紫桜編

第1話

 セレーニア王国とは魔の森を挟んだ大陸の反対側、遥か西の地に、広大な海に浮かぶ大小4つの島から成る、四季の変化が織り成す美しい自然を持った国、雪月花はある。


その一番左端に位置する、およそ800㎢の大きさを持つ瓢箪のような形をした島の、活火山の麓にある小さな集落の前に、和也は居た。


とはいっても、島に1つしかない港からその集落に向かうには、朱塗りの大きな門を潜らなければならないが、その門は、外側から頑丈に鍵が掛けられていた。


只の鍵ではない。


幾重にも、結界魔法が掛けてある。


まるで、中に居る者達を、外に出さないようにしているかのように見える。


門の上には文字が彫ってある。


一度ひとたびこの門を潜れば、汝には一切の希望なし。

生きるも死ぬも、汝次第と知れ』


「どこぞの地獄のようだな」


苦笑いしながら門を潜ろうとした時、門の内側から、声がかけられる。


「入れねえよ。

見えねえから分らんかもしれんが、結界魔法が掛けられてるからな」


声の主を探して、門の内側に生えている大木に目を向けると、そこに作られた物見櫓に、一人の男が居るのが見えた。


「本国からの連絡船はまだ先のはずだが、お前、何者だ?」


30前半くらいか、左目に眼帯をし、その下に鋭い爪でひっかかれたような傷跡のある、体躯の良い男が、そう問いかけてくる。


「島流しの者じゃないようだが、それにしてはおかしな格好してやがるし、どっから来た?」


本人は、決して脅してる積りはないだろうが、歴戦の戦士のような鋭い眼光と、全身から発する威圧感に、並の者なら竦み上がって、陸に声も出せないだろう。


和也は、その男の身なりを観察する。


自分の格好を変だというその男のものは、地球の和服と呼ばれる物とそっくりだ。


着流しではないので、甚平と言った方がより正確かもしれない。


ただ、髪型は、別に髷を結っている訳ではなく、極普通の短髪だ。


足下は、素足に草履のようなものを履いている。


見知らぬ国で、初対面の者と挨拶の言葉を交わすのは、エリカに次いで二度目の和也。


ここは最初からアレを使ってみよう。


セレーニアで、多くの者と言葉を交わした和也であるが、未だこういう挨拶は不慣れであった。


「自分は、さる国のちりめん問屋の隠居で、御剣和也という」


「・・良い度胸だ。

こっちが外に出られないと思って馬鹿にしてやがると、後で痛い目みるぜ」


和也の答えを聞いた男の顔に凄みが増す。


「別に馬鹿になどしていない。

答え辛い質問をするからだ。

とりあえず、中に入っても良いか?」


「はあ?

だから、入れねえって・・」


きりがないので、男の言葉を無視して門の扉を開ける。


「・・嘘だろ」


普通に扉を開けて、中に入って来る和也に驚く男。


「驚く程のものか?」


男が櫓から飛び降りて、和也の下にやって来る。


「・・ちょっと来い。

姫様に会って貰う」


腕を取られそうになった和也が、反射的に避ける。


「てめえ、さっきから喧嘩売ってんのか?」


「勘違いするな。

手を取られるなら、婦女子の方が良い。

そう思っただけだ」


「けっ。

悪かったな。

むさい男でよ。

・・何でも良いから、ちゃんと付いて来いよ?」


そう言うと、男は諦めたように前を歩き出した。



 島の3分の2を火山とそれに伴う森林が占め、残された地には、大小の田畑と、その中に点在する木造の平屋造りの家が見える。


その数は、100に満たないであろう。


門から火山に向かって、大きな荷車が通れる程の広い道が、一直線に整備されている。


他の道は、田舎にありがちの、地形に沿った緩やかなカーブを描いたものばかりなので、この大きな道だけが人工的な感じを際立たせ、何かしらの違和感を見る者に与える。


昼間の時間帯だけあって、農作業をする者が多く、黒ずくめの洋装は勿論、見知らぬ和也に人々の視線が刺さる。


整備された道を逸れ、脇道を右手に歩いて行くと、程無く、1軒だけ、他の家とは明らかに造りの違う、風格ある屋敷の前に着いた。


「お前にはこれから、姫様に会って貰う。

・・言っとくが、もし姫様に危害を加えようとしたら、その場で殺すぜ?

死にたくなければ、大人しくしてろよ?

おら、腰の剣を渡しな」


「随分物騒な事を言う奴だ。

自分がそんなに危なそうに見えるのか?」


剣の鞘を外して男に渡しながら、文句を言う和也。


「おめえみてえなのが1番危ねえんだよ。

姫様を見た途端、その美しさにころっと参っちまって、直ぐ手を出そうとするからな」


「案ずるな。

自分は妻帯者だ」


「関係ねえよ、そんなもん。

ほら、こっち来い」


屋敷を囲う土塀に作られた門を開け、玄関へと進み、その扉を開ける。


「おーい、誰かいねえか?」


男の声に、廊下の奥から、和服を着た20代後半くらいの女性が姿を見せる。


「あんた、前から言っているだろう。

ここは姫様のお屋敷なんだ。

もう少し言葉遣いに気をつけな」


「分ってるよ。

それより、至急姫様に会わせたい奴がいる。

お目通りをお願いしてくれ」


男の顔が真面目になったのに気が付いた女が、和也を見る。


「見ない顔だけど、何処から拾ってきたんだい?」


和也に視線を向けながら、あくまで男に尋ねる女。


「・・外から”門を開けて”入って来た」


「直ぐにお願いしてくる」


女はそれだけ言うと、また奥に引っ込んでしまった。


「おら、こっちだ」


男は草履を脱いで上がり込むと、和也を手招きする。


通された先の、風情ある畳の部屋で、男と座って待つ和也。


その間、開け放たれた障子の先に見える景色を楽しむ。


四季の区別がはっきりしたこの国は、今、秋の終わり。


夏の強い日差しを浴びて色づいた木々が、その葉をゆっくりと散らしていく。


縁側付近には大きな池があり、色とりどりの錦鯉が泳いでいた。


時折、何処かで鹿威しの音がする。


「良い庭だな」


美しいものには賞賛を惜しまない和也がそう口にする。


「おめえ、分ってるじゃねえか」


嬉しそうに男が笑った時、正面の襖が静かに開かれた。


先程とは違う女性が襖を開いたその先に、御簾が掛かり、1段高くなった場所がある。


そこに、一人の女性が座っていた。


御簾の前のその両脇には、二人の女性が控えている。


一見、只の和服を着た若い女性達に見えるが、和也の眼には、その袖に短刀を隠し持っているのが映る。


「姫様の御前です。

頭をお下げなさい」


脇に控えた女性の一人から、そう告げられる。


こういう場面は、観察していた地球のテレビ番組でよく目にしていたので、堂に入った御辞儀を披露する和也。


「へえ?

無骨者かと思ったら、中々に礼儀を心得ているじゃないか」


先程玄関先で会った、もう一人の女性が、少し感心したように言う。


「御簾を上げて下さい」


1段高い場所に座った女性から、二人に声がかかる。


「宜しいのですか?」


若い方の女性が、確認するように尋ねる。


「構いません」


一人が恭しく御簾を上げていく間、もう一人の女性が、いつでも動けるように戦闘体制を取る。


何時の間にか自分の後ろに控えていた男からも、殺気が漂っていた。


「面を上げて下さい」


上がりきった御簾の奥にいる女性の姿を見た瞬間、和也は、成る程、と思った。


年の頃は17か18くらい。


腰の少し上くらいまでありそうな、漆黒の、艶のある髪。


透き通るような色白の肌を、黒い振袖に包み、意志の強そうな瞳がこちらを見ている。


エリカが美の極致なら、この少女は、和の頂点とでも言おうか。


確かに、男が事前に自分に対して警告したのも頷ける。


「門を潜ってこちらにみえたとお聞きしていますが、本国の方でしょうか?」


少女が鈴のような美声で尋ねてくる。


「多分違う。

自分は本国とやらが何処かを知らない」


「本国をご存知ない?

・・では何故、結界魔法を解除できたのですか?」


「解除などしていない。

普通に通って来ただけだ」


「・・どういう事でしょう?」


「自分には魔法が効かないからな」


「魔法が効かない?

・・一切の魔法が効かないのですか?」


「自分自身で己に掛けるもの以外なら、そうだ」


少女が徐に片手を上げ、風刃の魔法を飛ばしてくる。


その魔法は、和也に届く手前で消滅してしまう。


少女が僅かに片方の眉を動かす。


今度はヒールを掛けてくる。


それも、やはり和也を包もうとする直前に、消えてしまった。


「・・どうやら本当みたいですね。

・・貴方は、人間ではないのですか?」


「それは、・・難しい質問だな。

今はノーコメントという事にしておいてくれ」


「ノーコメント?

どんな意味でしょうか?」


「答えたくないという意味だ」


少女を守る三人の殺気が膨らんでいく。


「では、質問を変えます。

貴方はどちらからいらして、ここには何をしにいらしたのですか?」


「それも答えるのが難しい。

最近まで居た場所はセレーニア王国だ。

ここに来た理由は・・ある者に”呼ばれた”からだな」


「呼ばれた?

この国の者にですか?」


「そうだ」


「それはどなたですか?」


「ノーコメントだ」


「お話しいただかないと、牢に入って貰う事になりますが、それでも?」


「それでもだ」


少女がじっと和也を見る。


その真意を探ろうとして覗いた瞳に、逆に引き込まれそうになり、慌てて目を逸らす。


「連れて行きなさい」


内心の動揺を必死に隠しながら、努めて平静を装い、目を逸らしたまま、事務的にそう告げる少女。


後ろから、男の手が和也の肩にかかる。


和也は、抵抗する事なく屋敷から連れ出され、その裏手にある小山の斜面を刳(く)り貫いた牢へと、自ら入って行った。


かなり汚れていたので、浄化の魔法を掛けたのは言うまでもない。


「おめえ、男にしては随分魔力が強いな。

・・まあ、暫くそこで大人しくしてな。

2週間もしねえで出して貰えるだろうよ」


和也の浄化の魔法を見た男は、驚きながらも、それだけ言うと、来た道を戻って行った。


「さて、少し様子を見るとしよう」


和也は、牢の壁に寄りかかり、目を閉じた。



 「あの少年を、どう見ましたか?」


少女は和也が連れて行かれた後、自分を守る二人の女性に尋ねた。


「そうですね。

悪い者ではないのでしょうね。

彼からは、一度も殺気を感じませんでした」


「私もそう思います。

姫様を見る彼の眼には、邪なものがありませんでした。

ただ、隠し事が多過ぎます。

警戒は必要かと」


「本国からの密偵ではないと?」


「・・それはまだ分りません。

黒髪、黒目は我が雪月花の特徴ですし、ここに来ていながら、本国を知らないなどとは思えません」


「そうですね。

何れにしても、2週間後には分ること。

彼には悪いですが、それまでは牢に居て貰いましょう。

今は彼に関わっている時間など、ないのですから」



 月の奇麗な夜、時折吹いて来るそよ風に乗って、斬撃の音が微かに聞こえてくる。


だが、何かに襲われているような怒声や悲鳴は聞こえない。


黙々と、ただお互いに剣を交し合うような音だけが聞こえてくる。


興味を持った和也は、そっと牢の錠前を外し、隠密の魔法で姿と気配を断って、歩き出す。


虫たちの奏でるのどかな音の絶えない田園を抜け、火山の麓近くにある、少し開けた場所に来る。


そこに、黒装束に身を包んだ、三十名くらいの男女が居た。


全員、刃を潰した日本刀や短刀を手にして、剣の稽古でもするかのように切り結んでいる。


かなり身のこなしの軽い者達だ。


軽やかに走り、跳び、宙を舞って、様々な技で相手を攻撃している。


1年や2年で習得できるものではない事は、その動きや技の切れが教えてくれる。


クナイや小刀といった飛び道具を使い、的相手に励む少年や少女もいる。


誰も皆、真剣だ。


まるで自分の命が懸かっているかのように、必死に訓練している。


昼間会った男や女性達もいるが、姫と呼ばれた少女の姿はない。


一通り観察した和也は、また牢へと戻って行った。



 「食事です」


鳥のさえずる木々の枝を通して差し込んだ朝日が、薄暗い牢の中を僅かに照らす。


一人しか居ない牢の中で、背中を丸めて寝ていた和也に、女性が声をかける。


起き出した和也が、鉄格子の前まで行くと、その下に作られた小さな開き戸の鍵を開け、女性が食べ物を差し入れてくれる。


「有難う」


和也がそう声をかけると、その女性は意外な顔をした。


「一方的に牢に入れられた者にしては、随分と落ち着きがありますね。

・・まだ10代の少年のように見えますが、実は遥か東の国にいるというエルフ族のように、何百年も生きているのでしょうか。

・・それとも、直ぐにでも出られるという当てでもあるのでしょうか」


自分を観察するかのように、じっと見つめてくる女性。


昨日も姫と呼ばれる少女の脇に控えていたが、まだ若いのに、それなりの地位にでもあるのだろうか?


興味を持った和也が尋ねる。


「君は彼女の家来か何かか?

彼女の身内は、他にいるのだろうか?」


「そんな事を聞いてどうするのです?

ここに何をしに来たかは知りませんが、命が惜しいなら、あまり深入りしない事です」


そう言うと、女性は振り向きもせずに帰って行った。


差し出された食事を改めて見る。


海苔の巻いてないおにぎりが3つと、何かの漬物が少し。


昨日見た限りでは、それほど豊かでもなければ貧しくもない、ごく普通の農村に見えた集落。


捕虜の食事としては、大分気を遣ってくれているようだ。


その1つを手にとって頬張りながら、これからどうするかを考える和也であった。 



 「暇だな」


これまで途方もない時間を一人で過ごしてきた和也であるが、己の居城で人々を観察していた時とは異なり、ここには人の営みがある。


直ぐ近くに、生命の息吹が感じられる場所がある。


2週間など、瞬き1つ分程の感覚もないが、セレーニアで人と出会い、触れ合う喜びを覚えた身には、直ぐそこに人々が暮らしているのに、何もしないで牢でじっとしているのが思いのほか辛かった。


散歩くらいなら良いだろう。


そう考えて、牢の外に出る和也。


昨晩と異なり、今は真昼だ。


誰かが牢に自分を見に来た時は転移で戻る事にして、自身に隠密魔法を掛けて歩き出した。


夜の闇を、月明かりが照らすだけの、静かな田園風景も良いが、日の光が穏やかに降り注ぐ昼間の長閑な景色も良い。


稲はあらかた刈り取られ、次の田植えに向けて、その身を休ませている田んぼ。


夏には赤や緑の瑞々しい実を付けていたであろう畑には、地味ではあるが、その回復に必要な作物が植えられている。


小さくはないが、決して大きくもない田畑を、大事に管理している。


点在する家々も、築何十年も経っているものばかりだが、どれもしっかりと手入れが行き届いている。


和也は、こういう長く使われ、大事に手入れされてきた物が醸し出す、味わい深さが好きだ。


真新しいものが持つ光沢もいいが、何代も人に受け継がれ、磨かれてきた物が持つ艶が好きだ。


そこには人々の歴史を感じる。


手に取るだけで、人の想いが伝わる。


自然が作り出す造形も、人々が暮らす町並みも、本当の美しさを表すには長い年月を必要とする。


短い生を生き急ぐ人とは異なる、神ならではの視点なのかもしれないが。


昨晩、黒装束の者達が訓練していた場所に来る。


あの時は、姫と呼ばれる者の屋敷の方から来たので分らなかったが、この広場は、正門から延びる広い道の先にある。


今は、投擲用の的が隅にあるだけで、誰も居ない。


どうやら、昼間は農作業に従事し、夜間にだけ訓練しているようだ。


夜には気付かなかったが、広場の後ろに道がある。


そこを辿って行くと、自分の背丈よりかなり高い大きな門に阻まれた。


門の内側には、門の外を観賞するために作られたような、背の高い、立派な建物が建っている。


この門には、鍵が掛かっていない。


押し開けて中に入ろうとした和也は、そこに漂う妖気と怨嗟の思念に、思わず眉を顰めた。


門の先には、先程と同じくらいの広さの空間があった。


その先に、更にもう1つ門がある以外は何もない場所。


ただ、その周囲は結界が張られた鉄柵で囲まれ、前後にある門以外からは出られないようになっている。


そして、地面には、長い間に染み付いたと思われる血溜まりの跡が、所々、どす黒い染みとなって残っていた。


火山へと続く森との境にある最後の門には、結界魔法の他に、強力な封印魔法が掛けてある。


外側からの侵入を防ぐと共に、内側からも開かないようにしてあった。


踵を返し、牢への道を戻りながら、集落の数の割には、昼にも拘らず、あまり人に出くわさなかった事に気付く。


畑仕事をしている女性や子供が何人かいたが、働き盛りの男達には会わなかった。


次は屋敷のある場所とは反対側、島の西側の方を見に行こう。


そう考える和也の頭の中に、牢に近付いて来る女性の姿が映る。


咄嗟に転移して、何気ない振りを装って岩に凭れかかり、その女性がやって来るのを待つ。


「何か話す気になりましたか?」


声をかけてきたのは、意外にも、姫と呼ばれる女性だった。


昼食と思われる、おにぎりの載った皿を差し出しながら、そう尋ねてくる。


「姫が直々に捕虜の食事を持って来るなんて、聞いた事ないな」


少しおどけるような口調でそう言うと、少女はむっとして、つっけんどんな口調で言った。


「彼女もあれで何かと忙しいのです。

今の時期、この村で1番暇な者は、恐らくわたくしですから」


「・・済まない。

気を悪くしたのなら謝る。

自分はあまり会話が達者ではないので、時々、言うべき言葉の選択肢を誤るようだ。

以前、とある星の本を沢山読んで勉強したのだが、まだまだらしい」


わざわざ食事を持参してくれた者に対して、言うべき言葉ではなかったと、反省し、頭を下げる和也。


少女がじっと和也を見る。


「貴方、他の方とは違いますね。

昨日も思いましたが、独特の雰囲気を持っていらっしゃる。

強がるでもない、卑下する訳でもない、相手が誰であろうと、極自然に、ありのままを見て、その全てを受け入れる。

そんな感じが致しますわ。

・・わたくしと同じような歳に見えるのに、一体どんな人生を歩んでこられたのでしょうね?

少し、気になりますわ」


そう言って、表情を柔らかくした少女は、そのまま帰って行った。


差し出されたおにぎりは、形が少し、朝より歪に見えた。



 島の西側では、共同の露天風呂を見つけた。


火山があるからもしかしてと探してみたが、案の定、男女別の大きなものがあった。


ただ、風呂といっても、それは岩場に湧いた温泉の周りを板で囲って仕切りを設けただけの簡素なものでしかないが、その分、源泉かけ流しである。


近くを流れる小川の水を引いて、温度の調節をしているようだ。


今の時間はまだ誰も入っていない。


温泉とはいえ、ここでは娯楽施設ではなく、あくまで生活の場なのだ。


自分のように、入る必要もないのに浸かって、風情を楽しむようなゆとりまではないのだろう。


雨量の多い地域らしく、水は豊かだ。


島には大小3つの川が流れ、その内の2つが集落まで続いている。


雨は森の木々を潤し、花々を慈しみ、動物達の餌となる牧草を育てる。


長閑な日差しを浴びた島の風景だけを見ていると、入り口の門に刻んである、あの言葉が嘘のように思えてくる。


川岸の砂利道から、赤や黄色に色づいた葉が散っては流れて行く様を眺めて、人の生き様を考える。


きつい日差しに耐えて得た、鮮やかな装いを、陸に見せる間もないままに、散ってゆく葉。


自分が好きな桜も、その美しい姿を晒せるのはほんの僅かでしかない。


他の種族と違い、100年足らずの時間を生き急ぐ人間。


今の時代では、多くの者は、その半分程度の時間すら、生きる事が難しい。


限りある、短い時間だからこそ、人は懸命に生きようとするのか。


必死になって、己の生きた証を残そうと励むのか。


その短い命を盾にして、他人を守ろうとする優しさは、何処から生まれてくるのか。


長く人の暮らしを観察してきた自分にも、未だこれといった確証の持てる答えは出ない。


よく分らないままに、自分の見込んだ者に眷族への資格を与えて、己の寂しさを紛らわそうとしている。


分らないから面白い。


そういう事もある。


では自分は、その答えが出てしまったら、人に飽きてしまうのだろうか。


人との触れ合いを、あれ程長く渇望してきた自分には、そんな未来があるとは思えないが・・。



 夜の帳は星々の輝きをより引き立てる。


夕食を持って来てくれた女性が、朝に自分が持って来たものと異なる皿があるのを見て、何かを呟いていたが、あまり気にしなかった。


澄んだ空気と、人工的な明かりの少ない夜空が見せる、その星空の素晴らしさに、風呂があるなら入りたいと考えていたせいもある。


夜遅く、暇を持て余した和也は、到頭我慢できなくなり、牢を抜け出し、屋敷の土塀の裏口から敷地の中に入る。


それらしい建物を探すと、直ぐに見つかった。


貴人用のものだけあって、周囲をしっかりした建物で囲い、屋根はあるが、隙間を作る事で、夜空を楽しめるようになっている。


夜間に訓練している者達でさえ、眠りについているであろう真夜中。


念のため、中に人が居ないのを透視で確かめてから、静かに入り口の戸を開く。


露天風呂までの間に、脱衣所らしき小さな空間があり、両脇に脱いだ衣服を置くための棚がある。


手早く脱いだ衣服を、明かり1つない小部屋の棚の隅に置き、風呂への開き戸を開ける。


「ほう」


思った通り、趣のある露天風呂だった。


風呂の大きさ自体はそれほどでもない。


大人が四人も入ればきついかもしれない。


だが、そんな事はどうでも良い。


肌触りの良い一枚岩を刳り貫いた、大きな平たい石を湯船に用い、敷地の右端には小振りの桜が、左の端には紅葉もみじが植えてあり、その周囲を、其々を引き立たせる草花が飾る。


正面には、月や星を邪魔するものが何もなく、照明は小さな灯篭が1つあるだけなので、満天の星空を思う存分楽しめる。


源泉かけ流しの湯が流れ出る音を背景に、時折聞こえてくる虫達の鳴き声、自分が創った宇宙を違う角度から眺める喜びに、迂闊にも、人が近付いて来る事に気付かなかった。


こんな深夜に、風呂に入りに来る者はいないだろうという慢心もあったかもしれない。


いきなり扉を開けられて、振り向く和也。


そこには、叫びそうになる口元を両手で押さえたために、手に持っていた手ぬぐいを落とし、美しい裸身を惜しげもなく晒した少女が立っていた。


「・・済まん。

ちよっと風呂を借りている」


落ち着きを取り戻し、しゃがみこんで裸身を隠した少女に、申し訳なさそうに、そう告げる和也。


「言う事はそれだけですか?」


氷の如く冷たい眼差しが和也を射抜く。


「本当に申し訳ない。

あまりに退屈なので、風呂に浸かりながら、夜空を眺めたかったのだ」


湯船の縁に手を掛け、深く頭を下げる。


「どうやって牢から出て来たのです?

あそこの鍵は、封印魔法ではなく、鉄の錠前のはず。

魔法は効かないようですが、まさか転移魔法が使えるのですか?」


相変わらず、鋭い目をしてそう尋ねてくる。


「それも使えなくはないが、普通に鍵を開けて出て来ただけだ」


「そんな。

貴方があれ程余裕があったのは、そういう理由ですか。

・・貴方、一体何者です?」


「迷惑をかけていながら、こんな事を言うのは申し訳ないが、ノーコメントで頼む」


「くっ」


悔しげな表情を見せた少女は、徐に立ち上がり、こちらに歩いて来た。


側に置いてある湯桶で何度か身体を流し、湯に入って来る。


「・・自分が言うのも何だが、普通は出て行く所ではないのか?」


驚いた和也が恐る恐るそう告げる。


「ここはわたくしの露天風呂です。

裸で外に立っていて、身体も冷えてしまいましたし。

何か文句でもあるのですか?」


「いや、君が気にしないなら、それで構わないが」


「もう既に全部見られてしまいましたし、貴方の眼には、情欲の色がありませんから。

暗いとはいえ、脱衣所の服に気付かなかったわたくしにも非があります。

尤も、貴方でなかったら容赦しませんでしたが。

・・初めて男性に肌を見られたのです。

その責任は重いですよ?」


怒りを和らげ、確認するように微笑んでくる少女。


「先程も、叫ぼうとして慌てて口を押さえていたが、何故だ?」


「あそこでわたくしが叫んでいたら、貴方、間違いなく殺されてますよ?

源さんもあやめさんも、わたくしの事に関しては容赦ないですから。

・・初めから悪い人には見えませんでしたし、その事は、今こうしてわたくしと一緒に湯に浸かりながら、指一本触れてこない事でも分ります。

自分で言うのも何ですが、この島以外の男の人がわたくしを見る時は、必ずと言って良い程、その眼が濁っています」


改めて少女の姿を見る。


普段、和服の下に隠されたその身体は、本当に美しい。


形の美しさ、左右均等の絶妙なバランス、性的な感情を抜きにしても、ずっと眺めていたい。


エリカを見慣れている自分がそう思う程なのだ。


普通の人間がこの姿を見れば、理性など吹き飛んでしまうかもしれない。


和服を着れば、さぞ窮屈であろう、とても大きな胸。


雪のように白く、染み1つない絹のような肌の、その膨らみの頂きには、桜の花びらのように可憐な突起がある。


無駄な肉の一切ない、それでいて女性らしい弾力に富んだ肌は、包み込まれる者に至福の時間を与えるであろう。


見事な曲線を描く腰のラインと、うっすらと切れ込む縦長の臍。


引き締まった、桃のような尻と、長いしなやかな足の先に色づく、桜色の爪。


肩より長い漆黒の髪をアップにしたその姿が、それら全てのパーツに色香を添える。


女性に対して、そういう意味だけの視線を向けるのは、非常に失礼ではあるが、並の男なら抗えないのも無理はないと、少し同情する和也であった。


「貴方の素姓をとやかくお聞きする事はもう止めます。

ですが、これだけは答えて下さい。

・・貴方は、本国と関係がある人ですか?」


「いや、関係ない。

本国とやらが、セレーニアやエルクレールを指すのでなければだが」


少女が和也をじっと見つめる。


その眼差しに、真正面から応える和也。


暫しの時間、見つめ合う二人。


やがて、薄っすらと頬を染めた少女が、顔を僅かに逸らして告げる。


「わたくしの名は紫桜しざくら

花月かげつ紫桜。

明日、牢から出して差し上げます」


「良いのか?」


「ええ。

入れていても意味などない事が分りましたし、貴方を信じる事に致しましたから」


「有難う」


「それから、1つお願いがあります」


「何だ?」


「これからもこの時間に、わたくしと一緒に、お風呂に入って下さい」


「・・・」


「勘違いしないで下さいね。

昼間だと、周りに人が多くて、中々二人きりで話す時間が取れないというだけですから。

・・貴方とは、色々とお話してみたいと思っただけですから」


「・・ここで待っていれば良いのか?」


「はい」


嬉しそうに微笑む紫桜。


「だが、寝る時間は大丈夫なのか?」


「わたくし、夜型なのです。

いつもは、お昼近くまで寝ていますから」


そう告げて、ちょっぴり舌を出す彼女は、歳相応に、可憐であった。

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