05-2.下らないものと吐き捨て、その手を払い退ける
皇太子殿下は常識のある人だった。
魔法の才能も剣術の才能も飛び抜けてはいない。
話術が飛び抜けているわけではない。
学ぶ機会が少ない平民階級の人々よりも少しだけ優れているだけだ。
それも学ぶ機会を得て、それを修得する努力を重ねてきた結果である。
なにも問題を引き起こさなければ、皇国を継ぐのは彼になるだろう。謹慎処分が終われば彼は皇帝陛下に求められる振る舞いをするだろう。そうでなければならない。
元々スプリングフィールド公爵家の後見があるからこそ皇太子に選ばれた人なのだ。
優しすぎる彼には皇国を維持していく力はあっても、繁栄させていく力はないだろう。それは、貴族ならば誰もが分かっていることである。
だからこそ、認められる為だけに努力を惜しまない人だった。
「なあ、アイザック? おかしいとは思わないのか」
……どうか、おかしいと思ってくれ。
元婚約者を罪人に仕立て上げようとする人ではないと反論をしてくれるだけで構わない。皇太子殿下はそのような暴君のような真似をする人ではないのだと否定してほしい。前世では、皇太子殿下に仕えることを至上の喜びだと感じていたアイザックだからこそ理解して欲しい。
皇太子殿下はそのような真似をするような人ではないと言ってほしい。
そうすれば、私はあの人が変わってしまったと認めることができる。
「何がおかしいんだよ? エイダ嬢の願いを叶えるのが当然だろ?」
お前も聖女の皮を被った悪しき魔女の味方なのか。
お前も前世での私と同じように“魅了の魔法”に逆らえないのか。
「卒業式の時も思ったんだけどさ。イザベラ、お前、変だぞ? お前、彼奴のことを嫌っていたじゃないか。疎んでいたじゃないか。なんで庇うような真似をしたんだよ。皇太子殿下だって、エイダ嬢が説得をしてくれなかったら、お前のことも許さないって言っていたんだぞ!?」
まるで常識を子どもに教えている大人のようだった。
それは、正しいことを正しいと主張する子どものようにも見える。
いつもと何も変わらない表情で当然のように主張した言葉を聞いて、空しさを覚える。なぜだろう。なぜ、当然のようにアリアを否定するのだ。
「お前が守るべきなのは彼奴なんかじゃねえだろ! 少しは冷静になれよ!」
なあ、アイザック。
お前はあの子の幼馴染みだったじゃないか。
あの子は、お前のことを兄のように慕っているというのに。
今だって、機会があれば昔のようにお茶会をしたいと、お前の武勇伝を聞きたいと言っているのに。それをお前は気持ち悪いと否定するのだろう。以前のように妹分だとあの子の頭を撫でることはないだろう。それが分かってしまう。
それでもアリアはお前を兄のように慕っていたのだ。
それを気付かないような人ではなかっただろう。
考えが足りないことはあっても、口より先に手が出るような性格ではあっても、アリアを可愛がっていた過去まで消えてなくなるようなことはないだろう。
「公爵として皇帝陛下にも皇后陛下にも尽くしている。スプリングフィールド公爵領は今まで以上の発展を遂げるといっても過言ではない。私は、その為に命を懸けるつもりだ。公爵として祝宴や舞踏会、お茶会の参加が必要ならば出席もするし、必要ならば開催だってする。今はまだ祖父様と祖母様の知恵を乞うこともあるが、それでも、公爵としてオーデン皇国に尽くすつもりだ」
分かっている。分かってしまった。
それでも認めたくないと思ってしまうのは、まだ若い証拠なのだろう。先々代として度々指導に訪れてくれる祖父母ならば、若い考えだと笑うだろう。相手の考えを理解しているのに認めないのは、愚かな行為だ。愚かな行為は領地経営には必要ない。
政策を誤れば多くの領民の命を危険に晒すこともあり得る領主には、公爵には愚かな選択肢をしてはいけない。
それでも、アイザックが求めている答えではない答えを口にしていた。
それで諦めてくれたらいいのに。
甘すぎる願いが冷静であるべき公爵としての顔を壊してしまう。
「俺が言っているのはそういう意味じゃない! イザベラが守るべきなのはエイダ嬢と皇太子殿下だろ!?」
それなのに、アイザックはそれを簡単に壊してしまう。
冷静になれと他人事のような言葉を口にしながら、両手で肩を捕まれる。バカみたいに強い力で肩を摑まれ、思わず、痛みで表情が歪んだのは仕方がないだろう。冷静になることができれば、その表情すらも誤魔化すことができただろうか。
「しっかりしろよ、イザベラ。お前は現実を見てないんだ」
現実を見ていない? それは、お前だろう。
公爵令嬢として皇太子殿下の婚約者に選ばれたアリアを一方的に婚約破棄した。その上、市民階級のエイダ嬢と婚約をしたいなんて受け入れられるはずがない。皇族も貴族も政略結婚なのだ。市民だって親や親せきの思惑によって結婚を決められるだろう。恋愛結婚などというのは物語上の空想のものだ。
エイダ嬢を傍におきたければ、結婚をした後、側妃にすればよかったのだ。
そうすれば、全てが綺麗に収まったのに。
現実とはかけ離れた空想話を現実にしようとしている皇太子殿下とエイダ嬢こそ、現実を見ていないのだ。それなのに誰もそれに気付かない。なにもかもがおかしい。
「……痛いよ、アイザック」
摑まれている肩も痛いが、それよりも、心が痛い。胸が苦しい。
アイザックだけは違うと思っていた。前世での私のように罪を犯すことはないと信じていた。彼は彼なりの正義を貫き、皇太子殿下を守っていたのだと信じたかった。
エイダ嬢を守ろうとするアイザックを見たくない。
それだけで胸が痛いのだ。心が痛い。苦しくて仕方がない。
立場を投げ捨てて泣くことができれば、この痛みは和らぐのだろうか。
なりふり構わずアリアだけを守ることができれば、なにも悩むことも悔やむこともないのだろうか。それができないのならば、この痛みは慣れるしかないのだろうか。
力のない私の言葉になにを思ったのか、アイザックの手は肩から離れる。
そして、肩を摑んでいた手は私に差し出された。真っ直ぐに伸ばされたその手を取ることは許されない。その手を取って泣いてしまいたいと思うことは間違いなのだ。それは公爵として求められている私の姿ではない。
「まだ間に合うんじゃねえの、イザベラ。俺も一緒に皇太子殿下とエイダ嬢に謝ってやるから。だから、泣くのを我慢するのは止めろよ」
「……なにを謝るというのだ」
「婚約破棄の大舞台を台無しにしたことと、皇太子殿下の提案を拒否したこと、それからエイダ嬢を悲しませたことも。全部、俺も一緒に謝ってやるから。だから、また一緒にやっていこうぜ、な? 俺はお前が酷い目に遭うんじゃねえかって、それが心配なんだよ。こんなことをするのは止めようぜ。お前の言い分も分からなくはねえけど、でも、エイダ嬢は望んでいねえよ」
泣いてしまいそうになっていることも、それを堪えていることも気付いているのならば、なぜ、その理由には気付いてはくれないのだろう。その追い打ちをかけるような言葉で手を取ると思ったのだろうか。公爵令嬢であってもその手を取るわけにはいかないということを知らないわけではないだろう。
アイザックの顔を見つめれば、いつも通り、バカみたいに真っ直ぐな眼をしていた。真面目に言っているのだろう。バカだけれども正直な男なのだ。
見ていれば分かる。
私が悔しくて泣きそうになっていることをアイザックが見抜いているのと同じかもしれない。
唯一無二の親友として共に居た時間は変わらない。
二度目の人生を歩み始めた私の方が、彼のことを知っているといっても過言ではないだろう。
だから、分かってしまう。
彼は本気で言っているのだ。
それが解決方法だと心の底から思っているのだ。
「……くだらない」
あぁ、くだらない。
くだらなくて仕方がない。
思わず零れてしまった言葉にアイザックは不審そうな眼を向けて来る。
「その手を取るはずがないだろう。私はスプリングフィールド公爵として正しいことをしたと自負している。この手紙も私の手に渡ることなく塵となった、それだけの話だ。ディア、客人には早々に帰って貰え」
目の前で手紙を破り捨てる。
そして、それを床に放り投げて背を向ける。
「おい! イザベラ!!」
アイザックに名を呼ばれると胸が痛む。心が痛いと泣いている。
それでもその手を取るわけにはいかない。アリアを守る為にも、スプリングフィールド領を守る為も、公爵としても、その手は振り払う必要があった。
それなのに、なぜ、これほどに心が痛いのだろう。
胸が苦しい。零れそうになる涙を堪えるのが辛くて仕方がない。
アイザックならば話せば分かってくれると心のどこかで思っていたのかもしれない。だから、心が痛いのだ。涙を堪えるのが辛いのだ。
今はそういうことにしてしまおう。心が痛い理由を考えれば考えるほどに苦しくなるのならば、気付かないままでいるべきなのだ。
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