リリューシュカのプディング 

「アドルフ司令官、大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃ……」

 ジークフリートの視界には、ぼやけた淡い紫が広がっていた。昨日の浜辺での、夢のような一件から酔いが覚めないままだった。だが、ブレンの高い一声で、羽が舞い降りるように、意識が現実に呼び戻された。

 ちかっと一瞬、火花が目の前で爆ぜたかと思うと、心配そうにこちらを見上げているブレンの大きな瞳と目が合った。

 大丈夫ですか?

 もう一度ブレンがか細い声で呼びかけてくる。この子が歌えば、良いボーイソプラノの響きが聞けるかもしれないな。なんとなくそう思い、ああ、自分は十六夜と出会ってから、歌のことしか頭にないのだな、という事実を噛み締める。

 前髪を緩く片手でかきあげ、作り笑いを浮かべる。

「ああ、大事ない」

「よかった」

 ブレンは安心したように笑った。花のような微笑みであった。柔らかな頬が、薔薇色に染まって大変血色がよく見える。浮いたそばかすさえも、金色に浮き上がって光っているように見えた。そのそばかすに触れたい、という欲求が、何故か胸の内側から暖かく湧いてきたが、やがて水面に凪が訪れるように、ゆっくりと引いていった。それは、幼な子に対する親のような気持ちであった。

「ーーアルベリヒは」

 ジークフリートは己を取り戻すように、ブレンに優しく問いかけた。

「ああ、ベルツさんなら、さっき酔っ払って大通りをふらふらしていたところを回収してきましたよ」

「そうか。労をかけたな」

「いえ」

 ブレンが軽く肩を上げた。その仕草は愛らしく、彼がまだ幼い少年であるということを思い起こさせる。こんな少年にさえも、自分たち大人は、武器を手にして戦うように命じていたというのか。切ない帳が、そっと胸に舞い降りる。

 ジークフリートは僅かに唇を噛み締めて、そっと片手を伸ばすと、ブレンの髪を、手のひらの表面だけで撫でた。触れているのかいないのか、わからないほどの微かな感触。ブレンは口を丸く開け、あどけない子供の顔で呆然としていた。

 やがてジークフリートは、再び羽が剥がれるように、そっとブレンの頭から手のひらを離す。しばらく彼らの間に金色の時間が流れた。

 ジークフリートは、その時間の中で、自分が微笑んでいることに気づいて、僅かに驚いた。

(思えば、ブレンは俺たちと別れた後、どうするというのだろうか)

 ブレンの家庭のことについては、上官として少し知っている。確か両親は二人とも戦死しており、祖父と二人暮らしであったが、その祖父も、ブレンが海で戦っている時に一人で老衰してしまったと聞いた。その知らせを伝書鳩から受けた海の少年兵は、どう思っただろう。ジークフリートとアルベリヒの首より、幾分も細いブレンの艶やかな首筋を見て、

 ジークフリートは眉を寄せた。

(ブレンを俺の家で使用人として雇うか……?)

 ふとそういった思いが浮かんだ。

 使用人。

 柔らかなブロンドの巻いた髪質の少年が、家で箒を持ちながらリリューシュカと話している光景が、フィルムが滲むように目の前に浮かぶ。

(そんな未来も、あるかもしれん。戦場ではそんなことは、考えもつかなかったが……)

 ジークフリートは近距離で近寄らなければわからないほどに、薄く口角を上げた。

 上官の蒼い瞳が揺れたことに、ブレンは気づかず、道を見つめ続けているだけであった。

 真っ直ぐに街から見える沖を見つめる少年の横顔を、まともに陽光が照らしていた。この分だと、さらにブレンのそばかすは増えてしまいそうだ。

「あーあ。家に帰ったら、早くプディングが作りたいなぁ」

「プディング?」ジークフリートは少し腰を屈めてブレンを覗く。

 ブレンはそれに気づくと、はっと顔を上げて、真顔でジークフリートを見つめたが、やがて照れたように微笑んだ。本当に独り言だったらしい。

「いや、プディングを作るのが好きなんですよ。ほら、僕んち貧乏だから、そんなに凝った素材の料理は作れないし。プディングなら、一般家庭で誰でも作れるじゃないですか」

 ジークフリートは脳内で、自分が食したことのあるプディングを思い浮かべた。プディングは、肉に干し葡萄を加えたり、砂糖を入れて甘くしたりしたものもある。クリスマス・プディングは英国の小説にもよく登場するが、これも世紀の初頭には肉と干し葡萄を入れたご馳走だったという。時代が進むにつれ、肉を使わないメニューが増えた。布袋にはどリッピング(牛脂)を塗り、ビーフブイヨンとオートミールを入れたプディングや、スエット(これも牛の成分だが、固形)と卵と牛乳という、今のプリンに細切れの肉の脂が入っているような想像が難しいレシピもあった。小麦粉と牛乳とバター、砂糖、牛乳で作る、ホットケーキに似たヨークシャープディングも有名だし、ライスプディングは定番だ。プディングは安い食材でできて、ボリュームと栄養を兼ね備えた、庶民の強い味方であった。大きな家でも、子供の昼食や使用人の食事にはお決まりのメニューだ。

(プディングか)

 ジークフリートも、プディングを最後に食べたのはいつだったろうかと考えるほど、遠い記憶である。確かリリューシュカが家で作ってくれた。

 あれはいつであっただろう。味覚や聴覚、触覚が、当時に戻っていく。舌先が溶けて沈んでいく感覚がする。昔を思い出すときは、いつもそうだ。心を遠くに飛ばして、己を俯瞰して見上げる。そうすれば現在の狂おしい辛さも、優しい日常へと帰っていける。

 プディング。プディング。リリューシュカのプディング。

 確か、肉の塩味と干し葡萄の甘味が程よく混ざっていた気がする。リリューシュカは舌が敏感なのだ。だから、料理の腕はとても良かった。

(なぜ今まで忘れていたのだろう)

 尊い妹が作ってくれたプディングの甘味が、舌全体に蘇るようだった。

(ああ、またあの味が食べたい。そうすれば、すべてを思い出すはずだ)

 ジークフリートは舌先を軽く丸めると、俯いた。目の前には、現実があった。また、音が戻ってくる。

「……アルベリヒ」

「ふぁっ? もう朝か」

「昼だ、馬鹿」

 ジークフリートは通りで横たわっているアルベリヒの前で、腕を組んで仁王立ちしていた。髪と同じ金色の睫毛が冷たく伏せられ、瞳に影を作る。薄いくちびるは、軽くくの字に曲げられている。長い脚を折り畳み、アルベリヒの前でしゃがむと、攻めるように彼に顔を近づけた。灰色の影が、薄氷のように顔の表面を覆う。

「立て」

「はっ? うわっ、ってぇな! 急に二の腕引っ張んなや」

「こんな往来で、人の目につく方が恥ずかしいだろうが」

「クソうるせえ司令官様だぜ」

「部下の恥を心配してやっているんだろうが」

「はいはい」

 アルベリヒは片手で髪をがしがしと掻く。眉を寄せ、ふあぁとあくびをひとつすると、腰を跳ね上げて、勢いをつけて飛び起きた。

 ダークブルーのズボンを履いた尻についた砂埃を、手のひらで鬱陶しそうに叩と、鼻の頭を人差し指で一度引っ掻いて前を向く。気怠そうな面は、いつも見慣れた友の顔だった。

「整ったか」ジークフリートは真顔で問う。

「ああ」アルベリヒは応えた。

 ブレンはそばで二人を交互に見ていたが、やがてひとつ唾を飲み込むと、にこりと笑んだ。彼の睫毛の先が白く透き通っているのを見て、ジークフリートは穏やかな気持ちになった。

「行きましょう。ね、ヒルデ」

 ブレンが踵を少し上げて、つま先に重心を置いてくるりと回る。小柄な彼が背負ったブリュンヒルデの駕籠は、重量が感じられて、ずっしりとした密度があった。薄い膜で覆われた箇所は、ステンドグラスのように薄緑に光り、そこから覗く二つの瞳は、三人を照らす灯台のあかりに見える。

 膜の向こうでブリュンヒルデの髪が揺れる。ブロンドに枯葉色の光沢を見せる彼女の髪。昨夜見た、漆黒の十六夜の髪と、色も髪質も違うが、ジークフリートはその髪艶が好きだということを改めて思い出した。

「さあ」

「……ああ」

 薄く頷き、ブーツを前に出して歩み始める。

 コツ、という音が響き、彼の足は歩み出す。

 ブーツの先が、鈍い飴色に光る。

 ブレンとアルベリヒはジークフリートの後ろをついていった。

「なあなあ、司令官様よ。もう一度市場に戻るか?」

 アルベリヒがズボンのポケットに両手を突っ込み、屈んで下から見上げてくる。

 ジークフリートは瞳だけを動かし、アルベリヒを見た。

「……いや、寄っていきたいのは俺も山々だが、というか」

 ごほん、とジークフリートは拳を丸めて口元につけ、咳をする。気のせいか、少し頬が朱に染まっているようにアルベリヒには見えた。

「……ジャポニズムとしては、もっと街を散策したい」

 アルベリヒはポカンと口と目を丸く開けていたが、やがて乾いた笑い声を上げた。

「ったく。オタクには負けるぜ」

 指先を鳴らし、ジークフリートの前を歩くと、早く来いというふうに背を向けながら手招く。彼の巻き毛が赤く光っていた。

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