02-3.かつて手放した大切なもの
* * *
午後四時から剣術の訓練がある為、伯爵邸に戻っていたセシルを門まで見送ってきたメイヴィスは中庭を散歩しながら本邸へと戻っていく。メイヴィスに気付かれていないつもりなっている護衛を兼ねているメイドたちに声をかけることもせず、メイヴィスはゆったりとした足取りで歩みを進めていく。
……なんてことだ。こんなことになるなんて!
心の中では嬉しさから跳ねまわっているようなものである。
それを表には出さないようにしながらも、メイヴィスは機嫌が良さそうに歩いている。生まれ育った公爵邸にあるお気に入りの中庭がいつもよりも素敵に見えるのは気のせいだろうか。
セシルと想いを通わせることができる日が来るとは思ってもいなかった。
かつてはイルミネイト王国の為と手放した大切なものが手の中に納まっている。それは二度と手放せないだろう。メイヴィスはこれほどに幸せを感じたことなどなかった。
……幸せとは、このことを言うのかな。
セシルのことを考えるだけで頰が熱くなる。
心臓の音は騒がしくなり、いつものように考えがまとまらなくなってしまう。それすらも心地よいと感じるのはメイヴィスが恋をしている証拠なのだろう。
……あの頃は諦めていたことなのに。まさか、叶うなんて!
十三歳の誕生日である今日、セシルから贈られてきたバラを模ったネックレスをドレスの上へと引っ張り上げる。長めのネックレスはドレスの上からでもその存在を主張しているようだった。胸元で輝く小さな銀色のバラほどに美しいものはない。そう思えてくるのだから不思議なものである。
贈られた大切なものを隠している必要もない。
それを堂々と付けていられる。
たったそれだけのことなのにもかかわらず、メイヴィスは人目がなければ泣いてしまいたいほどに嬉しかった。
……でも、幸せになってもいいの?
同時に不安にもなる。
メイヴィスは自らの手で命を絶った過去を覚えている。前世と呼ぶべきか、逆行したと考えるべきなのか、悩みことはあるものの、それがただの夢ではないことは確かであった。
……私には幸せになる資格なんてないのでは。
悲しい出来事を変えられる機会を得たことを喜んでいた。
大切な人を守れる可能性を見いだせていた。
それは全てエドワルドの犠牲によるものであるのならば、幸せを享受するべきなのはメイヴィスではないのではないか。幸せを感じる度にその考えが頭を過る。
行方すらも掴めないままの義弟を犠牲にしてまでも、幸せになろうとは思えない。それは罪悪感によるものだろうか。それとも家族愛によるものだろうか。どちらともとることができない感情がメイヴィスの心を揺さぶる。
「メイヴィー、そちらにおりましたの」
広い中庭を抜けると声が聞こえた。
玄関の前に立っているのは母だった。予定では今日は帰宅できないと事前に伝えられていたのだが、メイヴィスを呼んでいる優しい声は間違いなく母のものだった。それに気づいたメイヴィスは思わず駆けだしていた。
「お母様!」
ドレスの裾を掴んで掛けていく。
その様子を優しい眼を向ける母の優雅な姿にも憧れを抱くものの、その振る舞いを真似している余裕はない。一刻も早く、大好きな母の元へと行きたかった。
「本日はお帰りになられないのではなかったのですか!?」
「公爵にお願いをしてお母様だけでも帰らせていただきましたのよ」
「そうなのですか。おかえりなさいませ、お母様」
「ただいま戻りましたわ、メイヴィー。ふふ、私の可愛いメイヴィー、お父様がいなくても寂しくはないのかしら?」
「お父様はバックス公爵としての立場もイルミネイト王国の宰相としての立場もございます。メイヴィスの我が儘で傍にいてもらうわけにはいきません!」
「賢い子ですわね、メイヴィーちゃん」
母の正面に立ち、話をするメイヴィスの髪を撫ぜる母の表情は優しいものだった。メイヴィスは母に頭を撫ぜてもらうことに対して恥ずかしさを抱くものの、それを拒否することはない。こうして親子として過ごす日々には限りがあるということを知っているからなのかもしれない。
「ですが、その言葉はお父様には伝えてはなりませんよ。一人娘からそのような言葉を言われてしまってはお父様も仕事にはなりませんから」
「お父様は私の言葉で左右されるような人ではありませんよ」
「いいえ。お父様もお母様も一人娘にはとても弱いのですよ」
優しく髪を撫ぜていた手が離れていく。
それを少しだけ寂しく感じた。
屋敷の中へと戻っていく母の背を追うようにしてメイヴィスも中へと入っていく。すると、そこには使用人たちが揃っており、メイヴィスが入ってきたのを確認すると一斉にクッラカーを放った。以前、市場で子ども用の玩具として販売をされていたのを目にした時、メイヴィスが父に強請って買って貰ったものよりも大きい音が鳴り響く。何回にもわけてクラッカーが放たれ、目を丸くして驚いているメイヴィスの表情を満足そうに見るのは母と屋敷の中で待っていた父だった。
父が戻っていない。というのは、母の嘘だったのだろう。
メイヴィスを驚かせる為のものだったのかもしれない。
「誕生日おめでとう、メイヴィス」
「あ、ありがとうございます。お父様、お母様。皆まで集めていただいてメイヴィスはとても嬉しく思います」
驚いているメイヴィスに声を掛けた父はその言葉に満足したようだった。
出番を待っていたと言わんばかりに父の言葉を聞き終わった使用人たちは次から次へとメイヴィスへ祝いの言葉を告げていく。それから忙しなく仕事に戻っていく使用人たちの勢いに押され気味だったメイヴィスを見守っていた母は小さな笑い声をあげていた。
「ふふ、誕生日は嬉しいものでしょう? メイヴィー」
「はい。ありがとうございます」
「いいのよ、お母様も可愛い愛娘をお祝いしたかったの」
貴族社会ではメイヴィスたちのように仲のいい親子は珍しい。
一般的には女児は政略結婚させる為の道具として扱う貴族が多く、誕生日を祝うのも形式的なものや婚約などの目的があり祝宴を開くことが多い。それに対してメイヴィスは疑問も抱いたことはなかった。
前世では父も母も家族としての交流はあるものの、仕事を優先していた。
わざわざメイヴィスの為に忙しい仕事を抜けて来るようなことは一度もなかった。だからこそ、メイヴィスは驚いてしまったのだろう。
「私たちの可愛い娘、お母様たちのところに生まれて来てくれてありがとう」
「お前は私たちの自慢だ、メイヴィス」
母と父の言葉にメイヴィスはなにも言うことができなかった。
……どうして?
父にも母にも前世の記憶はない。
メイヴィスが生まれて来るよりも長い人生を過ごしている二人の価値観が急に変わるようなことはありえない。
……お父様もお母様も、嬉しそうなの?
前世とは異なるところは存在している。全てが同じというわけではない。
前世通りの展開が進むわけではなく、メイヴィスの行動により変わってきたところもある。メイヴィスが知った時には手遅れだったことも少なくはない。それらは全てがメイヴィスやエドワルドに関わるようなことではないということも、十三年間、生きてきた間に知ってしまったことだった。
だからこそ、メイヴィスは困惑しているのだろう。
心のどこかでは父と母は変わっていないと思っていたのだ。公爵と公爵夫人としてバックス公爵家の為ならば、娘の死すらも厭わない人でいられたはずであると思い込もうとしていた。
そうでなければ、前世の出来事だと割り切ることができなかったのだ。
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