scene2.9

 その日の帰り道。

 勇太は自転車を押しながら坂道を上っていた。目の前ではかおるが自転車を押しつつセリフを復唱している。そのセリフは、あの舞台の上でのセリフだ。

 勇太は「なあ」とかおるの背中に声をかけた。

「かおる。さっきも聞いたと思うけど、撮影再開は二週間後だ。それまでは編集に時間をあてるから……その」

 ちゃんと練習しといてくれ。と勇太は言いかけて口を閉じた。

 そんなことを言わなくても、かおるは毎日のように練習をしている。それに、かおるが演技ができないのは、ひとえに演技イップスのせいだ。どうしようもないものを、どうにかしてくれとは言いずらい。

 するとかおるは、そんな勇太の心中を察したかのように「わかってる」と呟いた。

「私のせいで撮影が遅れてるのはわかってる。でも大丈夫。きっと、演じ切ってみせるから」

「それならいい。ただな……」

 勇太は先ほど空から伝えられた懸念を口にする。

「正直、時間的な余裕がなくなってきてる。だから、あんまり言いたくないけど、どこかで妥協してもらう場面が出てくるかもしれない」

「妥協?」

 かおるの声が少しばかり尖った。だけど、ここで口を閉ざしてしまえば話が進まない。

「例えば、この前撮り切れなかった舞台でのシーン。いま、かおるが練習してたセリフ。かおるそのセリフを言い切れないなら、まるまるカットしてもいいと思ってる」

「……」

「このシーンは他のシーンに比べてセリフも長いし、だからか分からないけど、かおるの演技イップスが発症する率も高い気がするんだ」

 勇太は提案のつもりでそう言った。ところがかおるは、

「それだけは、嫌」

 勇太は、そのかおるの態度が少し頭にくる。

 わがままを言っているのと同じだ。かおるが演技イップスで苦しんでいるのはわかる。でも、それでも撮影を前に進めないと完成すらしない。

「あのな、かおる。お前――」

「このシーンだけは演じ切りたい」

 力強いかおるの声に、勇太の言葉がかき消された。

「……そりゃ、なんでだ? どうしてこだわる?」

「いまの私と同じだから」

 かおるは振り返ることなく、真っすぐ前を見て言った。

「この物語の内海と、いまの私は同じなの」

 この物語のヒロインである内海と同じ。それがなにを意味しているのか、勇太はすぐ理解する。きっと、死にたくないのだ。内海がそうであるように、かおるも女優として生きることができず、そのまま死ぬのが怖いのだ。だから彼女はそう言ったのだろう。

「……わかった。でも、限界はあるぞ」

 かおるは勇太に返事をせずに、再びセリフを復唱し始めた。また、舞台の上で叫ぶシーンのセリフだ。

 これ以上、なにも言ってくれるな。そう言われているような気がした。

 ふと、勇太は空を見上げる。

 山の向こうから、どんよりとした雲が流れてきている。もうじき、あの雲は雨を運んでくるだろう。頬を撫でる風が冷たくなったと気が付いたとき、ポツリポツリと雨が降り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る