第70話-2

 二人のやり取りに、アーベルは生唾を飲み込んだ。



(こ、これは…僕が聞いていい話じゃない気がする)



 多分…いや、間違いなく。

 詳しくはわからないが、きっと家が絡む話。友人同士の他愛ない近況報告でないことは確かだ。

 頭の裏側が、さっと冷たくなった。巻き込まれたくない、と素直に思う。



「あ、あの!」思うが早いか、裏返った声を上げた。



「僕、ちょっと、席外しますね!」



 言うや否や、お盆を抱いたまま、部屋の入口へ向かおうとした。その背に、のんびりとした上司の声が投げられる。



「何で? 用事?」


「え? いや、別に用事は…」


「じゃ、ここにいろよ」


「でも」



 みるみる青ざめてゆく部下に、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべ手招きをした。



「遠慮すんなって。お前も聞いとけ」



 泣きそうな顔でアンリへ助けを求めるが、彼は困った様子で首を横に振っただけだった。菫色の双眸に、微かに憐れみが見えた気がする。



(い、嫌だー!)



 心の中で悲鳴をあげた。


 お家同士のゴタゴタなど真っ平である。そもそもアーベルは、そう高い地位の家柄ではない。高くも低くもない田舎の中流貴族で、彼はそこの次男坊である。



 実家はある程度の領地を持ち、そこを治める任を負っている。既に家督は嫡男である兄が継ぎ、結婚して甥姪も生まれていた。家族仲はよく、両親と兄家族は一緒に暮らしている。

 義姉の妊娠がわかった頃に、アーベルは家を出た。次男坊がいつまでも脛を齧るわけにはいかないと、一念発起してのことだ。

 幸い、田舎での学業が優秀であったことと、父の紹介状のおかげで、無事王城への出仕が決まった。

 最初の二年は別の部署でビシバシ扱かれ、それでも充実した日々を送っていた。気のいい同僚に、厳しいが頼れる上司。初めて飲みに連れて行って貰った夜は、何て充実した人生だろうと感じ入った。

 生活にも仕事にも慣れた三年目に突然の辞令―――まさかの王弟殿下の補佐官に抜擢である。


 昇進かと思った。


 昇進ではなかった。


 昇進に見せかけた流刑に近い。


 何せ新部署は上司とアーベルの二人きり。

 噂で聞くばかりで実際に顔を見たこともなかった新しい上司は、人当たりよく人好きする笑顔の美丈夫だが、中身は部下泣かせのサボリ魔。やる気を出せばやれるくせに、やる気を出すのが稀。おかげで、今まで何人も補佐官が辞めていったのだという。

 そんなことなど露知らず、生真面目なアーベルはとにかく頑張った。頑張って頑張って頑張って、時には身体を張って泣き落としてランティスに仕事をさせた。とにかくがむしゃらだった。


 おかげで今では、ランティスの灰青の瞳にちなんで「王弟殿下の獣」と評されている。喜んでよいのかわからない。


 が、右腕であるのは、あくまで仕事の上だけ。

 家同士の…王家と、それを取り巻く思惑に関しては、絶対に係りたくない。間違いなく面倒なことになるに違いないのだ。



 綺麗な碧眼を潤ませ固まった補佐官を手招きしつつ、にんまりとランティスが猫のように嗤う。



「諦めろって」軽い口調で言った。



「お前は真面目で素直、おまけに権力欲がない事を、上のジジイ共は知ってる。いざとなればどうにでもできる立場のお前は、奴らにとっちゃ便利な駒だ。どう足掻いたって、俺の補佐を外れることはないと思うぞ」


「べ、別に、殿下の補佐を外れたいとか思っては…」


「うんうん、お前はそういう酷いこと言う奴じゃないもんな」



 徐に立ち上がると、ゆったりとした足取りでアーベルへ近づいてくる。顔に張り付いた笑みはいつも通り人好きのするそれだったが、アーベルには言いようのない圧を感じた。

 あっという間に目の前に立ったランティスは、赤い髪を揺らし、顔を覗き込んだ。



「なぁ、アーベル」呼ばれ、ひゅっと息を止める。



「俺もお前を気に入ってるし、できればずっと俺の側で、俺の補佐をして欲しいのだが」


「こ、うえいです…殿下」


「本当?」



 嬉しげに灰青の双眸が細まり…突然、ランティスが青年を追い詰める様に、ドン、と壁に手をついた。

 頭一つ分背の高い赤髪の男が、顔を近づけてくる。男にしては少し長めの濃い茶の髪を指先で掬うと、慣れた様子で唇を落とす。

 ひっとアーベルが悲鳴をあげたのに、艶っぽいし視線を送った。



「じゃ、逃げずにここで、俺らの内緒話に参加するな? …俺の、補佐官として」



 澄んだ硝子玉のような瞳を、初めて至近距離で覗く。朝に消える夜の空に似た色をしていた。

 吸い込まれそうで、逸らせない。心が絡め取られる感覚に、肌が泡立った。

 ああ、嫌だ嫌だ、と心の内で声を上げた。業務以外で、王家やその他のゴタゴタに巻き込まれるなんて、絶対に嫌だ。何も知らず、ただの田舎貴族の次男坊のままでいたい。


 けれど。




 ―――結局、是と、頷く。

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