新月の夜に逢いましょう
いいの すけこ
少女と紳士
小さな手足を精一杯に動かして、少女は森を駆け抜けていた。
背後から追ってくる何者かの足音から、少しでも遠くへ逃げようと懸命に走る。
大きな街を半月も前に出て、今進んでいるのは人家の絶えた閑地だった。
危ないから、森の中に入ってはいけないと言われていたのに。少女はその言いつけを破ってしまった。
森の傍に幌馬車を停車して、しばしの休憩となった時。連れが荷台で探し物をしている隙に、少女はその場を離れてしまったのだ。
馬車が見えるうちは大丈夫、と思っていたのに。
不審者は少女が一人になるのを見計らったかのように現れた。追われるうち、少女は森の奥へ奥へと入り込んでしまう。
走って走って、少しでも安全な場所に。だけど森は深くなるばかりだし、背後の足音は近づくばかり。追跡者が速力を上げたというより、息が切れて、少女の走る速度が落ちているのだ。
背後から黒い手が伸びてきた。
「あっ」
魔の手から逃れようと体をそらした瞬間、体勢を崩して転んだ。四つん這いのまま振り返ると、大きな影が覆いかぶさるようにして少女を捕えようとしていた。
――捕まる。
「助けて、レオナルド!」
少女は声の限り叫んだ。頭を両腕で抱えて、衝撃を覚悟したが。
衝撃ではなく、風が起こった。
「お呼びですか、ターシャ様」
いや、風ではなく、まるでそのもののように颯爽と助けが現れたのだ。
「レオナルド!」
ターシャと呼ばれた少女は、歓喜と安堵が入り混じった声を上げる。
「呼んでいた、呼んでいたわレオナルド!心の中で何度も。レオナルド、レオナルド、助けてって!」
幼い子ども特有の高い声で、ターシャは助けに現れた連れの名を何度も呼ぶ。当のレオナルドは、目元に皺を寄せてそっと笑った。
「少々お待ちください。今、この不届き者を片付けてしまいますからね」
そうして不届き者――頭から外套を被った男だった――に向き直り、手に携えていた細剣を突きつけた。
「あなたは魔法の心得があるようですが、私はそういうものは使えません。なので、剣でのお相手になります。魔法使いは肉弾戦が苦手な方が多いようですが、お覚悟を」
あくまでも紳士にレオナルドは言い募るが、その言葉は手にした細剣のように鋭かった。
「気を付けて、レオナルド」
「ターシャ様も、私から離れないように」
それでも少女を労わる時のレオナルドの声は、どこまでも優しい。
低くて、張りのある声。そして少しばかり色気のようなものを含んでいて、見かけから察せられる年齢には少しばかりそぐわなくて。
「クソジジイ……」
男が憎らし気に吐き捨てた。
剣を構えたレオナルドは、老いた紳士であった。
老いても曲がらぬ背を伸ばし、美しい姿勢で細剣を男に突きつける。
「ターシャ様に手を出して、ただで済むと思うなよクソ野郎」
老紳士レオナルドは、幼い少女に聞かせるにはあまりに口汚い言葉を、容赦なく男に吐き捨てた。
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