第7話 遠慮はいらないとは言ったけど2

 ルールを箇条書きした用紙を冷蔵庫の扉にマグネットで留めた。冷蔵庫なら毎日、必ずと言っていいほど見るし、ぴったりの場所だろう。


 改めて条文を読みなおす。


「ふふ」


 思わず笑いが漏れた。


 ――いよいよふたり暮らしらしくなってきたな……。


 引っ越してきたばかりの風璃はぎこちなくて、うまくやっていけるか不安があった。


 だんだん固さがとれてきたと同時に、なにを考えているのかわからない言動も多くなってきたが、なんだかんだと大きなトラブルもなく順調にやってこれている。


 ――少しずつ少しずつ、育てていこう。


 ふたりの『家』を。


 ――わけのわからない言動も、年頃の女の子ならみんなこんなものかもしれないし、心配することないよな。


「お風呂、お先でした」


 扉が開いて風璃が入ってきた。


「ん、じゃあ俺もいた……だ、くか……?」


 風呂あがりの風璃が横を通りすぎていった。なんてことはないいつもの光景。


 でもひとつだけ、違うところがあった。


 ――い、いま、なんか……。


 視界の端に映りこんだ風璃の姿。ふだんならレッドとピンクのチェックのパジャマを着ているはず。なのに――。


 ――肌色多くなかった……?


 俺は壊れかけのアンドロイドみたいにぎこちない動作で振りかえった。


 リビングの真ん中に風璃が立っている。濡れた黒髪が照明の光を受けて、文字どおりキューティクル天使の輪のように輝いている。


 髪から視線を下へ移動していく。ほんのり朱に色づいた頬、首筋、鎖骨、そして胸元が露わになっている。


 風璃はパジャマを着ていなかった。バスタオルを胴に巻いているだけだった。


「ちょっとお!?」


 風璃はあでやかに微笑した。


「どうしたの?」

「パジャマは!」

「あるけど」

「有無は聞いてない! なぜ着ていないのかと聞いてる!」

「ん~」


 風璃はあごに手を当ててうなった。


「逆に聞きたいんだけど、なぜパジャマを着るの? 好きなの?」

「好き嫌いで決まるものなのか……? じゃあ風璃はパジャマが嫌いなのか?」

「好きだけど。楽だし」

「じゃあ着ろよ!?」

「ちょっと長湯しちゃって身体が火照ほてってるの」

「それにしたってお前……」

「べつにいいでしょ」


 風璃はにいっと口角をあげた。


「家族なんだから」

「っ! でも……!」

「遠慮するなって言ったよね?」

「っっ!」


 言葉につまる俺に勝ち誇ったような笑みを浮かべる風璃。


 彼女はソファに座って脚を組んだ。


 ――ちょ……。


 巻いたバスタオルがずり上がり、脚のつけ根までむき出しになる。


 ――脚、長っ!


 すらりとしているが筋張ってはいない、見事な脚線美だった。


 風璃はもう一枚のバスタオルで濡れた髪をはさむようにして水気をとっていく。その仕草がまた実に優美でなまめかしい。首を傾げるようにして垂らした髪をブラシで丁寧にくしけずる様子も、まるで女神の水浴びである。


「……」


 ――……はっ。


 俺はぶるぶると首を振った。


 自分でも気づかぬうちにぼうっと見とれてしまっていた。


「さ、髪、乾かしてこようかな」


 そう言い残して風璃は風呂場のほうへもどる。やがてドライヤーの音が聞こえてきた。


 俺はほうっと息をついた。


『遠慮はするな。だって家族だろ(余裕の笑み)』なんて格好つけて言ってしまった手前、いまさらやめろと注意するのも恥ずかしい。


 ともかく、ぼろを出さずに済んでよかった。


 力尽きるみたいにソファに座りこんで目をつむっていると、ドアが開いて風璃の入ってくる気配がした。


「ああ、言い忘れてたけど、さっきのルールは冷蔵庫――」


 何気なく風璃を見る。


 彼女はまだバスタオル姿だった。


「なんで!?」

「なにが?」

「バスタオル!」

「火照ってるって言ったでしょ?」

「長くない? どんだけ血行がいいんだよ……!」


 風璃は「は~、あっついあっつい」と手で顔を扇ぎながら冷蔵庫の前へ移動した。


「そ、そうだ、そこにさっき書いたルールの紙をぉぉ!?」


 語尾が雄叫びになってしまった。


 風璃が冷蔵庫のドアを開けた。それだけならいい。上半身を低く――つまり尻を突きだすような姿勢をとったのである。


「あれ? ウェ○チなかったっけ?」


 庫内を覗きこむ風璃が俺に尋ねた。しかしそれに答える余裕は俺に残されてはいなかった。


 バスタオルがずれて再び脚のつけ根までむき出しになる。しかも今度は背後からだ。露わになった柔らかそうな肉は太もものそれなのか、はたまたお尻のそれなのか。


「ねえ、どこ?」


 フルーツジュースを探す。そのたびにお尻が左右に振れる。俺は搾りだすように答えた。


「の、飲んじゃいました……」

「じゃあ牛乳でいいや」


 風璃は残り少ない牛乳をパックに口をつけて飲んだ。吸いつくようなくちびる、怪しくうごめくのど、腕をあげることで露わになったわき。すべてが目に毒だ。


「ふう……」


 一息に飲み干し、パックを水道で洗う。そしてリビングのほうへ歩いてきた。


 ようやくパジャマを着てくれるのかと期待したが、風璃はなぜか自分の部屋ではなく、反対方向へ折れた。そちらは俺が寝床に使っているスペースである。


 彼女はたたまれたマットレスと布団を敷いて、その上にうつぶせになった。


「か、風璃?」

「なに?」

「そろそろパジャマ着ないのか?」

「奏くん、パジャマ好きだね」

「だから好きとか嫌いじゃなくて! 身体が冷えるでしょ?」

「火照ってるって言ったでしょ」

「血行いいな! ――さっきもやったなこのやりとり!」

「ここ、コンセントがあるからちょうどいいんだよね」


 コンセントに充電器を差し、風璃はスマホをいじりはじめた。


 ――うう……。


 うつぶせでひじをついているから胸元が広がり、どうしても目が吸い寄せられてしまう。スレンダーだとばかり思っていたが、そこには立派な谷間ができていた。


 ――っ!?


 風璃が頬杖をついた。胸が枕に押しつけられてむにっと変形する。


 ――もう勘弁してくれ……!


 俺は手で顔を覆った。


「どうしたの?」


 風璃の声。


「もしかして――、照れてる?」

「……!」


 風璃の声に挑発的な色がにじむ。


「ねえ、奏くん。わたしの身体を見て照れてるの?」

「う、うう……」

「答えて。照れてるんでしょ?」


 俺はついに観念した。


「て、照れてる。だから、パジャマを着てほしい」

「ふ、うふふ……!」


 指のあいだから様子を覗く。風璃は心底嬉しそうな表情で笑っていた。


「わかった。着てあげる」


 そう言って自分の部屋へ引っこんだ。


 しばらくして、いつものパジャマで出てきた風璃を見て、安堵ととてつもない疲労感が同時にやってきた。


「風呂に入ってくる……」

「いってらっしゃい」


 上機嫌な風璃に送りだされ、俺は風呂場へ移動した。


 身体を洗い、湯に浸かる。


「はああああ……」


 緊張や疲れが湯に溶けだしていくような心地がした。


 ――どうした風璃はあんなことを……。


 立派に育っていることを見せたかったのか、あるいは俺をからかいたかったのか。


 それとも――。


 ――……あ、そうか。


 難しく考える必要はない。言葉どおりに受けとればよかったんだ。


「よし」


 ――風璃の心意気に応えないと。


 俺は決意をして、湯船のなかでざばっと立ちあがった。





「はあ、いいお湯だった」


 リビングに入ると、ちゃんとパジャマを着た風璃が俺の布団でスマホをいじっていた。うつぶせでひじをつく姿勢はさきほどと変わらず、するとやはり襟の隙間から胸元が覗いてしまうのだが、バスタオル一枚のあられもない姿を見てしまっているため耐性がつき、むしろ、


『ふふ、リラックスしてるな』


 と、微笑ましい気持ちになる。


 視線に気がついたのか風璃は顔をあげた。


「おかえ……り……!」


 俺の姿を見たとたん、風璃の表情が驚愕に歪んだ。


「な、な、な……!」

「どうした?」

「なにその格好!」

「なにって……」


 俺は自分の姿を見おろした。


 腰にバスタオルを一枚。以上。


「どうかしたか?」

「どうかしてる!」


 風璃はネコに追いつめられたネズミみたいに壁際に背中をつけた。


「パジャマは!」

「あるけど」

「有無は聞いてない! なんで着てないのか聞いてるの!」

「なんでって……、身体が火照ってるから」

「それにしたって……」

「いいだろ、家族なんだしさ」


 風璃は目をむいた。


 ――なにをそんなに驚いてるんだ?


 風璃は、バスタオル一枚でうろうろすることで、


『わたしは遠慮なんかしてないよ』


 と示し、俺を安心させようとしてくれたのだろうと考えた。


 兄として、そんな彼女の気持ちに応えるにはどうすればいいだろう。その問いへの答えがタオル一丁なのだ。


 俺は冷蔵庫にストックしてあった牛乳をマグカップにそそぎ、腰に手を当ててあおった。


 ――解・放・感……!


 遠慮云々はともかく、これは単純に心地がよいかもしれない。癖になりそうだ。


 風璃は壁際でしゃがみこみ、顔を手で覆ってしまっている。


「どうした?」


 俺は彼女のもとへ歩み寄る。指の隙間から俺の姿を垣間見た風璃は、


「――! ――!!!!」


 と、言葉にならない叫び声をあげ、脚をばたばたさせた。


「な、なんだよ。なに暴れてるんだ?」


 俺は彼女のそばに膝をつく。


「とりあえず落ち着け。な?」

「ちちちちち近づかないで!」

「ええ? それは傷つくぞ……。そんなに俺の身体はキモいか?」

「そうじゃなくて――!」

「自分で言うのもなんだが、けっこういい身体だと思うんだけど」

「だからやばいの!」


 ――俺が筋肉質だとなにがやばいんだ……?


「わかった、わかったからあ!」


 風璃はほとんど悲鳴みたいな声で言った。


「わたしの負けだからパジャマ着てえ!」


 顔を隠しているから表情はわからないが、耳が郵便ポストみたいに真っ赤になっている。手の隙間から「無理ぃ、無理ぃ……!」とうわごとのような声が漏れていた。


「な、なんかすまん……」


 俺はクローゼットからパジャマをとりだし、手早く身につけた。


 風璃は手をどけて俺を見た。目は涙に濡れ、ときおり鼻をすする。


「大丈夫か……?」

「うん……」


 彼女はこくりと頷いた。


「逆にありがとう」


 そう言って恥ずかしそうにうつむいた。


 ――なにが逆だと言うのだろう。


 ともかく嫌だったというわけではないらしい。


 乙女心はよくわからない。





 翌日、例の条文にもう一箇条が書き足された。


『最低限、肌着は着ること』


 親しき仲にも礼儀あり、である。

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