居まで案内してしまうのであった。



 兵士が一人足りない事に気付いた役人達は、その場を動かず待っていた。


他の者達に問いただすと、向こうの林に用を足しに走って行ったと言うので、最初はあまり気にしていなかったが、幾ら何でも少し遅過ぎる。


林には民家がなく、その先の少し離れた所にある家は、既に調べて人がいないので、村人に危害を加えるという事はないであろうが、先程から、林のある方向を、案内役の源が厳しい目で見つめているのが気にかかる。


彼の気分を害するような事をしなければ良いが。


上役の男がそう考えている所に、いなくなった兵士が一人の少女を連れて戻ってきた。


「何処に行っておったのだ。

長く持ち場を離れるのであれば、一言声をかけて行け」


兵士にそう叱ってから、連れている少女に眼を向ける。


「この子はどうした?」


「はい。

実は、用を足しに向かった林の中で、この子が駆けて来るのを目撃しまして、その跡をつけましたところ、村人達が隠れている秘密の場所を発見致しました」


さも得意げに、そう報告する兵士。


褒められる事を少しも疑ってはいない。


だが、それに対する役人達の反応は、彼が期待するようなものではなかった。


「本当か?

何人くらい隠れていたのだ?」


「私一人では彼らを全員拘束する事はできないと考え、場所だけを確認し、報告を優先致しましたので、正確な人数は分りませんが、この者によると、五十人以上は居るそうです」


それを聴き、役人達の表情が更に曇る。


てっきり褒められると思っていた兵士が、それを見て段々不安になる中で、上役の男が、苦虫を噛み潰したような顔をしている源に尋ねる。


「・・どういう事か、ご説明いただけますかな?」


不正を追求する側であるはずの彼の言葉には、あまり力強さが感じられず、こういった場に有りがちの、嫌味や怒りも含まれていない。


ただ、困った事になったという、戸惑いのようなものだけが感じられる。


「さあ?

私も今初めて知ったところなので、何とも言えませんな。

道理で今日は年寄りや子供の姿を見かけないと思いました」


源としては、こちらが故意に隠した事を認める訳にはいかないので、しらばっくれるしかない。


役人達もそれは分っているから、こう言われれば、それ以上は強く追求できない。


もし万が一、紫桜がこの事を知らなければ、下手に追及すると、皇族を侮辱したとして、今度は自分達の命が危うくなる。


それに、隠れていた数が問題だ。


子供の言う事が本当なら、去年自分達が調べた人数に、今年送られてきた人数を全部足してもなお、十人以上多い事になる。


それはつまり、去年の自分達の調査が間違っていた事を意味する。


天帝様がご覧になる報告書に誤りが有ったとなれば、自分達も只では済まないだろう。


ここで源を非難したところで、それが防げる訳ではない。


「大切な話故、少々こちらに」


上役の男は、兵達に聴かれぬよう、少し離れた場所に源を連れ、二人だけで話をする。


「申し訳ないが、後ほど、紫桜様共々、この件についてご相談させていただけませんか?

こちらとしても、大事おおごとにする積りはありませぬ。

できれば、穏便に済ませたい故」


「分りました。

姫様には、そうお伝え致します。

・・ご配慮、感謝致します」


何に対しての配慮かは明確にしないが、源もこの役人自体は嫌いではないので、そう付け加えておく。


「では、これからその場所へ案内せよ」


見つけた兵士の下に戻り、そう告げる男。


兵士が連れていた少女は、地下住居に居る者達に見つかれば、この少女が密告した事がばれてしまい、母親もろとも吊るし上げを食らう可能性が高いため、後でこっそり親元に帰すよう、源が一時的に保護した。


あやめに預けたかったが、彼女は広場に集まった村人を監視するために赴いた兵士達についているので、今この場には居ない。


「陸な道具もないのに、よくこれだけのものを造れたものだ」


奥深い林の中の、大きな切り株の側に、巧妙に偽装された地下への入り口がある。


その周囲を兵達に見張らせながら、役人達は、一人を兵の監督に残し、梯子を降りて、地下住居へと入って行く。


降りた先、大人一人がどうにか通れるくらいの空洞を少し辿ると、やがて広い空間が現れる。


壁や天井を木の板で補強してあるその空間は、内部に幾つかの仕切りがあり、其々が部屋のように造られていた。


そしてその中に、年寄りや子供、若い女性の姿が見える。


いきなり彼らが入ってきた事に怯える者達の人数を、正確に数えていく役人達。


全部で五十八人いる。


先程の少女を入れると五十九人。


昨年、二十一人もの人数を数え違えた事になる。


そういえば、2年前から急に数が減ったはずだ。


だとすると、自分達は2回も間違いを犯した可能性が高い。


・・最早、溜息しか出ない。


怯える者達に、ここから出て、村人が集まる広場まで向かうように告げて、自分達も地上に戻る。


出迎えた兵達に、中にいる者達に危害を加える事なく広場まで連れて行くよう命じ、自分達は源と共に領主屋敷へと急ぐ。


到着早々、源が紫桜に、彼らのお目通りの許可を貰いに向かい、慌しく場が設えられた。


「面を上げなさい」


襖が開かれるや否や、平伏している者達にそう声をかける紫桜。


駆け込むようにやって来た源から取り急ぎ事情を聴いた彼女は、内心の動揺を隠しながら、平静を装って彼らに尋ねる。


「して、何か相談事があるようですが?」


「・・はい。

実は先程、大勢の村人が”自主的に”隠れていた場所を見つけまして・・。

五十九人もの村人が、地下に隠れておりました。

困った事に、その者達を全て人数に加えると、今年流されて来た者を除いても、昨年我々が確定した数を大幅に超えてしまい、天帝様に報告書をお出しした身と致しましては、非常に好ましくない事態になりまして・・。

兵達が見てしまった以上、何処で漏れるか分らぬ故、人数自体を修正する事は最早難しくなりましたので、ここは紫桜様のお知恵とお力をお借りして、どうにか辻褄を合わせられないかと思いまして・・」


上役の男は、あくまで村人が勝手に隠れていたと言い張り、紫桜は何も知らなかったという事にして、話を進めている。


そうする事で、万が一の危険を避け、なおかつ紫桜が手を貸し易い状況を作っている。


これまでの事はこちらの不注意だから、追徴課税はしないと暗に言っているのだ。


そして、それが分らぬ紫桜ではない。


彼女は安堵を悟られぬよう注意しながら、彼らに告げる。


「わたくしに頼もしい後ろ盾がついた事は、既にご存知ですね?」


「はい。

お伺い致しております」


「では、数が合わない分の人数は、その方が外からお連れしたという事に致しましょう」


「・・確かに、それが1番良い方法かとも思われますが、そのお方に、事前に許可をお求めにならずに決めてしまって、大丈夫でしょうか?

恐らく、本国から何らかの干渉があると思われますが」


「あのお方は、そのような細かい事を気にはなさいません。

本国に、どうこうできるようなお方ではありませんから」


「・・随分と信頼なさっているご様子ですが、どちらの国のお方かお尋ねしても宜しいでしょうか?」


「わたくしも、よくは存じません。

明日が終わるまでは、ほとんど何も教えていただけませんから」


「明日、でございますか?」


「ええ。

赤い満月の後に、婚姻の儀を行ないますので、その時に色々とお話下さるお約束ですから」


「!!!」


紫桜がさりげなく爆弾を投げ入れる。


上役の男は驚愕の表情を浮かべ、次の言葉を口に出せるまで、暫しの時間を要した。


「紫桜様の後ろ盾のお方とは・・・男性の方でしたか」


「ええ。

とっても素敵で、頼りがいのある方ですよ」


御簾越しではない、素顔を晒している彼女の顔は、眩いばかりの笑顔に溢れている。


女官を含めた、その場に居る役人達は、その笑顔に見惚れて身動きすらできない。


それに、紫桜のこんなに弾んだ声を今まで聞いた事もなかった。


何年この島に通っても、酷い境遇の中にありながら、決して華を失わない彼女の事を、嫌いな者などここには一人もいないが、本来なら、皇族である紫桜から向けられるはずのない表情を垣間見せられて、四人の役人達の好感度は益々上昇する。


『どうやら援助と引き換えの婚姻ではないご様子。

・・良かった。

皇族という高い身分でありながら、紫桜様は我々うだつが上がらない下級役人でさえ、ちゃんと人として扱って下さる数少ないお方だ。

お幸せになって欲しい』


「紫桜様のご婚姻ともなれば、本国がどう動くか想像もつきませぬが、我ら四人、心よりお祝い申し上げます。

今日はもう遅い時間故、これにて失礼致しますが、数合わせの件につきましては、紫桜様のお言葉に甘えさせていただきとうございます。

宜しくお願い致します」


上役の男の言葉に、他の三人も揃って頭を下げる。


下げながら、女官は少し意外であった。


『てっきり本国の貴族達の味方だと思っていたけれど、そうじゃなかったのね。

まあ、あの笑顔を見てしまったら・・ね』


内心で苦笑しながら、女官は今までよりも少しだけ、彼らの事が好きになった。


「有難う。

わたくし、あなた方は本国の貴族連中の味方だとばかり思っておりましたが、どうやらそうでもなかったみたいね。

今までのお詫びも兼ねて、僅かではありますが、お酒と料理を持たせるから、船の中で楽しんでね」


彼らの声色と表情から、発せられた言葉に偽りがない事を感じ取った紫桜は、和也から援助された有り余る食料のほんの一部を、彼らに提供する事にした。


役人といえど、この島に派遣されるくらいだから、あまり良いものを食べてはいないのだろうという配慮である。


和也のお陰で暮らしにゆとりができた結果、それまで気にも留めなかった者達を、より深く、より詳細に見る事ができるようになってきた。


その事が、紫桜の魅力を更に引き出しているのだが、本人は、あまり自覚してはいない。


他ならぬ紫桜からの厚意に、喜びで平伏する役人達を残し、彼女は謁見の間を離れる。


『おじい様が亡くなられて以来、初めてね。

赤い満月の前日が、こんなにも穏やかな夜になるのは。

・・和也さん、早く貴方に会いたい。

1日会えないだけで、こんなにも寂しくなるなんて・・。

皆、貴方のせいなんだからね?』


役人達にご馳走を持たせて戻ってきた志野に、明日の朝食後、精鋭達を集めるようにと告げると、和也のいない夜の寂しさを紛らわすかのように、早々に床に就く紫桜であった。



 「今年もまた、この日がやって参りました。

皆さんの状態はどうですか?」


居並ぶ精鋭達を前にして、紫桜が問いかける。


「今までで最も良い仕上がり具合かと。

御負けに、御剣様のお陰で十分な食事ができ、体調の方も万全です」


源が皆を代表してそう答える。


朝の穏やかな日差しを浴びた謁見の間に、戦いを前にした独特の緊張感が漂うも、ここ数年のような悲壮感は感じられない。


いつもなら、領主として平静を装いながらも、心の奥底の不安を隠しきれない紫桜を安心させようと、努めて気丈に振舞う彼らであるが、今年はそうする必要がない。


目の前に鎮座する彼女は、不思議な程に落ち着いている。


気負うでもなく、かといって諦めてもいない、例年なら、戦いに出る彼らの事を心配し過ぎるくらいの紫桜だけに、その変化に何かあったのかと逆に不安になる源達。


そんな彼らの思いを余所に、紫桜は言葉を続ける。


「それは何よりです。

・・ただ、1つだけ困った事が起きました。

もうご存知だと思いますが、地下住居が本国の兵士に見つかり、隠そうとしていた人数が全て課税対象になってしまった結果、租税分だけで5体の火狐を倒さねばなりません。

ですが幸いにも、今年は和也さんのお陰で生活必需品を購入する必要が全くないので、最低限、この5体だけで済みます。

皆さんのお力にすがるしかありませんが、どうか宜しくお願いします」


「お任せ下さい。

必ずやご期待に沿って御覧に入れます。

・・つきましては、姫様にご相談したき事がございます」


紫桜の言葉に皆が平伏し、了承の意を表した後、源が神妙な顔をして、そう切り出した。


「何でしょう?」


「今回の戦いには、我ら精鋭だけで望みたいと考えております。

本来なら、ここに来て2年以上になる者は、年齢や健康に問題がなければ全て参加させる決まりではありますが、今年は倒さねばならぬ数が5体と少ない上、御剣様のお陰でやる気の出てきた者達を、未熟なまま参加させて徒に死なせるよりも、あと1年、十分に鍛えてから、生存の可能性が増した戦力として、使いとうございます」


「・・それは、ここにいる皆の意見ですか?」


紫桜が、他の五人を順に見据える。


「はい。

皆で予め相談致しました結果でございます」


あやめがそう答える。


他の四人も異論を挿まない。


「・・以前のこの島には、何の努力もしない者まで養う余力はなかった故、こちらが差し延べた手を取らぬ者には、半ば強制的にいなくなって貰うしかありませんでした。

その者達のせいで、毎年必死に戦ってくれている皆さん達を、必要以上に危険に晒したくなかったからです。

あなた方もいつまでも戦える訳ではありませんから、村人である以上、各自に、この島で生きるための責任を自覚して貰うという意味もありました。

和也さんの援助を得られ、余裕のできた今でも、その考え方自体に大きな違いはありません。

また、ある程度の人数がいた方が、火狐たちの狙いも分散されて、あなた方の戦いがやり易くなると思いますが、それでもですか?」


彼らの意見を聴いた紫桜は、淡々とそう尋ね返す。


紫桜とて、幾ら戦う意欲を見せないからといって、その者達を無闇に火狐の餌にさせたい訳ではない。


これまでだって、余裕があれば助けてやりたかったし、源達の言う通り、最近になってやる気が出てきたのであれば、もう何年かかけてじっくりと養成してからの方が、次世代の戦力として、期待もできるであろう。


ただ、だからといって、紫桜の立場で、自らの考えのみで源達にそう命じる訳にはいかない。


それでは強制的に彼らだけに危険と負担を押し付ける事になる。


彼女にとっては、陸に名も知らぬ村人よりも、源やあやめ達の方が遥かに大切な存在なのだから尚更だ。


「・・私は正直、これまでは、姫様と、ここに居る仲間以外の人間など、どうでも良いと思っておりました。

姫様さえお守りできれば、他の事にはあまり興味がありませんでした。

ですが、御剣様からの援助を配る時の、村人の救われたような顔を見てきて、奇麗になった共同浴場に浸かりながら、幸せそうに微笑む彼女らを目にして、そんな人達から、時々遠慮がちに話かけられるようになってきて、ほんの少しですが、その人達の事も考えるようになりました。

・・彼女達にも私と同じように大切な何かがあって、厳しい環境の中で、それだけは守ろうと必死に踠いていたのかもしれないと。

火狐と戦う力がなくても、戦わなくても、彼女達には彼女達なりの『戦い』があるのかもしれないと。

夫から託された子供、もう会えないと分っているのに最後まで諦めずに生き抜こうという互いの約束。

その『戦い』の種類や中身は違えども、彼女達には、とても大切な『戦い』なのかもしれない。

今の私には、火狐との戦いしかできないけれど、そうする事で、他の『戦い』で目一杯の、彼女達の力にはなれる。

姫様、私からもお願い致します」


普段あまり喋らない志野が、何時になく饒舌に懇願してくる。


そんな彼女らの訴えを聴きながら、紫桜は少し安心していた。


これなら、自分がこの島を出てからも、何とかやっていってくれるだろうと。


今夜、火狐との戦いが終われば、自分は和也さんから最終的な返答を求められる。


そしてその答えは、仮令彼が何者でも、どんな種族であろうと既に決まっている。


彼のこれまでの言動から、夫婦めおとになってもこの島に留まってくれる訳ではないのは明らかだし、そうなると、彼とずっと一緒に居たい自分としては、島を出て付いて行くしかない。


この島の結界など、彼の前には何の役にも立たないのだから、わたくし一人くらい連れ出すのは訳が無いだろう。


心配なのは、いなくなったわたくしの後釜に、本国から誰が送られて来るかだけど、それも和也さんが何とかしてくれる予感がする。


あの人、さも自分は普通の人間ですみたいな言動をするけど、どう見ても人の持てる力ではないし、そんな彼と本国が揉めれば、痛い目を見るのは明らかに本国の方だもの。


あとは、・・おじい様の為にこの島に付いて来てくれた人達の身内である彼らが、自分勝手に島を出て行くわたくしを、許してくれるかどうかだけね。


「・・分りました。

他ならぬ皆さんがそう言うのであれば、許可しましょう。

ただ、倒した火狐たちを戦いの邪魔にならない場所まで運ぶ人員くらいは、別に用意した方が良いですね。

それから、念のために確認しておきますが、今回倒す数は5体のみです。

幾ら皆さんに余力がありそうでも、生活物資のために余計に倒させる事はさせません。

5体目が闘技場に入った瞬間に、森への門の封印魔法を掛け直し、次いで結界魔法を再起動して貰います。

宜しいですね?」


「畏まりました。

火狐の運搬用の人員には、自分達に次ぐ、実力ある予備役の者を数名充てる事に致します」


源の返事を満足げに聴いた紫桜は、最後にこう告げる。


「明日の昼頃、皆さんにもう一度お話があります。

戦いの疲れを十分に癒してから、またここに集まって下さい」


その言葉に、皆が頭を下げるのを見て、『では、この後は戦いに備えてしっかり英気を養って下さい。昼と夕食には、お酒以外なら、蔵から何でも好きな物を出させますので、村人達にご馳走を作って貰うと良いでしょう』と付け足してから、謁見の間を去る紫桜。


こうして、彼女にとっても最後となる、そして、この島の今後を大きく変える事ともなる、赤い月の1日が始まるのであった。



 夕闇の中を大勢の兵士達が慌しく動いている。


島の正門から一直線に伸びる大通りには、等間隔で炎が燃え盛る松明が焚かれ、それが今宵の戦いの場である闘技場付近まで続いている。


住民調査の際には必要なかった残りの数十名の兵士達は、この作業と戦後処理のためだけに、わざわざ本国から連れて来られている。


その彼らの仕事は、この作業の他、倒された火狐の船までの運搬、物資交換の際の荷物運びが主なものであるが、火狐は1体でも数百㎏の重さがあるし、村の戦士が戦いで全滅した場合や、途中で諦めた際には、門の結界を再起動させるまでの時間稼ぎにも使われるので、中々の重労働である。


それでいて、エリートコースから外れた彼らの給料は、並の兵士より僅かに安いので、島での滞在中、彼らが自分達より格下だと蔑む村の住人達に対して、日頃の鬱憤晴らしをしないよう、源達が目を光らせるのも無理からぬ事ではあった。


「作業の方はどうなっている?」


「はっ。

もう直ぐ全ての準備が完了致します」


役人の問いかけに、兵士隊の隊長が簡潔に答える。


「赤い満月が天に懸かるまで、あと3時間もない。

作業を終えた者から、順次、兵達に食事を取らせろ」


「了解致しました」


「・・今年も無事に済んでくれれば良いが」


隊長が去って行くのを見つめながら、役人の上役はそう独りごつ。


そして自らも、他の役人達を連れて、紫桜が今年特別に用意してくれた食事を取りに、領主屋敷へと向かう。


昨日の晩にと頂いた料理の数々は、とても美味しかった。


酒など、今まで飲んだ事もない程、上質の物であった。


どのような理由で、今年はこれ程までに歓待して下さるのかは分らないが、本国においてさえ、接待される事が全くない身としては、誠に有難い限りである。


紫桜様が天帝様であったなら・・。


叶わない願いを抱きつつ、道を急ぐ男であった。



 「楽しんで貰えていますか?」


食事中の役人達に、広間に入って来た紫桜が声をかける。


「これは姫様。

はい。

皆とても喜んでおります。

まさかお屋敷での食事を許可していただけるとは、夢にも思っておりませんでしたので」


役人達は食べるのを止め、姿勢を正してそう答える。


「今までのお詫びも兼ねておりますから。

・・それから、結界の件、頼みますね。

今年は物資交換を致さぬ故、火狐を倒すのは5体のみです。

5体目が闘技場に入り込んだ瞬間、わたくしが内側の封印を掛けますので、その後直ぐに結界の再起動をお願いしますね」


「畏まりました」


「お邪魔して御免なさい。

続きを楽しんで」


紫桜はそう言うと、今度は源達、精鋭六人が居る広間へと向かう。


「ちゃんと食べてる?」


先程の役人達にかけた言葉よりかなり砕けた物言いで、彼らにそう声をかける。


「はい。

今日は食事の支度も何もかも、村人の皆さんに任せておりますから」


あやめが箸を置き、懐紙で口元を拭いてから答える。


「菊乃も遠慮しないでね?」


「はい、姫様。

有難うございます」


彼らに微笑むと、今度は屋敷の厨房へと足を向ける。


「これは姫様」


作業を中断し、跪こうとする村の女達を抑えて、彼女らにも言葉をかける。


「皆も交替で食事を取って下さいね。

お家で食べる人は、家族の分も持ち帰って良いですから」


「有難うございます。

お心遣い、感謝致します」


綾乃が、その場の皆を代表してそう答える。


作業の邪魔にならぬよう、早々にその場を離れた紫桜は、自室に向かう渡り廊下から、次第に顔を覗かせ始めた赤い満月を見やる。


『もう直ぐね。

・・和也さんは今、何処からこの月を眺めているのかしら。

それに、結局、一体誰が彼をこの島に呼んだのかしらね?

わたくし以外にも、彼が気にする女性がこの島に居るとすれば、・・フフッ、少し妬けてしまうわね』


自室に入り、明り取りの小窓の障子を僅かに開けて、少し肌寒い夜風にあたりながら、その時が来るのを一人静かに待つ紫桜であった。



 パチパチと音を立てて燃え盛る、数多の松明が照らし出す長い道のりを、紫桜を先頭に、六人の精鋭が2列に並んで悠然と進んでいく。


本来なら、彼らの後ろに居並ぶはずの、他の戦闘員たる村人達は、今回は、道の両側の松明に沿って立ち、彼らに静かな声援を送っていく。


紫桜は、和也に贈られた漆黒の大振袖を身に付け、その鳳凰の絵羽模様が、松明のゆらめく炎を受けて、まるで生きているかのように妖しく輝いている。


六人の精鋭達は、夜の闇の如き黒装束に身を包み、其々の得物を引っ提げて、夕食の宴とは別人のような鋭い眼光で、ただ前だけを見ている。


やがて到着した闘技場の門の前では、武器を携えた数十名の兵士達が両脇に控え、戦いの観戦所たる建物の階段付近には、四人の役人達が整列している。


紫桜が、門の開閉役の兵士に頷くと、その者達がゆっくりと門の扉を手前に開き、その中に、源達六名と、倒した火狐の死体を片付ける役目を担った四名の予備役達が入って行く。


そしてまた、ゆっくりと閉じられた門の扉に、紫桜が外側から封印魔法を施すと、四人の役人達と共に、綾乃や喜三郎の母親など、村人達の代表者数名を引き連れて、観戦所へと入って行った。


室内に備え付けられた椅子に皆が腰を下ろすのを待って、紫桜が徐に立ち上がり、建物の舞台から、其々身体を解している源達に声をかける。


「皆さん、準備は宜しいですか?」


「はい、姫様。

何時でもいけます」


彼女の言葉に、六人の精鋭達が横一列に整列し、予備役達はその両側で跪く。


「無事に終わるよう、心から祈っています。

・・皆さんにばかり頼らざるを得ない、腑甲斐無いわたくしを、どうか許して下さい」


紫桜が右手を肩の高さまで上げ、森へと続く門の封印を解く。


その後、椅子に座り直した彼女が、女官の顔を見て頷くと、黒い漆塗りの小箱の中から、同じく黒い手鏡のような物を取り出した女官が、立ち上がって建物の舞台まで進み、そこから門へとその手鏡を向ける。


すると、島の正門同様に、何かの家紋のような紋様が門の扉に浮かび上がるが、直ぐに消える。


そして、血生臭い風と共に、軋みを上げて、その扉が開かれた。


源、喜三郎、志野の三人が、最前列に陣取る。


少し離れたその後ろに、あやめと影鞆が控える。


菊乃は一人、彼らの位置から距離を置いて、逆三角形の布陣で敵を迎え撃つ。


予備役達は油断なく武器を構えながらも、広場の両隅にまで下がっている。


因みに、彼らは菊乃が投げた飛苦無の回収役も兼ねている。


「今回は最初から全力だ。

とっとと終わらせるぞ」


源が皆にそう怒鳴る。


「分ってるよ。

力の出し惜しみはしないさ」


あやめが槍を構えながらそう答えると、珍しく志野も応じる。


「手早く終わらせて、大事だいじの前に、姫様に十分に睡眠を取っていただく」


「はあ?

大事って何だ?」


「・・大事は大事」


「意味分んねえよ」


「皆さん、お静かに。

・・来ますぞ」


影鞆の言葉に、皆の意識が門へと向かう。


「グルルルッ」


およそ狐とは思えない、低く獰猛な唸り声を上げて、1体の火狐が、闇の中から姿を現す。


呼吸と共に口から僅かな炎を吐き出し、栗色の体毛が、赤い満月に照らされて妖しげな色を帯びている。


獲物を決めた火狐が、志野に向かって走り出す。


彼女に飛びかかろうとした刹那、源の拳がその脇腹に炸裂し、拳に沿って付けられた、太いピラミッド状の鋼鉄の刃が、毛皮を貫き肉をえぐる。


「ギャッ」


痛みに呻いた火狐の喉元を、志野の刃が一閃する。


一太刀では切り裂けない火狐の身体に向かい、あやめの槍が、喜三郎の居合いが、影鞆の刀が襲い掛かる。


踠く火狐の眼を狙い、菊乃の苦無くないが飛ぶ。


十数太刀を浴びた火狐の動きがようやく止まり、息絶えたその骸を予備役達が急いで闘技場の隅まで運んで行く。


源達が息を整えた頃、仲間の血の臭いを嗅ぎつけた、2体の火狐が姿を見せた。


先程のものより少し身体が小さいが、その分、身軽そうな2体が、喜三郎とあやめ目掛けて襲い掛かる。


ズシュッ。


自分に襲い掛かる火狐の脇すれすれを、居合いを抜いた喜三郎の身体がすれ違い、志野が太刀を突き刺す間に体勢を整えた喜三郎が、横なぎに刃を振るう。


炎を吐こうとした火狐の口の中目掛けて菊乃が飛苦無を放ち、怯んだ所を二人がめった刺しにしていく。


あやめに襲い掛かった火狐は、その衝撃で体勢を大きく崩しながらも何とか彼女の槍に動きを止められた所を、後ろから、源の鋼刃が付いた足蹴りに見舞われ、脇からは影鞆の刀に突き刺される。


その隙に、菊乃の飛苦無が両眼目掛けて投げ出され、源の体重の乗った右の拳が肢の付け根を穿つ。


「グギャッ」


「グッ、ギャギャン」


堪らずに逃げ出そうとした1体を、其々3方からの追撃が襲い、膝の関節部分を打ち砕かれた火狐が地面に倒れ伏す。


やがて息絶えたその2つの骸を、予備役が二人ずつで引きずろうとしたが叶わず、1体ずつ、四人で手早く片付ける。


「あやめ、大丈夫か?」


右の手首を押さえているあやめに、源が心配そうに声をかける。


「少しドジを踏んじまったかね。

奴らの攻撃を、真正面から受けるなんてね」


数百㎏の体重を持つ火狐の突進を、助走距離が短く、それ程加速がついていなかったとはいえ、軽い女の身で受けきれるはずがない。


槍を通して受けた衝撃に、どうやら手首の筋を痛めたらしい。


もしかしたら、骨にひびが入っているのかもしれない。


「ヒール」


あやめが手首を押さえている部分に、淡い光が灯る。


皆が驚いて声の主に振り向く。


「・・おめえ、何時の間にヒールなんてものを覚えたんだ?」


源がかなりびっくりしている。


「あんたもあたしと同じくらいの魔力しかなかったはずだろう?

一体どうやって・・」


手首の痛みが完全に消えたあやめも、信じられないように呟く。


「御剣様に、魔力と魔法の両方を頂いたんです」


菊乃が控え目な声でそう言う。


「面倒な事になるから、実際に使うまでは、皆さんには黙っておくように言われましたので・・」


「貴女まさか・・」


志野が少しきつい視線を菊乃に向ける。


「いえ!

勿論、そんな事は致しておりません。

ただ、そのお力を分けていただいただけです」


菊乃が慌てて志野に否定する。


「そんな事?」


源が不思議そうな顔をする。


「あんたは黙っといで。

・・とにかく、助かったよ。

今はそれどころじゃないから、後でじっくり聞かせておくれ」


あやめの言葉に、皆が気を引き締め直して陣形を整えた。



 「今年は中々順調のように見えますな」


「・・あの少女、どうやらヒールを使ったようですが、この島にも、中々の才能が埋もれておるようですな」


闘技場での戦いを、観戦所から眺めている役人達が、小声でそう話している。


紫桜は、菊乃がヒールを使った事に、内心では少し驚いていたが、あの子は和也さんが目を掛けていただから、そのくらいの事はするかもしれないと、納得もした。


その後ろで娘を凝視していた綾乃は、目を丸くしている。


どうやら、知らなかったようだ。


戦いが始まってから約30分。


それで既に3体も倒している。


一度に襲ってくる火狐の数が、いつもより少ないせいもあるが、精鋭だけで戦っているため、他の弱い者達を守る必要がなく、戦力を分散しないで済むのも大きい。


例年なら、今頃一人や二人、犠牲が出ている頃だ。


火狐とて、彼らの必要以上に襲ってくる訳ではないので、ある程度の犠牲が出れば、それで満足してその後は襲って来ない。


森にまだ沢山の動物がいた頃は、敢えて危険を冒して武器を持った人間達を襲うより、森の動物たちを狩った方が彼らには楽なので、結界魔法で森の入り口が守られていなかった頃でも、紫桜の祖父達が、鉄柵のバリケードを築いて、その後ろで武器を構えてさえいれば、それ程執拗には襲って来なかったのだ。


そうでなければ、出入り自由の森を背景に、夜通しの死闘が続いていたはずである。


だが、島全体が結界で覆われたため、外から新たな動物たちが入って来る事ができず、火狐の増殖と共に森の既存動物が姿を消していけば、当然、人間しか彼らの獲物はいなくなる。


紫桜の祖父は、納税の義務と引き換えに、本国に対して森の出入り口に結界魔法付きの門を建設させる事には成功したが、その代わり、毎年規定数以上の火狐を倒さねばならなくなり、火狐の方も、人間を襲わなくては種族の維持ができなくなって、彼の晩年以降は、毎年激しい戦いが繰り広げられてきたのである。


3体目を倒した後、暫くは1体も姿を見せなかった。


六人の精鋭達は、呼吸を整え、体力を温存しながらも、油断なく森の気配を探っている。


「・・なあ、今年は少し可笑しくねえか?」


前を向きながら、源がぽつりとそう洩らす。


「そうだね。

幾ら何でも、・・静か過ぎるね」


「何だか嫌な予感がするでござるな」


あやめと影鞆も同意する。


「このまま終わりってこたあねえ・・」


「静かに!

・・来ます。

それも複数!!」


源の言葉を遮った喜三郎が、居合いの型を取る。


各自が武器を構えたその先に、そいつは現れた。


普通の火狐より、2回りくらいは大きい体躯を覆う、眩い金色の体毛。


全身から、赤いオーラをぼんやりと放ちつつ、弱い獣がこちらを威嚇するような、唸り声すら上げない。


その尻尾は3本に分かれ、口元からは、長く鋭い牙を覗かせている。


そしてその背後には、まるで王に仕える騎士達のように、数体の火狐たちが、大人しく控えていた。


「・・何だありゃ。

あんなの、今まで見た事もねえぞ」


源が掠れたような小声で言う。


「・・でかいですな。

あれに真正面から来られたら、ひとたまりもありませんな」


影鞆が、冷や汗でも流していそうな表情で呟く。


他の者達も、その圧倒的な威圧感に圧されて、完全に萎縮してしまっている。


「・・あやめ、槍を捨てて短刀に切り替えろ。

奴とまともに遣り合うのは無理だ。

・・こいつらとは、本来の、忍びのような戦い方をするしかない。

志野と喜三郎も、一太刀入れたら直ぐ距離を取れ。

尻尾の一撃だけでも吹っ飛ぶぞ」


源の、それでも向かって行こうとする意志ある言葉に、自分達の役目を思い出した他の五人も、気を取り直して油断なく武器を構える。


何としてでもあと2体倒さねば、多くの村人達が鉱山送りになる。


そしてその、選ばれた者達を二度と帰れぬ死地へと向かわせる人選を行うのは、他ならぬ紫桜なのだ。


以前、彼女の祖父や父が亡くなって間もない頃、一度だけ、規定数を倒せずに、村人数人を鉱山送りにせねばならなかった時がある。


その際、指名された者が浮かべた、何とも言えない表情を見た紫桜は、その後自室に籠もり、3日間食事を取らなかった。


あやめと志野が、部屋の扉を壊し、強制的に食事をさせなければ、もしかしたら、動けなくなるまで食べなかったかもしれない。


もう二度と、彼女にあんな思いはさせてはならないのだ。


その時まだ島に居なかった菊乃と喜三郎を除き、考えた事は皆同じなのか、其々が武器を握り締める音が、不思議な程の静寂に満ちた周囲に響き、そしてそれが、戦いの合図ともなった。



 「・・門の結界を再起動せずとも宜しいのですか?」


役人の上役が、遠慮がちに紫桜に尋ねる。


彼もこの島にかれこれ10年近く通って来ているが、あんな巨大な火狐は見た事がない。


しかも、その後ろには、更に数体の火狐がいるのだ。


全滅してしまうのではないかと心配するのも無理はない。


「今、門の結界を再起動させれば、あの火狐を閉じ込める事になり、村の安全のためには倒す以外の方法がなくなります。

それに、他にも数体の火狐がいますから、再起動のためにあの門を一度閉じなくてはならず、そのための兵士達を送り出すにしても、少なからずの犠牲が出ますよ?

1番良いのは、あの一際大きな火狐が逃げてくれる事ですが、今年はまだ何の獲物も得ていないですから、それも無理でしょうね」


いつもなら、村人の内から十名弱の犠牲が出るため、それで満足してくれる事も多いが、今年はその村人達を大事にして、精鋭のみの出撃にしたため、結果的に最も頼りとなる彼らを危険に晒してしまっている。


穏やかに言葉を紡いではいても、彼女の内心では、相当な焦りと不安を抱えている。


上辺だけでも落ち着いていられるのは、和也から貰った言葉のお陰でしかない。


「とりあえず、直ぐに結界の再起動ができるよう、準備だけはしておいて下さい。

・・あと2体。

あの火狐は無理でも、後ろの数体だけなら、何とかなるかもしれません。

その時は、仮令あの火狐が逃げなくても、結界を再起動させて下さい。

・・あれを倒すためには、あなた方の兵達の力を、かなりお借りする事になりますが」


それは暗に、倒すために大勢の兵達を犠牲にしろと言っているのだが、村人達が鉱山送りになるのを避け、なおかつ源達の安全を少しでも確保するためには、彼女には他に言い様がなかった。


兵士達が倒した火狐の数は、当たり前だが、納税対象とはならないからである。


上役の男が、他の役人の一人に、目で指図を送る。


すると直ぐにその男は席を立ち、観戦所の外で待機している兵達に、指示を出しに行く。


その姿を目の端に捉えると、紫桜は、全意識を闘技場の彼らへと向け直すのであった。



 バシッ。


ザシュッ。


源とあやめ、志野の三人が、火狐の王らしき魔獣の相手をし、他の火狐たちの攻撃を、喜三郎と影鞆が一人ずつで何とか防ぐ。


菊乃は状況を見ながら、後方から援護が必要な仲間に手を貸し、予備役達は、自分達の身を守るので精一杯だ。


火狐は共食いを嫌うので、倒した骸は隅に放置されている。


皆が走り、飛び回り、一撃当てては距離を取るが、源達三人の攻撃は、相手に全くダメージを与えられない。


女性達はもとより、源の拳でさえ、その硬過ぎる毛皮に阻まれて、傷すら付けられない。


喜三郎と影鞆、そして菊乃が、あと2体を何とか倒してくれるのを期待しながら、自分達は時間稼ぎをする事しかできない。


「くっ」


火狐の尻尾の強打に、身体を掠られた志野が呻く。


「ゴフッ」


源がカバーに入るが、その源も、前足の攻撃をまともに受け、肋骨の1本でもへし折れたような嫌な呻きを洩らしながら、後方にふっ飛ぶ。


「あんたっ!!」


あやめが火狐の注意を引くべく、猛然と襲いかかるが、リーチの長い敵の攻撃の前に、陸に近付く事すらできない。


「きゃっ」


菊乃が源にヒールを掛けるべく動きを止めた所に、他の火狐が襲いかかる。


直撃は避けたが、その爪で脇腹を抉られ、忍び装束の下に着込んだ鎖帷子に、貫通はしないまでも大きな傷跡が付く。


よろめきながらも何とか次の攻撃を交わし、影鞆の援護で距離を取る。



 「・・流石に、もう無理では?」


観戦所で戦いを見ている役人が、紫桜の顔色を窺いながら、遠慮がちにそう洩らす。


このままでは、全滅は免れない。


ここで彼らの全てを失えば、来年以降は、ほとんど火狐を倒す事ができなくなるだろう。


租税を全く納める事ができなくなれば、本国は彼女を強制送還するはずだ。


どうやら村人達の鉱山送りを防ぎたいようであるが、主力の精鋭全てと引き換えでは、意味があるとは思えない。


火狐の攻撃を受けて傷つく、背後で観戦している彼らの身内である綾乃達から、悲鳴のような声も漏れ聞こえる中、紫桜は、両手の拳を膝の上で強く握り締めて、懸命に不安と戦っていた。


役人の言う通り、このままでは全滅だ。


自分の指示が少しでも遅れれば、家族のように大切な彼らを全て失ってしまう。


・・でも、あの人は約束してくれたのだ。


自分だけでなく、自分の大切な人達も守ってくれると。


そして自分は彼に言ったのだ。


貴方を信じる以上に、愛しているのだと。


叫びたくなる気持ちをどうにか抑えて、頭を上げ、しっかりと前を見据える。


ちょうど源に向かって、火狐の王が炎を吐く寸前だった。



 「・・このままでは、全滅でござるな」


影鞆が、近くで戦う喜三郎に声をかける。


「相打ち覚悟で仕留めに行くしか、打つ手はないかもしれません」


2体の火狐と一人で戦っていた喜三郎は、手傷を負わせた1体を見ながら、影鞆に、そう提案する。


「とにかく、数を減らさない事にはどうしようもありません。

仮令深手を負ってでも、数さえ減らせば、余裕のできる菊乃さんのヒールに頼れる可能性が増えます」


その彼女の方をちらっと見ると、脇腹を押さえながら、口から血を滴らせた源に、どうにかヒールを掛け終えた所だった。


「それしか、ないようです・・なっ!」


別の火狐からの攻撃に、カウンターの一撃を浴びせながら、影鞆が同意する。


「では、あちらの奴から」


手傷を負わせた方に目を向け、呼吸を合わせて仕掛ける二人。


「ふんッ!」


「はっ!」


2方向からの刃が、火狐の傷ついた腹と胸を襲う。


「ぐうっ」


「がっ」


火狐の苦し紛れの攻撃が、彼らの肩と腕を抉るのも気にせず、力任せに刃を押し込む二人。


「「ウオーッ!!」」


渾身の力が込められた、その肩の傷口から鮮血が噴出し、腕の傷が血飛沫ちしぶきを上げる。


確かな手応えを感じた二人が、残された力で血に濡れた刀を引き抜く。


源達の援護をしていた菊乃が、それを見て急いで駆けつけようとするが、別の火狐が邪魔をして、ヒールを掛ける隙が作れない。


「・・あと1体」


痛みと出血で、かなりの体力を消耗した二人が、気力だけで他の火狐に刃を向けた時、森の奥から、新たな火狐たちがやって来るのが視界に入る。


・・二人の顔に、絶望の影がぎった。


同じ頃、菊乃のヒールである程度まで回復した源は、疲労で動きが衰えつつあるあやめと志野をかばい、先の見えない消耗戦を余儀なくされていた。


女性二人の攻撃は、この火狐には傷すら負わせられず、逆に、時間が経つごとに、彼女らの傷ばかりが増えていく。


「お前らは影鞆達の援護に回れ。

ここは俺が一人で引き受ける」


「無理を言いでないよ。

あんなの相手に、一人ではどうしようもないだろ?」


「このままじゃジリ貧だ。

残りを少しでも早く倒して、外の兵達の力を借りるしかない」


「・・分ったよ。

だけど、死ぬんじゃないよ?」


あやめがそう言い、無言の志野に合図してその場を離れた時、王たる火狐が纏う、赤いオーラが急速に膨れ上がる。


「不味い。

炎を吐くぞ!」


普通の火狐とは比較にならない、強大な魔力がオーラを増幅させ、その衝撃に備えるかのように足を止めた奴が狙う先は、何とか4体目を倒し終えたが、何故か呆然としている影鞆と喜三郎達だ。


あやめと志野は、傷ついた彼らを見据えていて、それに気付いていない。


「・・済まん、あやめ。

もし子ができていたら、強い子に育ててやってくれ。

・・御屋形様、今そちらに参ります」


呟きを終えるや否や、猛然と加速した源が、右の拳にありったけの力を込めて、火狐を殴りに行く。


「守りたい者のいる人間を、あんまりなめるんじゃねえーッ!!」


源に気付いた火狐が、彼に向かって特大の炎を吐き出す。


炎というより、マグマの奔流のようなその攻撃が、源に届こうとする寸前、蒼き暴風が闘技場に吹き荒れた。


蒼き光が辺り一帯を包み込み、まるで時が止まったかのように、周囲の全てから音と動きが消え去る中、源達六人は、意識はありながらも、その場で身動きもできぬまま、訳が分からず呆然としている。


他にも唯一人、紫桜だけが意識を保てているが、こちらは、長い間待ち望んでいた愛しい相手に、やっと巡り会えた時のような、弾けるような喜びが、隠し切れずに口元に出ている。


広い闘技場の1点に、光り輝く門が現れ、そこから妙に響く、一人の足音が聞こえてくる。


コッ、コツ、コツン。


その足音が次第に大きくなり、門の手前で止んだ後、扉を開く軋んだ音と共に、全身黒ずくめの男が姿を見せる。


『・・御剣様!?』


菊乃が、影鞆と喜三郎に襲いかかろうとした火狐に、飛苦無を投げつけようとした固まった姿勢のまま、心の中で驚く。


その男は、ゆっくりと源達の側まで来ると、徐に口を開いた。


「・・皆、よくぞ頑張った。

たゆまぬ努力を重ね、大切な何かのために、力の限りに戦う姿を、存分に見せて貰った」


和也から発せられる、いつもと違う厳粛な言葉の響きに、戸惑う六人。


「先に詫びておこう。

お前達が苦しむ事は、この島に来る前から、予め分ってはいた。

だが、我は無制限に人に力を貸しはしない。

懸命に努力し、死力を尽くし、それでも届かぬ純粋な魂の慟哭にしか、本来は耳を傾けない。

そしてそれすらも、時には知らぬ振りをする」


一見穏やかそうに見える彼の表情とは大きく異なり、その身体からはとてつもない力の波動が溢れ、止まった時間の中で呼吸すらできないのに、何だか息苦しさを感じる菊乃達。


「我はこの島に、紫桜の、魂からの絶叫によって導かれた。

我がここに来た事で、その原因は違う未来へと改変され、彼女がそうする必要もなくなったが、本来ならば、お前達全員はここで死に、紫桜もまた、その跡を追って自害する定めであった」


それを聴いた全員が酷く驚くも、今の状況を考えれば、すんなりと受け入れられた。


紫桜だけはその中で唯一人、別の事をも考えていた。


『わたくしだったのね』


誰が和也をこの島に呼んだのか、ずっと教えては貰えなかったが、そういう事だったのだ。


確かに、自分に身に覚えの無い、未来の事を言われたとしても、あの時は信じなかったかもしれない。


でもそうすると、彼は最初から、自分を助けに来てくれた事になる。


お風呂で裸を見られて、それがきっかけで仲良くなって、そして恋に落ちたのは、・・運命だったのね。


「・・我は人の世に関わりを持って、まだ短い。

遥か彼方から見てはいたが、生きとし生けるもの、その全ての息吹を肌に感じ、直接触れる事は、つい数か月前まで無かった事だ。

想像していた通り、お前達人間は、温かな温もりと思い遣りに溢れ、血縁なき他者や、弱き小さき存在にまで、慈しみと労りの目を向ける事ができる。

だが、悲しい事に、そうした人の世にも、自己の欲望のみを優先し、他者の幸せを踏みにじる悪は存在する。

様々な人種、種族が共存し、自らが生き残るために、互いに殺し合う事もある」


そう言いながら、六人の傷を完全に治し、その傷跡と共に、彼らの身体に長年に渡って染み込んだ、火狐の毒まで消し去る和也。


「世界は無数にあり、生命が生まれ、育まれる星も数多ある。

我はあまり勤勉ではない故、その視線から外れ、救いの手から零れ落ちる者も出る」


和也が源に尋ねる。


「力が欲しいか?」


『欲しいです。

俺はもう、嫌なんでさあ。

大事な人が苦しむ事が。

それを、ただ見ている事しかできない自分が。

俺にもっと力があれば、御屋形様だって、あんなに早く、お亡くなりにならずに済んだ!!

力が欲しい!

何者をも打ち砕く、強い拳が。

大事な人を守り抜く、鋼のような足腰が』


止まる時の中で、流せぬ涙を流しているような、源の、嗚咽を伴う強い渇望。


和也が影鞆に尋ねる。


「お前も力を欲するか?」


『はい。

頂けるなら喜んで』


「何のために?」


『命の心配なく、気が合う仲間と楽しく余生を送れるために。

そして何より、受けたご恩に、最大限に報いるために。

人の命に差異はなくとも、失われてはならない命も多いはず。

わたくしは、そういう命を守っていきたい』


誰とは言わなかったが、彼もまた、源と同じ者の事を指しているのだろう。


「菊乃、お前はどうだ?」


先程から、和也の変わり様を1番気にしている彼女に、そう尋ねてみる。


『え?

私ですか?

あの、私は、私も・・欲しいです』


「何故だ?」


理由を問われ、少し恥ずかしそうに口ごもりながらも、どうにか思いを告げる菊乃。


『・・御剣様の、皆さんの、お役に立ちたいんです。

この島に流される前の私は、何処にでも居る普通の、平凡な人間でした。

何も望めない代わりに、陸な努力もしない、日々をただ徒に過ごすだけの女の子でした。

・・でも、生き残る以外に何の楽しみもない、踠かなければ生きてはいけないこの島で、私は初めて他の人から頼りにされ、そして、自分の力を認めていただきました。

霜の降りる寒い日々に、毎朝走る長い距離も、炎天下で何時間も苦無を投げ込む腕の痛さも、それまで全く鍛えてこなかった私には、本当に辛い事でした。

戦う事のできない母を、鉱山に送らせまいという強い気持ちがなければ、きっと、続けられなかったと思います。

そんな島の暮らしの中で、姫様や精鋭の皆さんに努力が認められ、自分に少し自信が持てて訓練が然程辛くなくなり、御剣様に出会えた事で、人としての喜びも感じられました。

・・離れたくないのです。

できる事なら、ずっと御剣様のお側に居たい。

私にもっと力があれば、お忙しい御剣様の手足となって、そのお手伝いができるかもしれない。

随分都合の良い考えですが、貴方様と出会ってしまった今の私には、そんな厚かましい願いがあるのです』


自分の前では明るく笑い、時には不満さえぶつけてくるようになった菊乃が抱えていた意外な思いに、和也は少し嬉しくなる。


「傷ついた心が、大分癒されてきたようだな。

願い、欲し、それに向かって手を伸ばそうとするのは、人である以上、寧ろ当たり前の姿だ。

自分をそんなに卑下する必要はない」


あやめ、志野、喜三郎にも順に問い質した和也は、皆同様に力を求める答えを受けて、一旦何かを考えるようにゆっくりとその瞳を閉じる。


やがて再び開かれたその瞳は、何処までも澄んだ青空の如く、何処までも清い湖のように、青く光輝いていた。


「認めよう。

その思い、その願い、そしてその渇望を。

この世界の唯一の神にして創造主たる我は命ず。

その命尽きるまで、風のように走り、いかずちの如く切り裂き、大地のように堅牢なその身体で、自分なりの正義を貫き、己の大切なものを守っていくが良い。

・・時限補助魔法、神兵!!」


時が止まった蒼き光の中で、六人の身体が、一瞬光輝く。


「この力は、普段は効力を発揮しない。

だが、命の危険に晒された時、真に大切なものを守る時、己の信じる正義を貫く時、ひとりでに発動する。

お前達が寿命を迎えるまでの、お前達一代限りの力だ。

・・さあ、行くが良い。

長き禍根の根を絶ち切って、お前達が望む未来を手にするが良い」


辺りを包む蒼き光が次第に晴れていく。


そして、止まっていた時が動き始めた。


ドバン。


源に届こうとしていた火狐の炎を切り裂き、その拳が、火狐の王の頭を打ち砕く。


ズバンッ。


菊乃が放った飛苦無が、小型の物とは思えない程の威力で、火狐たちの身体を貫いてゆく。


観戦所から見ていた者達は、紫桜を除いて、突然の彼らの変わり様に、皆暫し呆然となる。


何時の間にか、和也が闘技場に立っている事にも、酷く驚いていた。


精鋭六人の身体からは、蒼い光のオーラが、周囲に拡散する陽炎のように、ゆらゆらと揺らめいている。


「・・これが俺の拳?

・・凄え。

今なら岩さえ楽に砕けそうな気がするぜ」


「力が、気力が、後から後から漲ってくるでござるよ。

・・身体が軽い。

高い塀でもゆうに飛び越えられそうですな」


「非力な私の苦無に、あんな威力が?

ちょっと怖いですね」


そう言いながらも、菊乃の浮かべる表情は、喜びのそれだ。


「・・さて、それじゃあ行くとするか。

今日中に全部狩っちまわねえとな。

この後、何かと忙しそうだしよ」


源に釣られて皆が振り向いたその先には、観戦所の中で、両の眼から零れ落ちた嬉し涙を、人差し指で何度も拭っている、紫桜の姿が見える。


その眼差しは、血に濡れた闘技場で、一際威勢を放っている、和也の姿に釘付けだ。


あやめと志野の口元が、笑顔で僅かに緩む。


「いくぞ、おめえら。

突撃だーっ!!」


源の合図で、六人が風のように疾走する。


通常の人間なら、視界に捉えるのも難しい程の勢いで、その背後に蒼き光の残像を残しながら、森へと入って行く。


もし森全体を見渡す事ができれば、20㎞以上に亘る深い木々の中を、蒼き残像を漂わせてゆらゆらと漂うように見える、彼らの姿を見る事ができたであろう。


木々の間を抜け、邪魔な枝を切り裂いて、破竹の勢いで進む源達。


途中で襲いかかってくる火狐たちを、一撃一刀で瞬殺し、火山の中腹にある、大きな洞窟に辿り着く六人。


その勢いのまま、そこに横たわる大きな火狐を瞬殺しようとして、・・全員の攻撃がピタリと止まる。


どうやらその火狐は、あの王のつがいらしく、しかも子供を産んだばかりで、陸に動けないようであった。


力が入らないその身体で、何とか首だけを動かし、まるで何かを守るように、威嚇して睨んでくる。


後ろでは、産んだばかりの小さな2体の火狐が、まだ満足に見えもしない目で、母親の姿を懸命に探そうとしていた。


「殺らなくて、良いのかい?」


火狐を見ながら、あやめが、直前で拳を止めた源に尋ねる。


「おめえだってやいばを止めたじゃねえかよ。

・・それにな、抵抗もできない奴を、殴る拳は持ってねえよ。

昔も、そして今も・・な」


「生まれたばかりの子供はともかく、この火狐は、人の味を覚えております。

このまま見逃しても良いのでしょうか?」


喜三郎が、自分も刃を止めたにも拘らず、自信なさげにそう尋ねてくる。


「野暮な事言うもんじゃねえよ。

また襲って来るようなら、その時に倒せば良いだけじゃねえか。

それにな、こいつらだって、ママのおっぱいが欲しいに決まってんだろ。

なあ?」


母親の後ろで、じゃれつくように動き始めた火狐の子供たちを見ながら、そう話かける源。


「言いたい事は分るけど、もっと上品にお言いよ。

恥ずかしいじゃないか」


あやめが、顔を赤らめながら文句を言う。


「生娘じゃあるまいし、何恥ずかしがって・・痛てっ」


言葉の途中で、あやめに頭を叩かれる源。


「帰りましょう。

姫様がお待ちです」


志野の言葉に、皆がきびすを返す。


ここに、長かった火狐との生存競争が、一応の決着を見るのであった。

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