第34話
鏡の前で両耳に特別な相手の色を付けた時はなんとも温かい気持ちになったし、その相手が自分の色を身に着けているのを見た時も、得も言われぬ幸福感に満たされた。それはエクトルも同じなのだろう。朝顔を合わせた時の喜びと恋の予想線の伸びが凄まじかった。
私たちがお互いの色の耳飾りをしている姿を最初に見たのは護衛の交代にやってきたユナンであり、両耳の色に気づいた彼は挨拶の声も出ることなく固まっている。驚きの予想線が伸びた状態で体も予想線も動かなくなったので、思考停止状態であるのは間違いない。
彼が思考を取り戻したのはエクトルが耳飾りを私に預けた後、「じゃあ後は頼んだからね」と言い残し薬師塔を出てからである。
「シルル殿、本気ですか!? 相手はエクトルですよ!?」
「本気ですが、落ち着いてください」
動揺しているユナンに背を向けて私は調合の準備を始めた。彼がエクトルを表面通りの人間だと思っていることは知っていたが、こういう反応をされるとさすがに少し悲しくなってくる。……あの人は大変分かりにくく難儀な性格をしているので誤解されやすいのは分かっているけれど。
「エクトルさんはユナンさんが思っているような人じゃありませんよ」
「しかし……」
不満そうな声に振り返ると、恋する女の話は信用できない、と言いたげな顔と予想線が見える。綺麗に表情と感情が一致するこの人には、自分と真逆のエクトルみたいな人間が存在することを理解できないのかもしれない。
「エクトルさんは分かりにくいだけで、良い人ですよ。嫌なものの前でも笑っていますし、本音は冗談みたいに茶化して言うので勘違いされやすいんですけど」
私も彼が“そういう人だ”と分からなかったら、きっと距離をとったまま、表面通りの彼だと受け取って親しみを抱くこともなかった。だが、私には予想線が見える。知ってみればただただ人間付き合いが下手で不器用なだけの人だった。
己を隠すのが上手すぎるのだ。おかげで友人も人の顔色を見る天才であるカイオス以外にいない。……いや、まあ、最近は隠しきれないで崩れているのもよく見るけれど。他人の前では相変わらず表情の仮面をつけてしまう。
「……シルル殿がそういうなら……そうなのだと信じてみましょう」
半信半疑といった様子のユナンだったが、実直な性格の彼のことだ、きっと今までとは違う見方をしてくれるだろう。エクトルは仕事も訓練もきっちりこなすし、私生活の乱れもない。真面目なユナンが嫌う要素といえば内情を隠す癖くらいのものだが、それも分かっていればある意味正直な反応なので多少、エクトルという人間が見やすくなるのではないだろうか。
(外側だけを見られるのが苦痛なのに、内側を隠してしまうんだから……本当に、難儀な人)
人との関わり方や自己表現については不器用としか言いようがない。なんでもそつなくこなすような手先の器用さとは正反対だ。そういうちぐはぐなところも魅力の一つなのだろうけれど。……不器用な彼が時折素直に見せてくれる表情が、たまらなく愛おしくなるから。
「遅くなりましたが……シルル殿、ご婚約おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
祝いの言葉は素直に嬉しい。両親を失ってから、私は一人で生きていくのだとどこかで思っていた。魔法使いであるという秘密を誰かが一緒に守ってくれるなんて考えられなかったし、そんな相手を探そうという気もなかった。でも、信じられる人と出会い、その人とこの先を共に歩む約束を交わすことができたのだ。嬉しくないはずがない。
「しかし、心配でもあります。エクトルの周りは昔から女性の問題が絶えませんし……いままでも不誠実なことをしていなかったならば、この先も変わらないでしょう」
「そうですね。むしろ、酷くなるかもしれません」
エクトルは多くの乙女が疑似恋愛を楽しむ相手だった、とでもいおうか。大勢の憧れで、大勢がもし彼が自分の恋人だったらと想像する。エクトルはいままで誰のことも見ていなかったが、だからこそ彼女たちは夢を見ることができたのだ。そんな状態でも小さな諍いや犯罪めいた行いがあったのだから、エクトルが誰か一人を見るようになったと知られたら――どうなることか。
不安がないわけではないが、私はこの先をエクトルと共に行くと決めたのだ。何が起きてもなんとかしてみせよう、と思う。
訓練を終えたエクトルは、笑顔で「ただいま」と言いながら戻ってきた。出来上がった薬を瓶に詰めていた手を止めて、おかえりなさいと返せばその頭上に勢いよく橙色が伸びる。……分かりやすい反応だ。
「じゃあ交代だね。何もなかった?」
「ああ。何事もなかった」
「そう、よかった。俺の大事なシルルさんを守ってくれてありがとね。いやぁ、真面目なユナンが代わりの護衛についてくれてよかったなー。婚約者に何かあったらって思うと訓練なんてまともにできないしさ、助かるよ」
どう聞いても冗談で皮肉交じりにすら聞こえる、軽い調子で放たれた言葉。ユナンの目が「本当にこれが本音なのか」と問うてきたので、頷いて答えた。これでもエクトルは本当に離れている間の私が心配で、堅物と呼べるくらい真面目なユナンが私の護衛で良かったと思っているし、感謝もしている。そして今は目と目を合わせ無言でやり取りをしている私たちに笑顔のまま浅葱色を伸ばしているような、本当に表面だけ見ていたら分かりにくい人なのだ。
「エクトル、お前は意外と面白い男だったんだな」
「……いきなりどうしたの?」
「いや。婚約おめでとう、シルル殿と幸せにな」
ユナンの祝福に驚きの色を伸ばしたエクトルは、笑顔のまま内心狼狽えている。真面目で堅物なユナンは軽薄そうなエクトルが好きではなかったし、いままでは言葉に棘があることが多かった。そんな彼から純粋な祝福の言葉を向けられて、何故急に態度が変わったのかと戸惑っているのだろう。
「ユナンにそういう態度とられるとどうしていいか分からないんだけど……ま、でもありがとね」
「ああ。では、これで失礼する」
珍しく口元に笑みを浮かべながらユナンが出ていき、エクトルは訝しむように灰色を短く伸ばしながら彼が出て行った扉を見ていた。暫くしてゆっくり振り返ったエクトルの頭上には色々と訊きたいことがありそうな予想線が並んでいたが、そこから視線を外してまずは預かっていた耳飾りを返すことにした。
「耳飾りをお返ししますね。座ってくれたらつけてあげられますけど、どうします?」
「……お願いしていい?」
一瞬で浅葱色が消えて橙色が伸びたので、零れそうになった笑いをこらえる。表情はずっと変わらず笑顔だが、感情の動き方は大きい。心の動きが目に見える私にとっては、とても分かりやすい反応をする人なのだ。
椅子に腰かけたエクトルの顔にかかる髪をそっと手で除けて、耳飾りをつける。柔らかそうだと常々思っていた緩い曲線を描く金の髪は、見た目の通り柔らかかった。両耳に着け終わった後、なんとなく指で彼の髪の先を軽く弄んでしまったが、恋人同士なので咎められることでもないだろう。
「エクトルさんの髪は柔らかくて気持ちいいですね」
数秒くるくると毛先を触って遊んで離れたのだが、エクトルの恋の色が伸びては元の長さに戻ろうと縮み、そしてまた伸びるという妙な動きをしていた。大きくなろうとする気持ちを抑えようとしているように見える。……距離が近かったので落ち着かなかったのだろうか。
「……シルルさんはさ、積極的だよね」
「そうでしょうか?」
「うん。俺は結構ためらっちゃうんだけどなぁ」
たしかに、エクトルから私に触れることは少ない。気持ちが大きすぎて行動が伴わないのだろうと思っているし、それを気にしたことはない。
彼は気づいていないかもしれないが、時々短い茜色が伸びているのも見えている。恋人らしいふれあいがしたいと思っていても堪えているのは初心だからなのか、私に遠慮しているのか。
どちらにせよ、彼が私に触れたいと思っていても躊躇っていることに違いはないので、代わりという訳ではないが私からエクトルに手を伸ばすことが多いのだ。私だって、彼のことを好いているのだから。
「愛おしいと思う人には触れたくなりますし、触れてほしいですよ。だから……」
だからエクトルさんも気にせずに触ってください、と言おうとした。言おうとしたのだが、一瞬で伸びた茜色に目を吸い寄せられた。なんだか、いつも見るものよりも長く見える。……一体何をしたいと想像したのだろうか。
それを見ていたら突然エクトルがわざとらしい咳払いをし、同時に茜色は消えてしまったのだけど。
「シルルさん、次の仕事はなんだい?」
「……ええと、そうですね。薬草園に材料を採りに行こうかと」
「うん、じゃあ行こうか」
立ち上がったエクトルに軽く背中を押される。私もそれ以上何か言うことはせず、おとなしく歩き始めた。誤魔化そうとしているのは分かっているが、あえて触れないでおく。
心の色が見える私は、時には見なかったことにするのも必要なのである。
(……茜色を伸ばすくらい、気にしなくていいのに)
私の頭上に予想線は見えないが、あれば私もその色が伸びることくらいあるだろう。抱きしめたいとか、キスをしたいとか、そういう触れ合いを恋人に求めるのは自然な心理であって、恥ずかしいものでもない。……そう思うのは、私が常に他人の心が見えてしまうからかもしれないが。
少なくともエクトルはそれを知られるのが恥ずかしいようなので、私も気づかぬフリをする。
外に出ると大変いい天気で、薬草園の植物たちは日の光を受けて今日も青々と茂っていた。カイオスが用意してくれたこれらの植物は大変品質がいいので、薬も良いものができるし、私も育てていて楽しい。
採集用の籠を持ち、減っている材料を思い浮かべながら薬草を摘もうとした時のこと。私の手をそっとエクトルが掴んで止めた。
「待って、誰か来る」
「……ここにですか?」
顔を上げて城の方角に目を向ける。たしかに、小さな人影が薬師塔へ続く一本道を歩いてきているのが見えた。私の目ではその人影の容姿は判断できないのだが、エクトルには見えたようで「ああ」と納得したような声が聞こえてくる。
「お知り合いですか?」
「うん。多分、ソフィア妃殿下だね」
妃殿下という呼び方から王族の一員であることを察し、自然と背筋が伸びた。一体こんな場所に何用で王族がやってくるのだろうか。カイオスだけでも胃が痛いのに勘弁してほしい。
「ソフィア妃殿下というお方は、一体どういう……」
「カイオスの奥さんだよ。……まあ、カイオスほど無茶を言う人ではない、かな」
黒髪黒目の王子の姿を思い出し、その両耳にあるピアスの色を思い出す。たしか、赤と緑の系統の石をつけていた。その色を持つ彼の伴侶がここにやってくるらしい。
採集籠を片付けて薬師塔の前で膝をつき、やってくる客人を緊張しながら待つ。やがて影が差し客人が到着したところで、エクトルに教わった挨拶の口上を述べた。
「お初にお目にかかります。宮廷薬師兼、第一王子専属相談役のシルル=ベディートと申します。ソフィア妃殿下にご挨拶を申し上げます」
「お久しゅうございます。ソフィア妃殿下におかれましては本日もご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます」
「ご挨拶をどうもありがとう。……お二人とも、顔を御上げなさい」
凛とした、よく通る声だ。ゆっくり顔を上げれば、そこには燃える火のような赤い髪が美しい、少し鋭い印象を受ける切れ長の目の女性が騎士を一人だけ連れて立っていた。輝くような緑の瞳はじっと検分するように私を見ており、その頭上には不信や警戒を表す灰色が見えていたのだが――エクトルに視線を移した後、その灰色はすぐに消える。
「カイオスからは、貴方たちに礼儀を求めてはならないと聞いています。わたくしもそのように扱うつもりだから、自由になさって。いつまでも地についていなくていいわ」
「……お気遣いいただき感謝いたします」
笑みを張り付けたまま立ち上がり、ソフィアに対面する形になった。彼女は女性にしては背が高く、少し見上げる恰好になるが、顔などまともに見れるはずもない。相手は貴族である。
私には貴族に対する礼儀というものを知らない。挨拶の仕方などはエクトルが教えてくれるとはいえ、ほんの少し前まで町に店を構える普通の薬屋だったのだ。だからこそカイオスはこうして貴族が近づかない場所に居場所を作ってくれたのである。ここを訪れるのは使用人、そして護衛の騎士だけであるはず、だった。
(私の礼儀知らずなふるまいでも許せてカイオス殿下の許可がある貴族はここに来る、ってことなのかな……)
当初覚悟していた城の内部に暮らすことに比べれば幾分もマシなのだが。やはり貴族と関わるというのは、平民である私の心情的にも、魔法使いである事情を抱える観点からも、喜ばしくないのである。
「わたくし、貴女がカイオスの愛妾なのではないかと思って会いに来たのだけど」
訂正。ソフィアの紅を塗られた唇から放たれた言葉に、胃が握りつぶされるような心地になった。
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