scene3.4
しばらく空と一緒の道を辿り、その途中で別れた。
勇太は自宅へと続くY字路までやってくると、スロットルを緩めた。一瞬だけ迷ったが、思うところあってハンドルを左に切る。すると、かおるの家が見てきた。
家の中庭に原付を乗り入れれば、かおるは芝居の練習をしていた。どうにもその挙動から、あの舞台のシーンらしい。
勇太が原付から降りると、かおるは不思議そうな顔で近寄ってくる。
「あれ? どうしたの? うちに来るって言ってたっけ?」
「いや、大したことじゃない。実はさっき……」
庵野監督ってヤツに出会ったんだ。そう言いかけて口を閉じた。
これを言って、どうなる?
かおるが演技イップスになった原因をあの監督は知っている。だから監督の話題を出せば、かおるが演技イップスになった理由を語るだろうか。馬鹿げている。というより、なぜこんなことをしてまで、かおるの過去を聞き出したいと思っているのだろうか。
「えっと……確認なんだけど。キスシーン。大丈夫なんだよな」
「へ?」
「いや、だから。白鷹とホントにキスするだろ。かおるは大丈夫って言ってたけど、もう一度確認しときたくて」
「……」
かおるはため息にも聞こえるほど小さな息を漏らし、小さく笑った。
「舐めないで。私、女優なの。なんとも思ってないよ。てか、そんなことのために来たんだ」
「白鷹が気にしてたんだよ。かおる的には大丈夫なのかってな」
「ふぅん」
かおるの返事をなぜか冷たく感じる。
言い訳じみた理由だったと思う。空の名前を出さなければ、そのことについてかおるの真意を聞けないなんて。
「ねぇ、キスしてみる?」
ポツリとその声が耳に届いた。
勇太が顔を上げると、かおるが小さく笑っていた。
「キスの練習。キスシーンは大丈夫だけど、上手くできるか分からないから」
「上手くって……キスシーンの経験くらいあるだろ」
「ないよ。だって私。誰ともキスしたことないし」
かおるは唇に手を当てがった。
思わず、彼女の唇に眼が行ってしまう。形のいい桜色の唇。柔らかそうで、艶めかしい。
心臓の鼓動が、時計の秒針より早くなった気がした。暖かく、ふわふわしたものが胸の中から沸き起こってくる。
勇太は脳内に沸いた考えを振り切るように、首を横に振った。
「……さすがに。それはマズいだろ」
「でも、撮影ならいいだ」
かおるは唇を尖らせた。
「あーあ。私のファーストキス。奪える最後のチャンスだったのに」
そう言って彼女はクスクスと笑う。
最近、かおるはいつもこんな調子だ。なにかにつけて試すようなことをしてくる、暗に誘っているのではないかと思わせるもの言いをする。いまのがいい例だ。正直、そんなことをされるのは心臓に悪い。
――私、勇太のこと好きだよ。
いつぞやに言われた言葉を思い出してしまう。思い出してしまって、色々と考えてしまう。
「それは残念だった」
適当なことを言ったように思う。本心かと言えば、やはり違う。
と、「わんわん」と鳴き声がして、軒下からケンちゃんが飛び出してきた。
「く~ん」
ケンちゃんは勇太の脚をカリカリとひっかき、かまって欲しそうな顔をしている。
「おお、ケンちゃん。久しぶり」
「あっ、ケンちゃん。こんなとこに居たんだ」
勇太がケンちゃんを撫でてやれば、かおるがそんなことを言いながらしゃがみ込む。
「なんだ? ケンちゃん脱走でもしたのか?」
「しょっちゅうね。一週間に2日くらいしか返ってこないの」
「猫かよ。飼い主ならちゃんと……あ、そうだ」
勇太はふと思い出し、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「忘れるとこだった。これ、ケンちゃんにやるよ」
「……なにそれ。首輪? てか、なに四角い黒い箱みたいなの」
勇太から受け取ったそれを、かおるはしげしげと眺める。
彼女の手の平にあるのは。赤色をベースとした首輪。だが、消しゴムサイズの四角い箱が付いている。彼女はそれを指さし首を傾げていた。
「犬用のGPSだよ。俺のスマホに位置情報が送られる仕組みになってる。まあ、ここ田舎だし大体の位置しかわかんねぇけど」
「ふぅん。こんなのあるんだ。てか、なんで勇太こんなの持ってるの? そういえば最初この家来たときも、ドックフードとか持ってたし」
「ちょっと前まで犬を飼ってからな。もう死んじまったけど、よく脱走するやつだった。この首輪させ付けとけば、ケンちゃんが脱走しても探すのに困らない」
「でもケンちゃん自分でこの家まで帰ってこれるじゃん」
「あ」
そう言われればそうだ。
たしかにケンちゃんは犬にしては賢い。というより、飼い主であるかおるよりも賢い可能性だってある。
するとかおるは「あ、そうだ」と言って、なぜだか首輪を自らの首に巻き付けた。
「……なにしてんだお前」
「これ。私がつけといたほうがよくない? 私、方向音痴だし。迷子になっても勇太見つけやすいし」
「迷子になること前提かよ。てか……おい。やめろバカ。それ犬用のやつだから」
「ええ? 変かな? この首輪デザインいいし。チョーカーっぽくない?」
「いや、デザインにはこだわって買ったけど。なんか……その」
首輪をつけたかおるを眼にして、勇太は変な気持ちになる。
なんだかとってもいけないことをしているような背徳感。同時に、胸の底をくすぐるようなドキドキとした感情。
「いいから返せ。別な首輪もってきてやる」
勇太はかおるの首輪をぐいと掴む。自然とかおるの身体が引き寄せてしまう。
「ちょっ、やだ。引っ張らないでよ。これじゃ私、犬みたいなんだけど」
「だから犬用の首輪だって言ってんだろ。外せ」
「助けてケンちゃん! あなたのご主人、乱暴されてる!」
「わんわん!」
その一言をきっかけに、ケンちゃんは歯をガチンガチンと打ち鳴らし勇太に迫る。
「ああ? ウソだろ! やめろアホ犬!」
「あははっ。やっちゃえケンちゃん!」
「わんわん!」
勇太はケンちゃんに追っかけ回され、その様子を見たかおるはケタケタと笑う。
心拍数が上がり、額には冷や汗が浮かぶ。身体はそんな状態だというのに、最近ずっと心の中でわだかまっている感情は消えてくれはしない。
テストが終われば撮影が始まる。そのことが少しだけ嫌だと思っている自分がいた。
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