02-4.かつて手放した大切なもの

 立ち尽くしているメイヴィスを不審に思ったのだろうか。

 母はメイヴィスの元まで軽い足取りで近づいてくる。その後ろを追うかのように父もメイヴィスに近づき、彼女の目の前で止まった。手を伸ばせば届く距離にいる両親に対してメイヴィスはなにも言うことができず、ただ、なぜか頬を涙が伝っていた。


 ……どうして?


 声を荒げて泣くような真似はしない。

 父や母の前で泣いたことなど一度もなかった。


 ……悲しいわけではないのに。


 涙を止めることができない。

 突然、泣き始めたメイヴィスに対して父も母も困惑の表情を浮かべていた。


「どうしたのかしら、メイヴィー。貴女はしっかりしている娘だからとお母様たちが仕事をしていたのが寂しかったの? ……それではないのね、それなら、どうしたの? メイヴィー、どうして、泣いてしまうのかしら」


 母の問いかけに首を横に振る。

 メイヴィスも母と父を困らせたいわけではなかった。両親が仕事により公爵邸を離れている間も長期の出張にでかけている時もなにも言わなかった。笑顔を浮かべて見送ることはメイヴィスの役目だった。なにも心配することはないと両親に安心をさせ、仕事に集中させることがメイヴィスの役割だった。

 それは前世も今世も変わらない。

 寂しかったのかと問われても、それは違うと返すことができるだろう。


 ……お父様もお母様も私のことを愛してくださっていた。


 知っているつもりだった。


 知っていたからこそ、前世は遺言書を残したのだ。メイヴィスが遺言書を残せば父と母は親としてではなく、公爵夫妻として振る舞うことができるはずだと信じていたからこその言葉を遺していた。それは間違いだと思わなかった。


 ……それならば、私はなんて酷い言葉を残したのだろう。


 誇りを貫いたのだと自慢に思ってほしかった。

 産まなければ良かったと思わないでほしかった。

 ただそれだけのことだった。


 ……顔を見ればわかることじゃない。お父様もお母様も、私を監獄から連れ出そうとしてくださった。それなのに、私は、その言葉を信じなかった。


 涙を流し続けるメイヴィスを見る母の眼は心配を物語っていた。

 父の眼は困惑しつつも心配だと伝わるようなものだった。

 両親がメイヴィスのことを大切に思っているか、などといった疑問を抱くことが間違いだったのだろう。通常ならばありえない転生を果たしたからこそ、そのことに気付くことができた。前世で気付いていればなにかが変わったことだろう。少なくとも毒薬を飲み、自殺を図ることはなかっただろう。


「お父様、お母様。お二人の娘でよかったですわ。誰よりも幸せだと思います」


 僅かに掠れた声だった。

 それすらも心配で仕方がないと言わんばかりの視線を向ける両親に対して申し訳ないとすら思う。


「そうか。それならば泣くな」


「はい、ごめんなさい、お父様。涙が止まりません」


「なにか辛いのか?」


「いいえ、いいえ。なにも辛くはありません。お父様とお母様から愛されていることを知り、私は幸せなのです。誰よりも幸せなのですから」


「それは初めて知ったことではないだろう」


 父の困惑した声を耳にしたのは初めてだった。

 寡黙な父はそういった問いかけをメイヴィスにしたことはない。いつだってメイヴィスの確信に触れるようなことを聞くのは母の役割だった。


「いいえ、今、初めて知りました。私は今まで気づきませんでした。お父様、私は公爵家の為ならば私は道具でなければならないと思って生きてきました。お父様もお母様もそれを望んでいるのだと思っていました」


 誤魔化すこともできただろう。

 知っていたことだと口にすれば父も安心したことだろう。


「それならば、それでいいと思っていました。お父様とお母様の望まれるままに振る舞い、私の役目を果たせるのならば、この命すらも惜しくはなかったのです」


 それは今世のメイヴィスの言葉だろうか。

 それは前世のメイヴィスの言葉だろうか。


 どちらのものなのか、メイヴィスですら区別がついていなかった。心の中で掻き混ぜられている感情をそのまま口にする。そうすると涙が溢れてきて止まらない。

 どちらの言葉であったとしても、それは悲しいものだった。

 両親にとっては衝撃的な言葉だろう。強制をしたわけでもないのにもかかわらず、家族の為ならば死を迎えることも覚悟しているなどと知りたくもなかっただろう。


「まるで死を乞うかのような言葉だな」


 父の言葉にメイヴィスは頷いてしまう。

 まさにその通りだと思ったのだ。


「私たちは娘にそのようなことを求めない。貴族として甘い考えだと指摘されようが、一人娘にそのようなことを求めるつもりはない」


 父の力強い腕がメイヴィスの頭に伸ばされる。

 頭を撫ぜるわけでもない。ただ、静かに頭の乗せられたその重みを感じるとメイヴィスは鼻を啜った。これ以上、情けない姿を見せたくはなかった。


「だが、誇り高いバックス公爵家の娘であれと強要したのは事実だ」


「それは、私の誇りです」


「誇りの為に命を絶つ必要を説いたことはない。命を惜しまないのならばその誇りは持つべきではない」


「いいえ、私は、バックス公爵家の娘です。公爵令嬢です。公爵家の為ならば命を絶つ覚悟は必要でしょう?」


「では、お前は誇りの為に娘を死なす父であれと? そうでなければ、父を誇れないとでもいうか」


「そのようなことを求めるつもりはありません。お父様は私の自慢です。お母様は私の自慢です。私は私の家族を誇りに思います」


 それ以上は引くつもりはないと言いたげな眼をしていた。

 それは父と娘、二人の血が繋がっていることがよくわかるものだった。同じ目をしている。誇りを大切にする貴族としての表情をしていた。


「そうか」


 父はそれだけを言い、メイヴィスの頭から手を離した。

 それでも諦めてしまったような眼をしているわけではない。


「メイヴィーちゃん、お母様は悲しく思いますわよ」


「なぜですか」


「大切な娘がそのようなことを考えていれば悲しく思いますわ。親というのはそういうものですわ。まだ幼いメイヴィーちゃんにはわからないことでしょう」


「十三になりました。もう幼くはありません」


「いいえ、貴女はまだ幼い子どもですわ」


 既に背を向けて歩いている父に視線を向けている母は、メイヴィスに語り掛ける。それは大切なことを教えているかのような気がした。


「まずは自分自身を大切に思えるようにしなさい。そうすれば、メイヴィーちゃんがどれだけ大切にされているのかをわかることでしょう。貴女がいなくなれば、どれほどの人が悲しむのかわかることでしょう。自分のことを大切にできないようでは、幸せだとは言えませんわ」


 それは前世では命を絶ってもわからないことだった。


 公爵家の迷惑にならないようにと遺書を残せば、それでいいと思っていた。家族のことを大切に思っているからこその行動だった。


「これはメイヴィーちゃんへの課題としましょう。お母様やお父様だけではなく、貴方のことを大切に思っている方はたくさんいるのです。彼らの思いを知りなさい、そうすれば、貴女は今よりも素敵な令嬢になれますわよ」


 迷惑になりたくはない。ただ、それだけのことだった。


 その選択が正しいのならば、母は泣きそうな顔をしていないだろう。理解できないと言いたげな顔をしているメイヴィスの頭を優しく撫ぜた母の手は温かい。


 生きているからこその温もりだった。

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