【舌】
7人目に紹介するサイコパスは、
彼の名を知らない者は多いだろう。彼は4人目に紹介した有馬富士夫と同じく、この施設で触れてはならない者として扱われている患者である。
即ち、過激なものをこぞって記事にするメディアですら、あまりの危険性ゆえに禁忌として恐れられているということである。
実際に、この施設に収容されてからも、彼の精神治療に当たった医師や、取材を試みた記者を含め、今までに3人の人間が命を落としている。
この事実をよりおぞましいものにしているのは、有馬富士夫のように関わった人間が言葉巧みに精神を揺さぶられ、操られた訳ではないという点に尽きる。
その理由は後述するが、言葉なくして人の命を殺めた、という事実は取材を敢行した筆者にとって多大なる覚悟を抱かせた。
だが、いざ取材に乗り出し、辺見瑠香と相見えた瞬間、あまりの奇怪さにその覚悟は消え失せてしまった。
その風貌は、とても”42歳の男”とは思えなかったのである。透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪、華奢な体格に、中性的で皴ひとつない顔。とても中年の男には見えず、まるで腕のいい一流の職人が造形した美しい人形の様だった。
それは5人目に取材した藤枝隆磨ように、”格好の良い”という言葉で済むものではなく、人間離れした不気味さ、危うさを感じさせた。その異様な雰囲気に、こちらの言葉が通じるのだろうかと懸念したほどである。
取材を通じて、ある程度のコミュニケーションは行ったが、まるで底の見えない虚穴に質問を延々と投げ続けるような、言い様のない不安が付きまとうものとなった。
辺見瑠香が犯した罪は、計17人の殺人である。
なぜ事件名を記載しないのか、という疑問を抱いた読者もいることだろう。その理由は、その殺人があまりに長期間に渡って不規則に行われ、地域や殺害方法で事件名を一括りに出来ないからである。
辺見瑠香は最初の殺人から逮捕に至る殺人まで、まるで息をするように人を殺めていった。計17人とされているが、これが正確な数字であるかは今も定かではない。
辺見瑠香は、一人息子としてこの世に生を受けた。母親の
辺見伊織は辺見瑠香を身ごもると同時に、辺見安尊に結婚を強要し、家族という形を成した。だが、辺見伊織は日に日に大きくなる腹に嫌悪感を覚え、中絶を決意した。それを聞いた辺見安尊は、妻をこう言って窘めた。
いいじゃないか。妊婦とヤるのが好きな奴だっているんだ。避妊もしなくて済むしな。
程なくして辺見瑠香は誕生したが、祝福するものは誰一人いなかった。辺見伊織は、パチンコ店の駐車場の、うだるような暑さの車内で産まれた我が子を見るなり、開口一番にこう叫んだ。
なにこれ!男じゃない!
グッタリと項垂れる辺見伊織は、軍資金が尽きて車に戻ってきた辺見安尊にこう吐き捨てた。
あんた、こいつをトイレに流してきてよ。女じゃなきゃ将来売り飛ばせないじゃない。
それを聞いた辺見安尊は、ヘラヘラと笑いながらまたしても妻を窘めた。
いいじゃないか。ガキとヤるのが好きな奴もいるんだ。そういう方面に売り飛ばしちまえばいい。
父親も母親も、我が子である辺見瑠香を肉親どころかひとりの人間としてすら扱わず、奴隷や金に変わる物品、泣き喚く鬱陶しい生物、としか認識していなかった。”瑠香”という名前も、将来売春をする際に女に間違われるよう見越して名付けられたものだった。
辺見瑠香は、愛情や倫理観からかけ離れた両親の元に産まれ落ちたのである。
辺見家(とはいっても家族として体裁を保ててはいなかった)は、街からやや離れた山間にある古い一軒家に住み着いていた。この住居は辺見伊織が客の一人を非合法な手段で脅し、奪い取ったも同然の手口で手に入れたものであった。
近くに民家はなく、隔絶された状況で辺見瑠香は幼少期を過ごした。なんと辺見瑠香は出生届を出されておらず、戸籍登録されていなかった為、その存在は一部の人間を除いて知られていなかった。二人を知る者は、非合法に中絶でもしたのだろうと思いこみ、詮索しようともしなかった。
一軒家で両親と共に過ごす辺見瑠香の日常は、想像を絶する絶望に支配されていた。
最古の記憶は、母親が父親に跨って罵りながら首を絞めている光景だった。二人はしょっちゅう口論を繰り返しては、その末にSMプレイを交えた変態的なセックスに勤しみ、それを幼い我が子に見せつけていた。早い内からそういった物事を覚えさせようという思惑あってのものだった。
辺見伊織は異常な性癖の持ち主であり、極度のサディストに加えて行為を見せつけなければ性的に興奮できず、辺見瑠香は毎度その見物客にさせられていた。辺見安尊は反対に極度のマゾヒストであり、身体を強く痛めつけられないと興奮しなかった。その様を見られるという行為もお気に入りであり、我が子の前で情けない姿をさらけ出すことによって興奮を得ていた。
当然まともな教育など受けられる訳もなく、辺見伊織は孤独な幼少期を狂った両親に挟まれて過ごした。教わった事と言えば、簡単な読み書きと物の数え方、異常性癖者の性行為のやり方だった。言葉はテレビを見て教わったが、何事かを口走ると母親から罵声と拳が飛んできた為、家にいる間はずっと口を噤んでいた。
辺見伊織は我が子に対し、凄惨な虐待を繰り返していた。殴る蹴るは当たり前であり、罵声を浴びせたり、食事を与えなかったり、裸にして外に放り出すなど、その手段は多岐に渡った。
時折、なぜか気まぐれに玩具を買い与えられたこともあった。ひとしきり遊んでお気に入りのものになっていると、ある日突然取り上げられて目の前で破壊され、罵声を浴びせられた。
お前もそうなる運命なんだよ。そうなりたくなかったら、舐め方の練習でもしな。
そう吐き捨てられると、傍らで鼻息を荒くした辺見安尊がズボンを下ろしていた。
辺見安尊は我が子に対して暴力は振るわなかったが、性欲処理の対象として扱うこともあった。特に自分の子供に攻められるという行為を病的なほどに気に入っており、辺見瑠香は定期的にその役割を果たした。
拒否して泣き喚こうものなら、辺見伊織から口を塞がれて脅された。
喚くんじゃないよ。ヤりやすい様に歯を抜いてやろうか、それとも舌を切り取ってやろうか。知り合いにそういうヤツがいるが、舌もないのに口ですると気持ちいいって評判だよ!アハハハッ!
年齢が二桁になろうかという程に成長した辺見瑠香は、母親から非合法の売春組織に売り飛ばされそうになった。だが、売り飛ばされる直前に売春組織が摘発されてしまい、辺見瑠香は両親の元に残ることになった。
辺見伊織は自身もその売春組織に所属していた為に稼ぎ口を失い、辺見瑠香に対して八つ当たりをするようになった。虐待はエスカレートしていき、気絶するまで殴られたり、物干し竿で胸を一突きにされたり、熱湯を浴びせられたりと、生死に関わるようなものばかりになっていった。辺見安尊はその様を見てまんざらでもなさそうにニヤニヤと笑うだけだった。
やがて、辺見伊織は個人売春を始めた。食い扶持を稼ぐためにサディズム専門ではなく、マゾヒズムをプレイ内容に取り入れ、なりふり構わず身体を売ることに精を出した。
辺見安尊はその手引きを担当し、自身もその行為に参加することもあった。傍観者としてその場に同席することも珍しいことではなかった。その傍らには、必ず辺見瑠香を付き添わせた。
この頃、一度だけ辺見瑠香に救いの手が差し伸べられた。売春の客であるひとりの男が、辺見瑠香に対して養子にならないかと持ち掛けたのである。
男は小児性愛者であったが、決して悪いようにはせず、学校にも通わせてやると約束した。だが、辺見伊織は高額な資金と自分たち家族の面倒をみろという無茶な条件を掲示し、男を怒鳴りつけて脅した。結果として、男は辺見瑠香を引き取ることを諦めて去った。
辺見伊織は辺見瑠香が他者の愛情の対象になったことが許せず、さらに虐待を激化させた。痛みに泣き喚く我が子を見て、辺見瑠香は激昂した。
舌を出しなっ!!ほらっ、早くっ!!
辺見瑠香の舌に、安全ピンの針が何本も突き刺さった。
将来用だよ!デコボコしてた方が客が喜ぶのさ、気持ちいいってな!
気持ちいいだろう?お父さんもされたことがあるんだよ。
痛みに狂いそうになっていた辺見瑠香に、辺見安尊は舌を出して笑いかけた。その舌先には、いくつもの穴が開いていた。
助けが来ないと理解し、絶望しきった辺見瑠香は、静かに狂い始めた。裸で家の近辺をうろついては見つけた虫やカエルを持ち帰り、針で刺して殺したり、洗剤をふりかけた残飯を撒いて、小動物を毒殺するようになった。
自慰行為を覚えたのもこの頃だった。茂みの中で殺した虫や小動物に糞尿をかけ、それに射精することが気晴らしになった。両親の目から離れている間だけが、唯一辺見瑠香が心安らぐ時間だった。
ここで、初めて辺見瑠香は心を許せる存在に出会う。
ある時、いつものように裸で家の周囲をうろついていると一匹の野良犬が駆け寄ってきた。やけに人懐こく、お手やお座りなどを覚えていたことから捨て犬だろうと推測した。母親に見つかればどうなるか、想像するのは難しくなかった。人目に付かないように茂みの奥に向かうと、針金で作ったお手製の首輪で木に括り付けた。
毎日のようにこっそり通い、残飯を与えて世話をした。吠えることは一切ない、利口で穏やかな犬だった。辺見瑠香にとって、その傍らで自慰に耽ることが唯一の癒しの時となった。
ところが、ある日突然犬が姿を消していた。首輪代わりの針金が綺麗な切り口で切断されているのを見て嫌な予感がした。急いで家に戻ると、庭先で辺見伊織が犬を踏みつけている最中だった。取りすがって泣きつくと、犬の亡骸から長い舌が力なくだらりと垂れていた。
あんたがこいつをその辺で飼ってたのは前から知ってたさ。なんで今まで殺すのを待ってたと思う?あんたがこのクソを長い間可愛がるほど、殺す時の楽しみが増えるからだよ!!
唯一の心を許せる存在を失い、辺見瑠香は今までにないほど大声で泣き叫んだ。名付けていた犬の名前を繰り返し呼んだが、犬は冷たくなっていく一方だった。
そんな辺見瑠香に対して辺見伊織は激昂し、家の中に無理矢理引きずり込むと、壁に叩きつけた。
うるさいっ!!あんたなんかが生意気に喋ってるんじゃないよ!!
辺見伊織はそう忌々し気に吐き捨てると、台所からキッチンばさみを持ち出して辺見瑠香の口に手を突っ込み、舌を引っ張って根元から切断した。
あまりの痛みに、辺見瑠香は意識が遠のいた。ゴボゴボと血が喉に降りていく感覚と共に、口の中にタオルを捻じ込まれ、辺見瑠香は気を失った。
目を覚ますと、傍らに血だらけのタオルが落ちていた。辺りは暗くなっており、一日気絶していたようだった。
口中の激痛に悶えながら起き上がると、壁の向こうから両親の嬌声が聴こえていた。父親の善がる声が犬の鳴き声のように聴こえて何が起きたのか全て思い出したが、不思議なことに涙は出なかった。
そのままふらふらと台所に向かうと、包丁を一本携えて両親のいる寝室の扉を開けた。母親が父親の身体に跨って局部に煙草を押し付けている見慣れた光景が広がっていた。
起きたのか、さあ、お前も早く来い。
そう言って顔を快感に歪ませる父親の目に、辺見瑠香は包丁を突き立てた。絶叫する父親を見てなぜか爆笑しだした母親には、胸に向かって何度も包丁を振り下ろした。
やがて母親の乳房が原型を留めなくなる程に切りつけていると、寝室に静寂が訪れていた。二人とも、いつの間にかこと切れていたようだった。
今までにかつてないほどの静寂が家を包んでいた。暗い無音の空間がどこまでも続き、辺り一帯を虚無の世界に変えていた。
辺見瑠香はあまりの心地よさに、産まれて初めて熟睡した。ずっとこの虚無の世界に浸っていたかった。まるで眠っている時のように暗闇が支配する空間が、自身の求める安息の地だと感じた。
目覚めると、辺りは明るくなっていた。全て夢の出来事だったのかと思い、寝室を確認すると何十匹ものハエが両親にたかっていた。うるさい羽音に辟易し、庭に出ると冷たくなっていた犬にもハエがたかっていた。
喚きながら腕を振り回して追い払うと、声が言葉にならないことに気付いた。舌を失ったせいで発音できず、ああ、おう、としか言えなくなっていた。
犬を茂みの中に丁重に埋葬すると、家に戻って鏡を見た。口の中にあったはずの舌が無くなっており、赤黒いカサブタが根元に残っていた。
言葉が奪われたことを理解したが、悲しくはなかった。そんな感情はとうに消え失せていた。家に残っていた現金を母の使っていたブランドバックに詰め込むと、一番状態のいい服を着て街へと降りた。
街に辿り着くと、微かな記憶を頼りにある場所を目指した。そこは、かつて母に連れられて何度も訪れた、売春組織の人間が集う事務所兼風俗店だった。
その後、辺見瑠香はその風俗店の手引きを受け(実際には人身売買だったのだろう)、遠く離れた海外の地にて違法売春宿の男娼となった。まだ13歳だった辺見瑠香にはそういった嗜好の客が多く付き、瞬く間に売春宿の一番人気となった。
同じ売春宿には、全身が入れ墨だらけの若い男や、顔が火傷で覆われていた片足の少年など、訳ありらしき人間ばかりが集っている様だった。皆一様に死んだ目をして毎夜客の相手をしていた。
客層はお世辞にも治安がいいとは言えず、時には強姦や凌辱同然の行為を求められることもあった。過酷な日々が続いたが、逃げ出そうとは考えなかった。一度、逃走を試みた者が見せしめとして目の前で生きたまま性器を切り取られる様を目にして以来、逃げ出すことは諦めた。
やがて月日は経ち、18歳になった辺見瑠香はある男に見初められた。その男は違法売春宿の常連客であり、いつも身なりがいいことから富豪だと噂されていた。辺見瑠香はその男から突然、”ここから救い出してやる”と言われた。それから程なくして、本当に男は辺見瑠香を違法売春宿から連れ出した。
どうやって何事もなく抜け出せたのか疑問だったが、男はどうやら多額の金を売春宿に払ったらしく、身元ごとお前を買ったのだと言った。
その男は辺見瑠香にとって二度目の救いの手となった。男はなんと辺見瑠香を連れて日本へ移住し、戸籍まで用意した。男は戸籍すら金に物を言わせて違法に買い与え、辺見瑠香に自身の恋人になるように迫ったのである。
だが、辺見瑠香は返事をしなかった。男はその後、高級マンションの一室で死体で発見された。死体は性器と舌が切り取られていたという。
その後、辺見瑠香は都心の歓楽街をうろついていたところをスカウトされ、再び違法売春を行う男娼となった。声をかけたのは売春斡旋業者の男であり、安アパートの一室に未成年の少年少女を住まわせ、違法風俗業者に派遣することを生業としていた。
辺見瑠香は他の未成年たちと六畳一間の共同生活を始めたが、その暮らしは長く続かなかった。一か月と経たない内に、辺見瑠香が業者の男と未成年たちを殺害したからである。
死体発見時、業者の男も未成年たちも全員が裸の状態で浴槽に詰め込まれていた。全員が身体中を包丁で滅多刺しにされて殺害されており、業者の男だけが性器を切り取られていた。そしてやはり、全員の舌が切断されていた。
その後、歓楽街から姿を消した辺見瑠香は、別の地方都市の歓楽街にて目撃されるようになった。違法風俗店や個人売春を手引きするホテルなど、歓楽街の後ろ暗い場所でふらふらと過ごしつつ、辺見瑠香は自身の身体を売って過ごした。この頃、この地方都市にて行方不明者が出たり奇妙な変死体が発見されることが相次いだが、その理由は言うまでもない。
やがて、辺見瑠香に三度目の救いの手が差し伸べられる。
地方都市にて歓楽街をふらついていたある日、一人の警官が辺見瑠香を呼び止めた。当時、歓楽街付近の交番にて、若くして巡査長の任を担っていた
大出亨は職務質問の対象として選んだ辺見瑠香を見るなり、その異様な雰囲気に圧倒された。何を問いかけても返事をしない辺見瑠香を交番まで連れていくと、着席を促し、なぜ黙りこくっているのか問い詰めた。
辺見瑠香は何も言わないまま、口を開いた。その様を見て、大出亨は辺見瑠香に心を奪われた。
なんと、大出亨は自身が暮らすアパートに辺見瑠香を連れ込み、同棲を始めた。辺見瑠香は自身の身の上や過去を一切語ることはなかった。だというのに、大出亨はアパートに辺見瑠香を半ば強引に連れ込んだ。勤務から帰ってくると、甲斐甲斐しく身の世話を焼き、真剣な顔をしながらこう言い放った。
君に何があったのかは知らないが、なぜか僕は放っておけなかった。説明してくれないから分からないけれど、色々と言いづらい過去があるのなら無理に伝えなくていい。しばらくはここにいてくれ。なんならずっといたっていい。君の心の傷がいえるまで。
驚くことに、大出亨は純粋な支援、扶助のつもりで辺見瑠香を引き取ったのである。実際に、大出亨は一切辺見瑠香に手出しすることはなく、心療内科や口腔外科に連れていき、辺見瑠香に対して適切な治療を受けるように促したという。
この時の心療内科にて受けた観察記録が、事件資料の一節に掲載されている。以下は、担当した心療内科医による手記から一部を抜粋する。
”今まで何人もの心を病んだ者に出会い、治療を施してきたが、私は絶望した”。
”彼には何も響いていない。病んだ精神を解きほぐそうと試みたが、一切通用しない。まだ短期間であるが、恐らくどれだけ長い時間を治療に捧げたとしても、彼の心を溶かすことは無理だろう。本来ならば医師として恥ずべきことだろうが、私は匙を投げたのだ”。
”芯の芯まで腐り切った腐肉は、もう二度と元に戻ることはない”。
担当医の身元は、今現在不明である。
辺見瑠香は言われるがままに治療を受けたが、担当医の手記にも記された通り、無駄に終わった。それでも、大出亨は甲斐甲斐しく世話を焼いた。
僕は、君を救いたいんだ。いつか、君の声を取り戻してみせるよ。そう言って、大出亨はにこやかに笑いかけた。
その夜、辺見瑠香は寝ている大出亨に性行為を迫った。布団に潜り込み、口淫を施している最中に、大出亨は気が付き、振り払って止めさせた。
やめろっ!何をやってるんだ!・・・・もう、そんなことはしなくていいんだよ。君はそんなことをする為に産まれてきたわけじゃないんだから。
そう言ってにこやかに笑いかける大出亨の首に、辺見瑠香は包丁を突き立てた。ゴボゴボと声にならない声をあげて首を掻き毟る大出亨の口に手を入れると、舌を掴んで切り落とした。
詰まったポンプのような音をたてて大出亨がこと切れた後、辺見瑠香はアパートを出た。
地方都市を離れた辺見瑠香は、半年ほど個人売春を繰り返しながらあちこちの歓楽街を移動し、再び都心に戻った。この道程の中で客である二人の男を殺めているが、やはりその死体からは舌が切り落とされていた。
都市に戻った辺見瑠香は歓楽街の片隅、薬物中毒者がたむろする違法経営マンションに身を置いた。そこは昼夜を問わず薬物中毒者がうろついている”現代のアヘン窟”とでもいうような場所であった。
マンションの各部屋に所狭しと二段ベッドが設けられ、その上で意識が朦朧としている薬物中毒者が昼夜を問わず奇声を上げるそこは、かつての自分の家の様だった。
いかに静寂を求めようと、邪魔をする者がいる。それを理解した辺見瑠香は、帰巣本能が働いたとでもいうかのように、かつての自分の家のような場所を選んだのである。
辺見瑠香はそこでひたすら眠りこくった。時折、ハイになった若者同士が性行為に興じていたり、中毒症状が出た者が暑いと連呼しながら自身の皮膚を剥ごうとして血だらけになる騒ぎが起きようとも、辺見瑠香はただひたすらその傍らで眠り続けた。
四六時中、嬌声や悲鳴、奇声、罵声が聴こえてくる場所。まるでかつての自分の家の様だったそこは、辺見瑠香にとって今までで一番の”自分の居場所”だった。
身一つで暮らし、時折外に赴いては個人売春で金を稼ぎ、食い扶持をつないだ。あとはひたすら喧騒の中で安らかに眠った。長い旅路の上に、ようやく見つけた安息の地。ここでの生活がずっと続けばいいと願った。
だが、その願いを打ち砕いたのは、他でもない辺見瑠香自身だった。
ある日、ひとりの薬物中毒の若者が、なぜか犬を連れてマンションに転がり込んできた。その若者は家出した身であり、自身を虐待する両親から逃れてきたが、唯一の心を許せる家族として犬を放っておけず、連れて来たのだという。
若者は薬物中毒者としての歴は浅く、その違法経営マンションをひと時の宿泊場所としか捉えていなかった。そこにたむろする重度の薬物中毒者が、一体どういう行動をとるのかは想像できなかったのであろう。
若者が来て三日と経たず、犬は死んだ。ハイになった薬物中毒者が、奇声を上げながら犬を犯そうとした末に、首の骨を折って絞殺したのである。
働き口を探しに外出していた若者が戻ってきた時には、既に犬は冷たくなっていた。若者は犬の死体を見るなり、大声で泣き叫んだ。その身を抱え、顔をうずめて犬の名を連呼する若者を見て、辺見瑠香はかつての自分をその姿に重ねた。
辺見瑠香を支配していた虚無心の中で、何かが蠢いた。
”マンションの部屋から、ただごとではない悲鳴が聴こえる”。警察が、そんな近隣住民の通報を受けてマンションの部屋に踏み込んだ際には、惨劇は全て終わっていた。
マンションの部屋にいたのは、その若者を含めた薬物中毒者が全員あわせて6人。その全員が、滅多刺しにされて部屋のあちこちに転がっていたのである。
部屋の壁という壁、床という床に血飛沫が飛び散り、それはさながらスプレーアートの様だった。
辺見瑠香はその部屋の真ん中で、凶器に使用したハサミを携えて、犬の死体に添い寝するように寝転がっていた。傍らには、全員分の舌を並べていたという。
辺見瑠香は抵抗することなく、逮捕された。息をするように殺人を重ねたサイコパスはとうとうその動きを止めた。
逮捕後、辺見瑠香は筆談によって罪の告白を始めた。驚くことに、その自供は状況や犠牲者が発した言葉などが恐ろしいほど緻密に書き込まれていった。
辺見瑠香は簡単な読み書きしかできなかった為、その自供集には平仮名やカタカナが多用され、さながら壊れた機械からはじき出される暗号文の様だった。
警察は困惑しつつも、ひとつひとつの証言を照らし合わせて捜査を進めた結果、なんと死因や殺害方法、血痕の位置から凶器の行方などが正確に一致した。辺見瑠香が犯した数々の殺人は、正確無比な本人の証言によって一件一件確実に立件立証されていったのである。
だが、順調に思われた捜査にも、思わぬ障害が起きた。取り調べに当たった者達が次々と精神を病み、辺見瑠香に対して傾倒する様になったのである。
無論、辺見瑠香はひたすら自供を重ねていただけであり、取り調べに当たった者に対して感情や意思を示すことは一切なかった。だが、なぜか取り調べに当たった達は辺見瑠香に入れ込むようになり、中には拘束されていた辺見瑠香を連れ出そうとする者まで現れた。
手を焼いた警察は精神病院へと身柄を引き渡し、再度自供を引き出そうとしたが、やはり治療に当たった医師達が次々と精神を病み、辺見瑠香を崇拝するかのように傾倒していった。
結果として、意図せず危険人物のレッテルを貼られた辺見瑠香はこの施設に流れ着き、現在も自らが犯した全ての犯罪の立件立証に努めている。粛々と書き連ねられた自供集は優に7000頁を越え、現在も増え続けているという。
読者諸君の中には、今回のコラムがなぜ辺見瑠香の視点でしか語られていないのか疑問に思った者もいることだろう。
その理由は、今回の取材がただひたすら辺見瑠香から自供集の一部を引用されるという形式となったからである。
まるで自身の半生を書き記した本から、いつどこで何をしていたかを引用するように、筆者の質問に対して対象の頁を取り出して指で指すという、今までにない奇妙な取材方法が取られたのである。
上記の事柄は(一部の推察部分や他者の証言を除いて)全て偽りない辺見瑠香の真実であり、誕生時の回想は実際に両親から聞かされた言葉を元に想像されている。
取材時、辺見瑠香は一切表情を崩すことはなかった。限られた取材時間の中で、事件に関する膨大な自供集を見せられたが、その文章の中にすら、辺見瑠香は自身の感情を発露させることはなかった。恐ろしいほど緻密に書き込まれた自供集の中に、どう思ったか、どう感じたか、そういった記述は一文も見受けられなかった。
筆者は取材中、終始背中に悪寒を感じていた。
辺見瑠香という人間の中に、果たして”感情”は残されているのだろうか?
質問を投げかけても、無言で文章を指すだけであり、まるでそういった設定を施された精巧で美しいマネキンが動いているようだった。その不気味さは、冒頭に記した通り、底の見えない虚穴に質問を延々と投げ続けるようであり、人間味を一切感じなかった。
一体なぜ多くの人間が、辺見瑠香に惹きつけられ、魅入られてしまったのだろうか?感情を見せることのない、物言わぬ人形のような不気味な存在に。
だが、筆者は辺見瑠香に接した者達が、なぜ魅入られていったのか、微かに理解できたような気がしている。
辺見瑠香は、正にサイコパス、覗いてはならない”深淵”たる存在である。魅入られた彼らは、その虚穴を覗いている内に、堕ちてしまったのだろう。狂気の奈落へと。
その奈落に救いの手を差し伸べようと試みた者達は、吸い寄せられるように狂気に侵される。侵されなかったとしても、無事では済まない。それは、辺見瑠香に関わってきた者達の末路を見れば明白である。
それは筆者も例外ではない。実際に、その深淵をいくつも覗いてきたのだから。
取材の最後に、筆者は念のために用意しておいた、ある写真を辺見瑠香に見せた。それは、辺見瑠香が逮捕されるきっかけとなったマンションでの惨劇。その引き金となった犬の生前の写真である。辺見瑠香から、少しでも何か反応を引き出せればと、持参したものだった。
「あなたが幼少期、唯一心を許した存在である犬は、一体何という名前だったのですか?」
辺見瑠香というサイコパスが誕生するきっかけになった存在ともいえる、幼少期に出会った犬。膨大で緻密な自供集の中にも、その犬の名前は記されていなかった。名前を連呼したという供述はあったにも拘らず、犬の名は明かされないままだったのである。
犬の写真を見せながらそう問いかけた瞬間、辺見瑠香の瞳が僅かに歪むのを感じた。それまで、眼を伏せてこちらを見ようとしなかった辺見瑠香が、不意に顔を上げた。
身構える筆者に対し、辺見瑠香は人形のような無表情のまま、大きく口を開いて声にならない擦れた音を吐き出した。
「アアアアアアァ」
まるで、”お前も堕ちろ”。そう命じられているかのようだった。
その開いた口の中に在ったのは、正に深淵のような暗闇と、根元から切断された舌の痕だった。
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