scene5.2

 ケンちゃんに引き連れられ、勇太はいままで歩いてきた道を引き返す。

 降り出した雨が服を濡らし、身体は芯から冷えてくる。

「……くっそ。カメラ、置いてくればよかった」

 勇太は首からぶら下げたデジタル一眼レフを、上着の懐に隠すようにして、ストラップをかけ直している。気休めにしかならないだろうが、なにもしないよりマシだ。

 ふと視線をあげれば、しっぽを振りながら歩くケンちゃんがいる。

 だが、痛みと疲労、そして冷えた体ではそのスピードに合わせることができない。

「痛ってぇな……」

 特に痛むのは踵だ。靴擦れした踵はじゅくじゅくとした痛みを伴う。それが歩みを遅らせる。

 ケンちゃんは立ち止り、心配そうな顔を勇太に向ける。

「俺のことはいいから。どんどん行ってくれ」

 勇太がぎこちなく笑って言ってみれば、ケンちゃんはとっとこ駆け出した。だけど走るペースはちゃっかり落としている。……やはりケンちゃんは忠犬らしい。

 ケンちゃんのおかげで少しだけ気分が楽になる。だけどそれも一瞬だ。

 頭に浮かぶのは、先ほどかおるが見せた泣き出しそうな顔。そして、そんな姿にした庵野一誠に対する怒りだ。

「あんのクソ監督め」

 口にすれば再び怒りが沸いてくる。怒りを込めて一歩足を踏み出した。運悪く水たまりを踏み抜いてしまい、靴の中がぐしょ濡れになった。

 なにが、価値がないだ。

 なにが、存在意義がないだ。

 なにが才能が、もったいないだ。

 そんなこと、かおるの演技を身近で見て、彼女の現状を知っているなら誰だって思ってしまう感情だ。そして彼女すらも、人からそう思われていることなど、分かっているはずだ。

 才能もあって、やりたいことがあるかおるが羨ましい。

 誰かに非難されて、批判されてあそこまでいっぱいいっぱいになって、我を忘れて、耐え切れなくなって逃げ出すという行動をしてしまうのが羨ましい。

 きっと、自分にはそれができないだろう。

 例えば撮った写真を誰かにめちゃくちゃに非難されても、あそこまで取り乱すことができない。そういう行動をするほどの情熱を写真に対して込められない。たぶん半笑いになって「まあ趣味だから」と逃げ道を作って、真正面から向き合うことができない。だからかおるが心底羨ましい。

「かおるっ……」

 かおるに言ってやりたい。監督が言ったように、いまのかおるには女優としての価値はないのかもしれない。演じることができない役者に存在意義などないのかもしれない。でも必死にあがいて、女優として復活しようとするその姿に魅せられた人間もいるのだ。たとえ女優と復活することができなかったとしても、その生き様を心底かっこいいと思ってしまう人間もいるのだ。命を燃やす勢いでなにかに打ち込める人間の傍で、その夢の続きを見てみたいと思う人間だっているんだ。

「かおる……俺は――」

「わんわん!」

 そのとき、ケンちゃんが唐突に吠えた。

 はっと我に返った勇太は、ケンちゃんが吠えるのその先に視線を移した。

 するとそこには、一足の靴が落ちている。

「ちょっと……待てよ……」

 勇太は靴の元まで駆け寄りしゃがみ込む。手に取ってみて、息が止まる。

 それは、今日かおるが履いていた靴だったはずだ。モノトーンカラーのサンダルタイプの靴。撮影に合わせかおるに履いてもらった靴だった。

 傍らにやってきたケンちゃんが悲しそうに鳴いた。

「まさか……かおる」

 勇太は視線の先をガードレールの向こうにやる。

 真っ暗で見えなが、その先には急勾配な斜面があるはずだ。ここに靴が落ちていたという事実。それは……

 先ほどから降り続く雨が、さらに強さを増した。雨音が次第に大きくなってゆく。

「ケンちゃん……かおるはどこだよ」

 物悲しそうにケンちゃんは鳴いた。

「ケンちゃん、かおるの匂い辿れるんだろ。頼む」

 ケンちゃんは鼻を地面に近づけるが、そこからどう動いていいのか迷う様子を見せた。

「あ……」

 勇太は真っ暗な空を見上げた。

 この雨がかおるの匂いをかき消してしまっているのだ。もしくは、ケンちゃんがここから動かないということは、かおるの匂いがここで途切れてしまっているのか。どちらにせよ、いまかおるは……

 勇太はガードレールの先をぼうっと見た。

「かおる……」

 彼女に言いたいことがあった。

「かおる……!」

 それを言ってどんな反応をするのか見てみたかった。

「かおるっ!」

 女優として復活して東京に帰ってしまう前に、どうしても伝えたいことがあった。

「かおる! 返事しろ! 俺はっ……お前に……。かおるに!」

 勇太はガードレールの先に広がる闇夜に叫ぶ。

「言ってやりてぇことがあんだよ! 迷子になってんじゃねーぞ! かおるーーーーーー!!」

 と、そのとき。――ブブッとスマホが振動した。

 勇太は力なくスマホを顔の前まで持ってくる。すると画面に、

「……あ」

 一つの通知が届いていた。

 開いてみればアプリが起動し、地図が表示される。その地図は『中世夢ヶ原』を中心として表示されており、地図上に一つ丸印のアイコンが点滅していた。

 そのアプリは犬用GPS発信機と連動するアプリだ。

 いつだか彼女に渡し、祭りのときにつけっぱなしにしていると判明した、あの首輪に付いているGPS発信機。その発信機と連動するアプリだ。

「……見つけた」

 勇太は靴を拾って駆け出した。

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