第54話

 手にした紙面へ視線を滑らせ、くっと唇を尖らせる形で嘲笑を浮かべる。

 卓上の小箱を取り上げると、中からマッチを取り出した。横薬で赤い先端を擦ると、ジッとくぐもった音をさせ、火が灯る。それは、男の赤い髪に似ていた。

 小さな朱色のそれを、迷いなく紙へ寄せた。紙へ燃え映った炎は、白い紙を踊り食うように、黒く焼いてゆく。あっという間に脆い炭と消えたそれを、最後は床に落とし、無造作に靴底で踏み消した。


 丁度大荷物を抱えて執務室に戻ってきたアーベルは、上司の周りを舞う黒い塵に、途端顔色を変えた。



「な、ななななななな何やってんですかぁ!」



 抱えた書類を放り出し、一足飛びにランティスへ駆け寄る。青白い顔を更に白くさせた部下へ、鷹揚な笑みを向けた。



「おう、おかえり」


「殿下! こんなところでマッチ使うとか正気の沙汰じゃないですよ! 机の上に、どんだけ書類積んでると思ってるんですか!」


「ははっ」


「ははっじゃないです! これ、全部未決済でしょ? 燃えたらどうするんですか!」


「燃えたら決済せんでいいかなって」


「んなわけないでしょうが! 恐ろしい事言わんで下さい!」


「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」


「誰のせいだー!」



 眦を吊り上げ、綺麗な青の瞳を血走らせた青年は、仰け反って金切り声をあげた。血反吐を吐くような悲鳴も、目の前の男には塵とも響かなかったようで、相変わらず軽い笑みを浮かべたままだ。



 その場に崩れ落ちたアーベルは、床に突っ伏して悲鳴を上げた。「もう嫌だ!」



「こんな職場嫌だ! やる気にむらのある馬鹿上司のせいで、仕事が常に山積みで、その煽りが全部僕に来て! もう嫌だ! 心臓が止まる! 絶対近いうちに心臓が止まる!」


「おいおい大丈夫か? 侍医に見て貰った方がいいんじゃないか?」


「あんたが仕事すりゃ、解決する話なんですよぉ!」



 気遣うように優しく肩を叩いて来た上司を、見開いた両目で睨み付ける。可哀想に、涙が溢れて鼻水が垂れていた。

 ぐしゃりと顔を崩した青年は、ランティスの手を握ると、途端に泣き出した。



「何でなんですか、殿下、何でなんですか…。非常に優秀でいらっしゃるのに、何でまともに仕事してくれないんですか…しましょうよ、仕事…他部署で僕が怒られるんですよ…」


「疲れてるなぁ、アーベル」


「ちったぁ真面目に考えて下さいって!」



 大声で喚く部下の背中を優しく撫ぜてやりながら、「落ち着け、落ち着け」と朗らかに繰り返す。しばらくすると気持ちが落ち着いて来たのか、鼻を啜りつつ、アーベルは小さく頭を下げた。



「すみません」と呟く。



「ちょっと、気が高ぶってしまって…」


「気にするな。原因は俺だ」


「…自覚はおありなんですね」



 恨めしげに相手を見やる。が、ランティスはどこ吹く風。相変わらずの笑みを顔に貼付け、肩を竦めただけだった。

 ため息を一つついて立ち上がったアーベルは、自分がぶちまけた書類を集め始めた。



「とりあえず、仕事して下さい…殿下」


「あーうん、わかった」



 軽く返すと、自席に座り直す。マッチの入った小箱を引き出しへしまうと、卓上に積まれた書類を、まとめて引き寄せた。机の端っこに置かれた筆とインク瓶も脇に置く。

 頭の中が切り替わったのか、精悍な顔から表情がこそげ落ちた。無感情な灰青の双眸が、冷え冷えと手元の書類へ注がれると同時に、サインをし始めた。

 どれもこれも、王弟であるランティスの決済待ちであったものである。後はサインだけ、という状態で放置されていた紙の山だったが、今、流れる様に処理分類がなされている。

 やる気さえ出れば、あっという間だというのに―――。上司の集中力を切らさぬよう、声には出さず、アーベルは口を尖らせた。


 元来、優秀な人なのだ。気分のむらが酷いだけで。

 やる時は、部屋中に散乱した仕事を一日で片づけてしまう癖に、やる気が出なければいつまでも放置する。誰が何を言おうが、基本気にしない。


 唯一、兄君たちの言葉を覗いては、だが。



(陛下や皇太子殿下のお言葉しか聞き入れない方の補助を、僕如きがやるなんて無理な話なんだよなぁ)



 心の内で愚痴りつつ、集めた書類を分類ごとに仕分けまとめる。その内、急ぎの書類は、さりげなく上司の机へ紛れ込ませた。

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