名も知らぬ

きょうじゅ

1

 今から百年の昔のことだ。私があの女と出会ったのは。


 のちに第一次大戦の名で知られる大戦争が終わったばかりで、世がまだ騒然としていたその頃、ロンドンの片隅のどうということもないうらぶれたパブの一角に、あの女は座っていた。


 男の連れも伴わずに一人でシガーを燻らせるその姿は、今の時代ならともかくとして当時では異質なものであった。一瞬、娼婦かと思ったくらいだ。だが、私の吸血鬼としての嗅覚がそれを否定した。なぜなら彼女は処女だったからだ。


 吸血鬼。よく知られるように、我々は貞淑な魂を持った乙女の血を好む。私がその女に関心を持ったのは当然の成り行きであった。


 女の隣に座る。


「ヴィンアルス」


 と言うと、バーテンが怪訝な顔をする。


「何ですか、それ」


 同時に女の眉もぴくりと上がった。


「ルーマニアの言葉で、ブランデーの事ですわ」


 女がそう説明した。


「ブランデーですね」


 バーテンが仕事をする。


「ああ、ありがとう、マドモアゼル」

「礼には及びませんわ、異国のおかた。ロンドンへはご旅行で?」

「いいえ。ロンドンに屋敷を買いましてな。越してきたのです。わが故郷では最近、共産主義者コミュニストの声が強まるようになって、私のような古い貴族の立場はとても危うい」


 今となっては詮無き事ではあるが、これは本当の話だ。祖国に影響力の強いロシアで革命があったから。


「まあ」


 しかしそれより、屋敷、貴族、という言葉を出したときに女の瞳がきらりと光ったのを私は見逃さない。この女は娼婦ではないらしいが、それでも獲物を狙う蜘蛛だ。私も同類のようなものだから、それが分かった。

 

「それより、ルーマニアの言葉を?」

「Da, un pic.(ええ、少しだけですが)」

「それはそれは」


 この英国に来てしばらく経つが、ルーマニアの言葉を解する人間に出会ったのは初めてのことだった。


「『吸血鬼ドラキュラ』を御存知?」


 と言われ、ぎょっとする。


「いいえ」

「ブラム・ストーカーというアイルランド人が書いた小説で、前半でルーマニアが舞台になりますの。わたし、それが好きで。少しだけ、ルーマニアの言葉の勉強までしましたのよ」

「故郷では知られていない本ですな」


 これも本当の話だ。『吸血鬼ドラキュラ』のルーマニア語訳が出版されるのは、実に20世紀も終わり近くになってからのことである。そんなことは当時の私には知る由もなかったが。


「あら、そうですの」

「どんな話なのです?」


 ブランデーグラスを軽く傾けながら、私は何気なく訊いた。


「人ならざる怪物が、人の娘に恋をしますのよ。それがとても哀しくて、とてもいじましくて」


 そう言うと、女は艶然と微笑んだ。


「ところで、ご挨拶が遅れましたな。私の名は――」


 私は偽名を名乗った。そして彼女も、そうした。


「ミナ・ハーカー。そう呼んでくださいまし」

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