scene6.2

「女優として復帰したい」

 そう聞かされたのは、撮影を終えた翌日。勇太が家で編集作業をしていたときのことだ。コンテストの締め切りに間に合わせるため、早朝から編集作業を進めていたところに彼女がやってきて、そう伝えられた。

 そのときは目前に迫った締め切りと、必死で編集作業をしていたこともあってか、

「……わかった」

 とだけ答えたことを覚えている。

 なんとも言えない気まずい雰囲気があったし、なにより、こんなときにどんなことを話せばいいのか分からなかったのだ。ただ、彼女の見送りに行くことだけは約束していた。


 彼女が東京へと発つ日の朝、勇太は最寄り駅である尾田駅を訪れていた。

 鼠色をしたホームに、申し訳程度に備え付けられた屋根。レールが一本だけ轢かれた線路に、そこを走る電車はワンマンカー。そして、一時間に一本の時刻ダイヤ。

 初夏の装いを見せ始めたとは言え、早朝の空気は肌寒く薄着で出てきてしまったことを後悔した。

 チラリと横を見てみれば、二の腕を摩りつつ、寒そうに身体をすくめる彼女がいる。

 勇太はホームにある自販機まで移動し、缶コーヒーを2本買うとそれを彼女に手渡してやる。二人してコーヒーを飲むが会話は出てこない。

 それからしばらく黙っていたのだが、勇太がコーヒーを三分の一ほど飲んだところで彼女は小さく溜息をついた。

「ねぇ。こういうときってさ、普通ホットのコーヒーじゃない?」

 そんなことを言って、彼女は小さく笑った。

「いや、気分だよ。気分。それに、仕方ねぇだろ。この時期に暖かい飲み物なんてねぇよ」

「確かに。気分的には暖かいかも」

「だろ?」

 と、差しさわりの無い会話をしたおかげだろうか、お互いの間にある空気もまた、少しだけ温かみのあるものに変化した。

 勇太は「かおる」と彼女の名前を呼んだ。

「夢、叶えろよ」

「うん」

「もっといい女優になって、ドラマや映画にどんどん出演する」

「もちろん」

「それで、名女優って呼ばれるようになって。それから……」

 勇太は口を閉じ、横目で彼女を見る。彼女は「うん」と頷き、微笑んだ。

「女優として生きていく。ずっと、ずっと女優として生きていく」

「ああ」

 そのとき、電車の到着を知らせるベルが鳴り、アナウンスがあった。もうじき、このホームに電車が入ってくるだろう。

 彼女は足元に置いていたトランクケースを持ち上げ、勇太の方へと身体を向けた。

「ねぇ、勇太」

 名前を呼ばれ、勇太も身体を向ける。合ってしまった彼女の眼からは、慈しみにも似た感情を感じた。

「勇太も夢、叶えてね」

「叶えるもなにも、夢がねぇんだよ。俺には」

 自嘲気味に笑ってみると、かおるは首を横に振る。

「そんなことないよ。勇太にもきっと、やりたいことはある。それが見つかったら、絶対叶えて欲しい。それに、なんとなくだけどね。勇太のやりたいことって、私が生きる世界と近いと思うの」

「そりゃ、どういう意味だ?」

 言っている意味が分からず、勇太は首を傾げてしまう。

「えっとね……勇太が打ち込めることが見つかって、その道で生きていこうと誓えたなら、きっといつか会うことになると思う。そう、例えば。勇太は写真が好きだから……」

 彼女はそこで言葉を区切る。続きの言葉を発することなく、ジッと見つめてくる。

 だが、彼女がそうした理由は分かる。その先にある言葉。あるいは未来。それはきっと、己で紡ぐべき言葉で、誰かに口にしてもらうものではないのだ。でも、いま直ぐに宣言することはできない。彼女のように「これだ」と胸を張って言えるものは、いままだはない。

「……わかった。誓えるものが見つかったら、教える。約束だ」

「えぇ。約束。夢の続きで会いましょう」

 彼女はまるで、スクリーンの中の女優のように上品に微笑んだ。一瞬でそんな顔を作ってしまうあたり、やはりプロの女優なのだ。

 それからしばらくして、ホームに電車が入ってきた。プシュッと音がして、電車の扉が開く。彼女は電車の中に入り、振り返る。

「じゃあね」

「ああ。元気で」

「勇太も元気で」

 電車のベルが鳴り始め、出発を知らせるアナウンスが始まる。そうして、ドアが閉まろうとしたそのとき、彼女は微笑んだ。

「ありがとう。私が知る限り、最高のカメラマン」

「こちらこそ。俺の知る限り、最高の名女優」

 扉は締まり、彼女を乗せた電車はホームから離れてゆく。

 勇太は恋愛映画のように電車を追いかけることはせず、ただただその場に立ち、遠ざかってゆく電車を眺めていた。

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