scene1.10

「な、なにこれ?」

「見りゃ分かるだろ。ドックフードだ」

「ひっ、ひどい!」

 食卓の上にドンと置かれたのは「ドックフードだワン!」と印字されている犬用餌の袋。

 かおるは信じられないという顔で、カタカタ体を震わせていた。

「もしかして私にこれを食べさせるためにわざわざ家に帰って――」

「違う。こりゃケンちゃん用だ。ほれケンちゃん」

 勇太が犬用の餌皿にドックフードを入れてやれば、ケンちゃんはバリバリと音を立て貪り始めた。

「で、犬山のはこっちだ。今日、俺が作った晩飯の余りものだけどな」

 勇太はお盆に乗せ持ってきた料理を、犬山家の食卓に並べていく。

「え? 食べても大丈夫?」

「なんだよその言い方。変なもんなんて入ってねーよ。まあ、……なんだ。口に合わなかったら……」

「冗談だって。ありがと。いただきます」

 かおるはそう言って、味噌汁から箸をつけてゆく。それからご飯に移り、おかずを食べる。意外にもかおるは三角食べをして、なかなか上品な箸使いで食事を進めていた。

「ええへ。嬉しいな。勇太が料理作ってくれた」

 かおるは心底嬉しそうな顔で微笑んだ。

 だが、そんな彼女の原動に勇太は思わずドキッとしてしまう。

「犬山。お前な……」

「なに? 勇太」

 下の名前で呼ばれ、なんだかこそばゆい感じがする。ただ、彼女は意図的にやったのか、それとも無意識でやったのか、それが気になって仕方がなかった。

「なあ、犬山。そういうの無意識でやってるんなら――」

「名前」

「は?」

「私のこと、名前で呼んで」

「わざとかよ。つか、嫌だ。恥ずかしい」

「あははっ。別にいいじゃん。それに、知ってる?」

 かおるは試すような顔で、小悪魔的な微笑を作った。

「映画とかだと、男女が一緒に食事をするのはセックスの比喩表現なんだって」

「ちょっと待て。犬山、ほんと、お前――」

「いいじゃん。仲良くなったってことで。さあ」

 かおるはじっと見つめる。「相手はどんな反応をするのだろうか?」そんなふうに楽しんでいるようにしか勇太には思えなかった。

「……かおる」

「……うん。これからよろしくね。勇太」

 かおるは満足そうに笑うと食事を再開する。その姿を見て勇太は小さく溜息を零した。

 ……ズルい女だ。いつもは間抜けな女の子であるはずなのに、こうやって大人の女性のような顔をしてみせる。なんだか手の平で転がされている感じがして、どうにも釈然としない。

 ただ、それ以降かおるは黙って食事を続けていた。

 勇太は手持ち無沙汰気味になり、なんとなしに食卓の上にあったリモコンに手を伸ばす。テレビをつけてみればニュース番組が映り、画面の端っこには20:55分と標示されていた。かおるとのひと騒動や、晩御飯の余りものを持って来たりして、そんな時間になってしまっていたらしい。

 勇太がそんなことを考えていると、あらかた食事を食べ終えたかおるが「あ、そうだ」と言って口を開いた。

「ねえ、私に聞きたいこと、なにかない?」

「なんだ? 急に」

「ごはん作ってくれたお礼。なんでも答えてあげる」

「あっそ。じゃあバストサイズ教えろ」

「エッチなのはダメ。……私、女の子なんだよ?」

 と、恥じらように口元に手をあてがい、わざとらしいぶりっ子声を発するかおる。

「……うっぜ」

 邪険にあしらってみたが、未だかおるはジッと見つめてくる。

 質問してやらないと、このやり取りは終わらないらしい。勇太そう考え、少し前に疑問に思ったことを投げかける。

「いまさらなんだけどさ、親とかどうしてんだ? 男の俺が勝手に上がり込んでるけど、本当ならダメな状況だよな」

 するとかおるは、湯飲みのお茶を飲んでから口を開いた。

「お父さんは夜から仕事。だからいまはいないの。それから私の家、母親いないから」

「ふぅん。そっか。俺の家と同じだな」

「そうなの?」

「ああ」

 勇太は頬杖をつき、視線をテレビに映した。

「今日言っただろ? 俺、小学生の頃にこの町に引っ越して来たって。ただ、母さんはここでの暮らしが嫌になって5年前くらいに出て行った。あと、父さんは単身赴任で家にいない」

「へぇ。寂しくないの?」

「別に。ばあちゃんとじいちゃんと住んでるし、寂しがるような歳でもねぇだろ。かおるこそ寂しくねぇの?」

「もう慣れっこ。小さい頃から……家にあんまり親……いなかったし。……はぁ」

 そう言っているわりには、かおるは分かりやすいほどしゅんとしている。なんだか主人に構ってもらえない子犬のようで、勇太はその姿を可愛らしいと思ってしまった。

 と、そのとき。

『さて、今宵お届けする映画は、映画界で数多く賞を受賞しながらも、問題作として名高い名作、『君は悪い子』ぜひ、ご家族そろってご覧ください』

 そんなナレーションと共に、テレビの画面が切り替わった。

 勇太がテレビをよく見てみれば「火曜ロードShow」が始まっている。

 火曜日の午後9時から始まる映画番組。だが他の映画番組に比べると、ゴールデンタイムに放送する内容ではないだろう、という作風の映画をぶっこんでくるのが特徴だ。

 事実、いま始まった『君は悪い子』だって、娘に依存する母親とその依存から脱却するべく奮闘する女子中学生を描いた、ドロドロの社会派家族物語だ。いつだかネット配信でこの映画を見たので内容も知っている。

 そして放映が始まった映画をしばらく観ていると、

「この映画にも、出てたな」

 またも、朝霧薫を見かける。

 そのため、先ほどの祖母との会話を思い出してしまい嫌な気持ちになる。ただ……

「――いい女優だよな。朝霧薫」

 と、勇太の口からポツリと言葉が漏れた。

 彼女の存在は、なにもない自分にとっては眩しすぎる。だが、その役者っぷりを見ていると素直に賞賛してしまうものがある。

「なあ。かおるもそう思わねぇか? ……かおる?」

 勇太が顔を向けると、かおるは食卓の上を見つめていた。

「おい。かおる」

「えっ……あ、ごめん。なに勇太?」

 ハッと我に返ったかおるは、取り繕うようにして微笑んだ。

「いや、いい役者だなって思ってよ。朝霧薫って」

「……そう、かな」

「いや、すげぇだろ。大人顔負けの女優だ。それにさ」

 勇太は頬杖をつき、スッと眼を細めてしまう。

「ああやって才能があるやつは、きっと俺みたいに将来について悩んだりしないんだろうな」

「……さあ。どうかな。勇太が思ってるほど、完璧じゃないかも」

「勇太が思ってるほど、って……」

 かおるの物言いが、勇太には少しだけ引っかかった。かおるの声色が「彼女にも悩みくらいあるだろう」と言いたげだったからだ。

「いや、ああいうやつは悩みなんてねぇよ。俺とは……いや、俺らとは違うんだ。きっと『自分は何がしたいのか』なんて悩んだことが――」

 そう言って勇太がかおるの顔を見た瞬間、はっと息を飲んだ。

「なんで、お前……」

 目の前には犬山かおるがいる。だがその顔は、テレビに映る朝霧薫と全く同じだった。

 否、正確に言うなばら、目の前にいる犬山かおるはテレビに映る朝霧薫よりも大人びていた。朝霧薫が高校生くらいになれば、きっとこんなふうに成長してみせるはずだ。

「……かおる。お前、もしかして……」

 かおるは観念するように小さく溜息をついて、嘲笑気味な笑みをこぼした。

「そう。私は……朝霧薫」

 そう断言された瞬間、勇太の肌が粟立った。

 目の前にいるのは、あの朝霧薫。好奇心が働き、いろいろと聞いてみたくもなる。

 だが、そんな感情を遥に上回る勢いで、別のどろどろとした感情が頭を支配する。

 ――なにが、やりたいことがわからないだ。

 下校の際、進路を聞かれたかおるが言った「どうすればいいか分からない」という言葉。そのこと安堵し、犬山かおると鏡川勇太は同じ人種だと思っていた。なのに自分とはまったく違う。そのことに裏切られた気持ちになる。

「……なんで、そんな奴がここにいる?」

「なんでって……言われても。それは……」

 かおるは言葉に詰まったが、首を横に振った。

「辞めたの。女優は。だから、ここにいる。今の私は、ただの犬山かおる」

「辞めたって……、そんなっ――」

 勇太は感情に任せた言葉をなんとか飲み込み、ぎゅっと拳を握り込んだ。

 なぜそんなふうに、辞めただなんてあっさりと言えてしまうのか。なにかに取り組んで、ちゃんと結果を出していたというのに。冷静になろうと思えば思うほど、言いようのない怒りがふつふつと腹の底から湧き出してくる。ただ……

「……いや、すまん。いまの言葉、忘れてくれ」

 言いようのない怒りをかおるにぶつけるのは間違いだ、そうと思えるだけの冷静さはまだあった。それに、彼女が女優を辞めた理由など聞くべきではない。そもそも、会って昨日今日の人間にそんなこと聞かれたくないだろう。

 ところがかおるは、そんな勇太の考えに反して、

「――いい機会だし、聞いてくれない?」

 と、机に視線を落としたまま呟いた。

「私は女優を辞めた。けど、まだ誰にも宣言してないから」

「いや、待て。別に俺は話して欲しくて言ったわけじゃ――」

「――演技イップス。私は、そう呼んでる」

 かおるは小さく唇を噛んだ。その歪んだ顔には、悩みや葛藤。怒りやもどかしさといった感情が見て取れた。あの朝霧薫からは全く想像できないような顔だった。

 勇太はあぐらを組んでいた足を組み替え、座り直した。

「……イップスってたしか、野球のピッチャーがなるやつか」

「そう、そのイップス。ボールを投げる瞬間、身体が強張ったり、コントロールが効かなくなる。それと同じで、私が演技をすると途中で声が出なくなったり、体が強張って思うように動かなくなるの。だから、演技イップス」

 そう言ってかおるは自らの腕を抱いた。

 だが、かおるが語った演技イップスというものを、勇太はいまいち理解できない。そんな考えが顔に出ていたのか、かおるは立ち上がり「見て」と言った。

「例えば。今、この映画で私が言ったセリフ『私は、ふつうの人生が生きたい。ふつうに結婚して、子供を産んで、家族も持ちたい』ってセリフ」

 かおるは深呼吸をして、右手で顔をなぞる。その瞬間、勇太の腕に鳥肌が立った。

 ありえないことに、顔が変わった。正確には、顔が変わったように錯覚しまった。彼女から犬山かおるの雰囲気が消え、全く別な人間の雰囲気を纏わせた。

「私は、ふつうの人生を生きたい。ふつうに結婚して――」

 かおる演じる役の叫びが、勇太の心を揺さぶる。

 もしかして犬山かおるとは元からこういう人間ではなかったのか、と思ってしまいそうになる。アホで方向音痴な女の子というのは全部が嘘で、今演じているこの役こそが、犬山かおるの本性なのではないかと思えてしまう。

「子供を産んで、かぞくっ――かぞっ――家族を――」

 ところがそこで、急にかおるは声を詰まらせた。

 体の動きが強張り、歯車が狂った機械仕掛けの人形のように同じ動作を繰り返す。

「かぞ――家族を――。……くっ……こんなふうに、なるの」

 かおるは身体から力を抜くようにして、ふっとその場に腰を下ろした。額にはじっとりと脂汗が浮かび、おまけに肩で息をしている。

 かおるは上がった息を整えてから、口を開いた。

「……ある映画の撮影中に演技イップスになったの。なんとか撮影は乗り切ったけど……でも、その後はだめ。カウンセリングとか精神科に掛ってみたけど治らなかった。だから……」

「……女優を諦めた」

 その言葉にかおるは、小さく頷いた。

「……そうか」

 そうして周囲には、耳が痛くなるような沈黙が降ってくる。行き場を失ったテレビの音だけが、嫌にうるさく聞こえた。

 だが、その静寂の中、勇太の胸の内ではもやもやとしたものが加速してゆく。

 悲しみではなく、怒りに似ていた。でも、なにに怒りを感じているのか分からない。そもそも、なぜこんな感情を抱いてしまうのか。

 きっと、こういうときは慰めの言葉をかけるべきなのだろう。だけど口をついて出た言葉は全く別だった。

「……なんていうか。上手く言えないけど……もったいないよ、かおる」

「――っつ」

 怒りの色を隠し切れないかおるの目が、勇太に向けられた。

「……仕方ないでしょ。治らないから、女優としてやっていけない」

「それは……」

 勇太は言葉に詰まる。

 それでも、その言葉を口にしなければ気が済まなかった。

「俺は、もったいないと思う。俺みたいな人間からすれば、すげぇもったいないんだよ」

 かおるから睨まれるが、勇太の口は止まらない。

「俺には、これといってやりたいことがない。だから、かおるみたいに小さい頃からなにかを続けてる人間が羨ましい。すごいと思う。だから、簡単に諦めるのは――」

「簡単に?」

 ゾクリと底冷えするような声がした。

 勇太が我に返ると、かおるは眼に涙をためていた。

「簡単じゃない……簡単になんか諦めてない。私はずっと悩んで……それで決めたの。お父さんの転勤が決まってチャンスだと思った! 東京を離れて女優のことを忘れようよと思った。それを簡単だなんて……」

 かおるは眼に浮かんだ涙をぬぐう。

「勇太には……わかんないよ。……絶対にわからない」

 そう言われれば、黙り込むしかない。

 たしかにかおる本人がそう言っているのであれば、クラスメイトという関係の自分は、なにか言う資格などないのだろう。演技に関してド素人の自分は、なにを言ってもかおるの心には響かないだろう。

 でも、いまの犬山かおるの言葉は嘘だ。

「ああ。そうだ。俺にはきっと、かおるの苦しみなんて分からない。俺はお前みたいに、人生を捧げて頑張ったことなんてない。でも、これだけは分かる。」

 勇太は立ち上がり、悲しそうに俯くかおるに向って口を開いた。

「かおる。お前のいまの言葉は嘘だ。それを分からせてやる」

 勇太は玄関に向い、真っ暗な田舎道に飛び出した。

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