第70話
難しい顔のまま、客人は紅茶に手も付けない。透ける白の湯気は淋しげに宙でくゆり、消えた。
自席に座る赤髪上司の前にも紅茶を置くと、アーベルは気配を殺し壁際へ寄った。
何となし、空気が重い。
(うう…帰りたい)
お盆を抱きしめ、声に出さず愚痴る。けれど、今日中に処理しておかなければならない仕事が残っており、早退するなどもっての外。自分の生真面目さが呪わしかった。
いつも通り出勤し、いつも通り時間だけはきっちりと執務室にやってきたランティスを迎えてから、いつも通り仕事をしてくれと懇願していた(大概、どこかに逃げ出そうとするのが常である)
朝から半泣きで十回目の「仕事してください!」と声をあげようとしたところで執務室を訪れたのが、アンリ・ファーファルその人であった。
中性的な笑みを常に湛えている彼にしては珍しく、今日はずっとしかめっ面だ。
これは良い話をしに来たわけじゃない…と、それだけでアーベルの気は重くなった。厄介事は御免だと言う気持ちが半分、そのせいでまた上司が仕事をしなくなるのではという不安が半分。本当に勘弁してほしい。
ため息をつきたいのも我慢して、今日のスケジュールを組み立て直す。残務処理をどうこなそうかと考えていると、更に気が滅入った。もう泣きたい。
と、かちゃり、陶器の音が鳴った。
目の前のティーカップを手に、アンリが紅茶へ口をつけた。僅か一口分で唇を湿らせると、すぐにソーサーへ戻す。亜麻色の髪が揺れ、暗い表情に影を落とした。
同じくランティスもカップを口へ運ぶ。こちらは遠慮なく中身を飲み欲すと、「さて」と口を開いた。
「用件は何だ?」
机に頬杖をつき、にんまりと笑みを浮かべた。濃紺の軍服を着崩し、気だるげに小首を傾げる様は、妙に色っぽい。無駄な色気を出すな、とアーベルは思う。決して口には出さないが。
革張りの来客用ソファへ腰かけたアンリは、たっぷり間を置き、やがて重い口を開く。
「マリシュカは、ルーヴァベルト様と決めたわ」
「そうか」
あっさりとランティスが頷いた。
マリシュカの名に、思わずアーベルが反応する。ぱっと顔を輝かせた補佐官に、アンリは片眉を持ち上げた。
美形揃いで有名なファーファル家の、五番目の娘マリシュカ・ファーファル。上の姉達が社交界から遠のくと同時に、頻繁に夜会へ姿を現すようになった美少女。その儚げな見た目と柔らかな物腰から、密かに「妖精姫」とあだ名されている。
同年代の男たちはこぞって彼女に夢中であり、何ならマリシュカがどこの夜会に現れるかとあの手この手で調べて回る。そうして何とかお近づきになろうと必死なのだ。
斯く言うアーベルもその一人である。
とは言え奥手な彼は、言葉を交わすどころか遠巻きに様子を伺うだけで十分満足しているだけなのだが。
打って変わって興味津々に耳を欹てた青年を余所に、アンリは渋面のままランティスへ視線を戻した。その表情に、灰青が愉快そうに細められる。
「不満か」
「ファーファルとして、文句ないわよ」
「じゃ、アンリとしては?」
友人の問いかけに、亜麻色の前髪をかきあげ、額を抑えた。「ったく」と舌打ちをすると、綺麗な顔を忌々しげに歪めた。
「…あの子の兄としては、正直、不満ありありよ」
「じゃ、何で引き合わせた」
「私に選択肢なんてないって、アンタもわかってんでしょ」
そっぽを向くと、親指の爪を噛む。綺麗に手入れされた指先が、がりりと悲鳴をあげた。
「私もあの子も、『ファーファル』なんだから」
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