第113話

 部屋に足を踏み入れた瞬間、ぞわりと怖気が走った。

 異質なものが中に居る…本能的に、そう感じ、無意識に息を止める。

 けれども視線だけはぐるりと室内へ向ける。既に夜の帳が落ちた王太子の寝室での異変を見逃すものかと、ジュジュは目を凝らす。

 不意に、ベッドの脇で人影が揺らいだ。



「…っ!」



 侵入者だと、声にならぬ悲鳴をあげる。未だ目を覚まさぬ王太子に危害を加えるつもりかと、体型に似合わぬ素早さで駆け出した。

 誰かを呼ばなければ。

 賊ならば、ジュジュ一人では対抗できない。

 そうわかっていても、はやる心に頭の中が真っ白になり、物事の優先順位がうまくつかない。ただ大切な片割れを守らなければ、とその思いだけで足が駆けた。



「離れて!」



 悲鳴のような声を上げ、そこに立つ人影に手を伸ばす。

 瞬間、後ろから肩を強く引かれた。



「…っ!」



 次いで顎を掴まれ、強制的に上向かされる。天を仰ぐように顔を上げたジュジュの視界を、薄闇を纏う男の薄笑いが覗き込んだ。



「邪魔しないで」



 孤を描く男の口元と、黒縁眼鏡越しの薄い碧眼。澄んだ空に似た色がやけに冷えて輝き、全身が泡立つのを感じた。

 恐怖と嫌悪が一緒くたになって、身体を冷やしていく。「ひっ」と口端から漏れた悲鳴に、男が片眉を持ち上げた。



「大丈夫だよ」



 笑うように、男が囁いた。もう全部終わるから、と。

 ジュジュが次の言葉を口にする前に、男が俄かに双眸を見開いた。冷えた空色の瞳が、彼女の奥を穿つように注がれる。



「忘れて、お姫様」



 ばさり、と鳥が羽ばたく重い羽音が耳の奥で響く。

 瞬間、ジュジュの視界が暗転し、簡単に意識を手放した。

 

 

 

 

 


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「…ジュ、ジュジュ」



 聞き慣れた柔い呼びかけに、薄らと瞼を持ち上げた。

 寝ぼけて霞む視界に、人影が映る。その人が何度も名前を呼んでいた。



「わた…くし…?」



 指先で軽く目じりを撫ぜ、二、三度眼を瞬かせた。

 そうしてはっきりとした視界の中で、自分とよく似た男が微笑みを向けていた。



「おはよう、ジュジュ」



 ベッドから上半身だけ起こし、座っている。金色の緩い巻き毛が肩に落ち、小首を傾げる仕草に合わせ揺れた。



「枕元で転寝? 随分疲れていたんだね」



 からかう言葉に、彼女は茫然と眼を瞬かせた。

 そして、呼ぶ。



「ジークフリート…」



 彼はにこりと微笑むと、大きく伸びをした。



「ああ、何だか酷く身体が痛い。 起き上がるのに腰が痛かったよ」



 何だろうかと零す王太子の姿に、ジュジュの目尻が熱くなってゆく。あっという間に下瞼へ溜まった涙はぷくりと膨れ、ぽたりと雫となり落ちた。



「お腹すいた…って、え! ジュジュ?」



 腕をまわしつつ見やった妹が突然泣き出したのだ。ぎょっと眼を丸くした王太子が、驚いて彼女の手を握った。

 触れた掌は、温かい。

 それに睫毛を震わせる。拍子にまた、涙が零れた。



「え、え?」



 慌てた様子で辺りを見回すジークフリートを、崩れた笑みで見つめ、ジュジュが呟いた。



「本当に…寝坊しすぎですわ、ジーク」



 今度は頬に筋を通した涙が、顎先を伝って、丸く滴った。

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