第12話 「もし掴まったらどういうことになるんだ?」

 光の差し込む階段の真ん中に座り込んで、私はぐっと自分自身を抱きしめた。

 一つの物事が順調に行けば行く程、別の不安が自分を締め付ける。今現在が幸福な気分であればある程、未来に、確実にやってくる何か、が私の胸を締め付けるのだ。


 あなたは時々、奇妙に弱くなるのですね。


 ミス・レンゲは私の母親以上に母親らしい口調で、時々そんなことを言う。

 そうかもしれない。きっとそうだ。そうなのだろう。

 故郷を捨ててから、失って惜しいものなど、何も無いと思ってきた。

 故郷での日々は、楽しいことばかりではなかった。むしろ私にとっては、あの大学の日々以外は、鈍い灰色に彩られていたような気がする。

 ……D伯は…… ドリンク・コート、あの「先輩」は。

 彼は、あの時代の私にとって、確かに特別な存在だった。

 いや、それだけではない。

 ……そんなことをつらつらと考えていた時、だった。


「……社長! 社長さん! ……ナガノさんは何処ですか!」


 私は聞き覚えのある女性の声に呼び止められた。


「ヴィヴィエンヌ?」


 私はその彼女の名を呼んだ。その声を聞き違える訳はなく、そしてここに私が居るだろうことを知っている女性は、彼女くらいなものだ。

 息を切らせ、幾つもの細かい三つ編みを一つに束ねた彼女は、その髪を揺らせながら、上の階の扉から入ってくる。

 私は立ち上がると、降りてくる彼女にどうしたのだ、と問いかけた。いやその問いは、きっと間の抜けたものに違いない。彼女は既に、ナガノの所在を私に問いかけているのだ。


「ナガノなら今日は、現場じゃないか? どうしたんだ君、唐突に」

「……ああそれなら、他のスタッフも一緒なのですね、よかった……」


 ヴィヴィエンヌは私の居た段まで降りてくると、ほっとした様に胸を押さえた。そして真剣なまなざしになると、声をひそめた。


「……ここには集音マイクは無いと彼に聞きましたので」

「彼…… ナガノか?」


 思わず私も声の調子を落とす。


「はい」

「君達はそう言えば、あれから仲が良かったのだな」

「はい。ああでも社長、私は彼の姉の様なものです。社長は私の出自も彼からお聞きになったと聞きますが」

「……ああ」


 そう確かに聞いた。ナガノが天使種であるように、このいつからかうちの劇団に居た彼女もまた、「最高の兵士」の天使種であると。

「私達、逃走中の天使種は、基本的に『逃走している』という、その一点で共闘することが多いです。彼は私に、私は彼にこの場所における安全のために、お互い情報提供していた訳ですが」


 「女優」の彼女しか知らなかった私には、驚く様な硬い言葉がぽんぽんと彼女の口から飛び出してきた。もっともそれは、いきなり対等の口をきき始めた彼と比べれば大人しいものなのかもしれない。

 だが言葉の内容はともかく、そのはきはきとした口調は、女優にふさわしく、どれだけ調子を落としても、私の耳にははっきりと意味を持った言葉として飛び込んできた。


「ドリンク・コート伯がアンジェラスの軍と組んでいるのは御存知ですね?」

「ああ。それは現在の政情を考えれば、妥当な線だろう」

「ですが、伯がそのルートを利用して、彼を…… ナガノ・ユヘイを捕らえさせようとしていたとしたら?」

「何?」


 私は思わず問い返していた。


「社長、あなたは私を伯の元に差し出したでしょう?」


 私はぐっと言葉に詰まる。これが会社のため、という部分ならともかく、D伯に女性を紹介する…… 差し出すという行為は、私にとっては、私的な部分なのだ。

 これは上司に貢ぎ物を捧げる、という意味ではない。私は、私の代わりに、私の過去と未来を縛り付ける男に、女達を差し出していたのだ。

 だがヴィヴィエンヌは軽く微笑むと、右手をすっと差し出し、それを横に振る。


「いいえ社長、その理由はどちらでもよろしいですわ。あなた自身の理由は。私があなたの立場なら、そうするかもしれません」

「だが」

「……いずれにせよ、社長、私自身は、D伯の懐に飛び込んだおかげで、多少以上の自分にとっても有効な情報を得ることができました」

「情報を?」

「ええ。情報は大切ですわ。それはあなたがとてもよく御存知でしょう?」


 ああ、と私はうなづく。この会社を立て直した際にも、それは私の武器にもなった。


「私達、逃走中の身にとっては、できるだけ危険を避けること、そして危険になったら、そこから逃げるためのルートを確保すること。それが一番大切なことなのです」

「危険というと」

「天使種にとって、最も危険なのは、天使種ですわ。敵に回った天使種が、最も危険なのです」


 なるほど、と私はうなづいた。


「だがD伯がアンジェラスの軍と組んでいる、というのは、既に彼も既知のはずだ。何故それでは、今?」


 すると彼女は、手を後ろで組むと、やや複雑な表情になった。


「社長は、あのパーティにナガノさんを連れてらしたでしょう?」

「あ? ああ」


 いきなり飛んだ話に、私はやや戸惑った。


「私と会話していた時にも、妙に彼を気にしてましたわ」

「それは……」


 私の中に、二つの可能性が浮かぶ。……どちらであってもあって欲しくないことだった。そしてあえて、可能性の薄い方を口にしてみる。


「D伯が彼に興味を持った?」

「社長……」


 彼女はまた、やや複雑な表情をする。


「心にも無いことを言わない方がいいですわ。判ってらっしゃるのでしょう? D伯が望んでいるのは、あなたなのでしょう?」


 私は彼女から視線を逸らす。


「D伯が、そう言ったのかい?」

「いいえ。でもその位なら、読めます。伯の行動パターンを読んでいましたら」

「ああ……」


 君は天使種だったんだな、という言葉を喉の奥に飲み込む。


「……ヴィー、君は一体故郷ではどんな位置に居たんだ?」

「軍でですか? 私は彼と同世代ですから、最高でも少佐中佐止まりですが……まあ私の最終階級は大尉でした。逃走した後に、星間ジプシーのキャンプに潜り込んで、しばらく身をひそめていたのですが、その時にどうも、私は折良く好きなものができまして」

「それで女優なのか」


 ええ、と彼女はうなづいた。


「私は、私自身をそう好きでは無かったですから、私以外の人間を演じられることがとても心地よかったのです。そしてその私を賞賛してくれる人々が出てきてようやく、私は自分が少しは気に入るようになりました」


 ああそうか、と私は思う。彼女もまた、自軍から逃走することによって、自分の欲しいものを見つけたのだ。


「でも今は私のことはどうでもいいのです。D伯は私のことには気付いていません。伯は私のことなどそう関心は無いのですから。問題は、ナガノさんなのです。気付いているのでしょう? D伯は、ナガノさんが気にくわない。あなたの現在最も側にいる人間だから。社長は隠してませんよね。それはここの、普通の市民なら有効ですわ。彼等の習慣の中にはあまり無いですから。だけど伯はあなた同様、ウェネイクに居たのでしょう? いいえそれよりまず、あなたをお好きなのでしょう?」

「ヴィー……」

「そうなのですね」


 彼女は強い瞳で私を見据える。私は眉を寄せる。そうなのだ。私は知っているのだ。


「……ああそうだ」


 うめくような声で、私は言う。


「D伯は、私を手の内に入れておきたいのだ。彼は私をいつでも自由にしたがっている。私が特定の人間に縛られることを許さない」


 それは別に彼が口にした訳ではない。貴様はいつでも自由じゃないのか? あの声で、完璧な笑みを作って、あの男はそう言うのだ。

 だけど私は知っている。知っているのだ。


「……彼は…… ナガノを天使種と疑っているのか?」

「と言うよりは、彼の身辺調査をさせていたようです」

「ああ……」


 それは確かにありうることだった。彼は私の周囲に居た女性に関しても、よくその身辺を洗っていた。そして少しでもその経歴に曇りがある場合、口出しをしたのだ。「あんな女と付き合うもんじゃない」。


「心当たりは」

「ある。ありすぎる程だ」

「そうですか。……私達は確かにある程度の籍の偽造や、公的に入手することも可能なのですが、その場合には、必ず過去に不透明な部分が出てきます。……はっきり言います。ドリンク・コート伯は、ナガノさんの不透明な部分に手を出しました」

「……」

「社長はウェネイクで彼と知り合ったのですね。伯はウェネイクの記録から彼の存在を割り出し、その中に不透明な部分を見つけてしまっています。……正直言います。時間の問題です」


 私はぐっと唇を噛んだ。


「ありがとうヴィヴィエンヌ、知らせてくれて」

「どうするおつもりですか? ……失礼ですが」


 さあ、どうしたらいいだろう。それは私自身が聞きたいくらいだった。


「……君はどうする、ヴィー」

「事態によりますわ、社長。軍が乗り込んでくる様だったら、私はその前に逃げなくてはならないですし…… いずれにせよ、D伯の近辺にもうしばらく潜り込んでいます。軍が来るという情報が入ったら、申し訳ないですが、私は逃げます。社長にも、劇団にも申し訳ないですが……」

 

 彼女は言葉を止める。私はわかった、とうなづいた。


「ところで一つ聞いていいか?」


 何でしょう、と階段を上りかける彼女を私は引きとめる。


「君達天使種の脱走兵は…… もし掴まったら、どういうことになるんだ?」

「脱走は大罪です。これが他の軍だったら、銃殺刑でしょうが…… 我々の場合は、爆弾を抱かせる『爆死』か、その立地的余裕が無い時には、『斬首』です。それが一番確実に、我々の肉体を抹殺する方法ですから」


 あっさりと、実にあっさりと、彼女は言った。

 体中の血が一気に地面に向かって落ちていくような気がした。



 どうしたの、と彼はその夜、私の間近で問いかけた。

 ヴィヴィエンヌが私に忠告した時から、幾つかの日々が過ぎていた。

 彼は相変わらず、仕事の合間に身体が空き、それが私の空き時間と合いそうであると、必ず私の元へやってくる。だが彼女の忠告の日からこのかた、ナガノは現場で詰め切りの生活だったので、顔を合わせるのは久しぶりだった。

 いや、久しぶりの様な気がした。

 このくらいの会う間隔が空くことくらいは、以前にもよくあったことだ。

 ただ、事態が変わったことが、私の気持ちをも微妙に変化させていた。

 それでも、「いま」ではないだろう、と思っていた、「その時」が、近づいている。


「……本当に。何か君、変だ」

「変? 変かもしれない」


 真正面から、彼の薄い青の瞳が、明るくはない部屋の中でもくっきりと私の前に開かれる。


「さっきから。貫天楼の工事状況の話をしている時も上の空だった。君らしくない」


 そうだったろうか、と私は思い返す。どうだったろうか。記憶に無い。どうしたというのだろう。何処から何を考えていいのか、ひどく自分の頭の中が乱雑になっているのを感じる。

 一体何から考えれば、いいのだろう? 頭の中を、幾つかの物事が音も無く行き過ぎる。確かチューブの中間新駅を作らなくてはならないから、と部長からその位置の決定を迫られていた。それにともなう人事のこともあった。ああそう言えば、その近くに一つ二つショッピングセンターがあったほうがいいかな? その時の物品購入にはどの線をどの様に使わせた方が効率的だろう……メリットは…… デメリットは…… コストは……


「サーティン」


 彼は不意に私の名を呼んだ。そしてその薄青の瞳が、やや細められる。両手が伸びて、傷一つ見あたらないその手のひらが、私の頬をくるみ込んだ。

 あふれ出しそうな思考の流れが、ゆっくりとその速度を落としはじめる。


「何か僕に、言いたいことがあるんじゃないのかい?」

「別に……」


 私は頭を横に振ろうとする。だが押さえられた顔は、動かすことができない。


「本当に?」

「本当に」


 嘘だ。言わなくてはならないことはある。言わなくてはならない。それは今日この瞬間に、来るかもしれない。今この鍵のかかった扉の外に、待ち受けているのかもしれない。なのに私はそれを口にすることができないのだ。

 彼はくす、と口元を緩めた。


「嘘つき」


 口元を上げたまま、彼はそうぽつりと言った。


「私は……」

「言って」


 彼はそう言いながらも、口を塞いだ。そして離れるごとに、その言葉を繰り返す。そんなことされては、言うにも言えない。言いたくない、私の気持ちを知ってか知らずか、彼は、ひどく長い間、それを繰り返していた。

 その間にも、決して手が留守になっていることはない。頬にあった筈の手は、そこからいつの間にか降りていき、うなじから肩から背中のあたりをゆっくりと撫でていた。

 その感触がひどく心地よいので、私は眠気にも似た霧が、奇妙に原色の刺々しいヴィジョンが走り抜けていた頭の中をゆっくりと鈍いミルクの色に染めていくのを感じていた。

ふう、と私は合間に大きく息をついた。それを見て彼はとどめの様に同じ言葉を、今度はゆっくりと私に向けた。


「言って。何があったの?」

「君が……」

「僕が、何?」


 唇の横をゆっくりと指でたどりながら、彼は言いかけた私の言葉を掴まえた。もしかしたら、彼が前に言った、種族の力が私にも向けられているのかもしれない。きっとそうだろう。でなければこんなに口にすらすらと出てくる訳がない。そうだろう。そうに違いない。これは私の意志ではない。


「君が、行ってしまうから……」

「僕が? それはそうだね。でもそれは今ではないよ」


 私は微かに首を動かした。


「違う……」

「何が?」


 そうだこれは私の意志ではない。では言ってしまえばいい。


「D伯が、君を調べさせている…… そしてアンジェラスの軍に……」

「ああ、そのことか……」


 私は思わず目を開いた。その言葉はひどく当たり前の様に、彼の口から滑り出してきたのだ。


「それは君が、心配することじゃないよ」


 そう言ってナガノは再び私の口を塞いだ。

 だが私は、力が抜けていた腕を奮い起こし、彼の胸をゆっくりと押し戻していた。彼は唇を手の甲でぬぐいながら、どうしたんだ、という顔で私を見た。


「私が君のことを心配しては、いけないのか?」

「心配してくれるのは嬉しいよ、サーティン…… だけど、それは僕の問題なんだ。君を巻き込む訳には」

「既に巻き込まれているじゃないか、私は」


 このまま立て板に水式に喋られてしまったら、私は彼に反論などできないだろう。


「巻き込んだのは君じゃないか」


 声の端がひきつっているのが、自分でも判る。


「巻き込まれることを、私が望んだんだ。そうじゃなかったのか?」


 そうだ。これは私の望んだことなのだ。あの時とは違う。


「それに、結局は私のせいだ。聞いてくれ」

「いや、それは聞きたくはない」

「君が聞きたくないと言っても、私が勝手に喋る。それともナガノ、君はその言葉の力で、私を今ねじ伏せるのか?」


 彼の表情がふっと曇る。唇の端が、奇妙に上がる。


「……それを、君が言うのか? サーティン」

「君はそれを使わないだろう? 君がナガノとして私の前に居る以上」


 そうだ。彼は絶対にその力を使わない。私はそれを自分に対しても言っていた。言い訳にするな。所詮お前はそんな理由でもなければ、自分の本当の気持ちに正直にもなれないんじゃないか。

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