第49話
ばあやの部屋に飛び込んできたミモザは、仕えるべき相手である少女の有り様に、絶句した。
かと思えば、間髪入れずに部屋を駆け出て行ってしまう。
怪我の手当を受けていたルーヴぁベルトが声をかける隙もなかった。それはマリーウェザーも同じである。
何だったのだと顔を見合わせた時、隣の厨房から、蒼白の料理長が駆けこんできた。
「今、ミモザがすごい形相で、肉叩きを持って走って行っちゃったんだけど!」
それを聞いたマリーウェザーが大慌てで追いかけ、肉叩きを手に庭をうろついていたミモザは、敢え無く連れ戻されたわけである。
料理長に肉叩きを返したメイドは、酷く恥ずかしそうに頭を下げた。
「御見苦しい姿を…申し訳ありませんでした。頭に血が上ってしまって…」
そう、頬を赤らめる。普段、表情が乏しい印象がある分、非常に新鮮な反応だった。
ただ、肉叩きで何叩くつもりであったのかは、聞かないでおいた。
幾分落ち着いたのか、その後はルーヴァベルトの着替えを用意し、汚れをお湯で濯いでくれ、怪我の手当もマリーウェザーと一緒になって甲斐甲斐しく世話をする。その頃にはいつも通り感情を消した顔であったが、爪の間まで土で汚れた傷だらけの足を、湯の張った盥で洗う時だけ、俯いて唇を噛んだ。
汚れを落とすのも怪我の手当も、自分でやろうとして、メイド二人にしこたま叱られたルーヴァベルトは、事が終わるまで大人しく座っていた。
マリーウェザーのベッドに座らされ手当を受ける間、向かいのベッドの上に、ばあやがちょこんと座っていた。相変わらずにこにこと、ふやふやと、笑っている。口がもごもご動いているが、何か食べているわけでもなさそうだ。
その姿を見ていると、徐々に気持ちが落ち着いてくる。そうして初めて、自分が高揚状態にあったのだと気付いた。それに伴い、全身の痛みが鈍く主張を始める。特に殴られた顔が熱いやら痛いやらで、気付けばずっと目を瞑っていたらしい。無心になっていなければ、痛みに腹が立ってしまうからだ。
怪我の状態から、流石にコルセットもドレスも免除される。代わりに、ゆったりとした締め付けのない黒のワンピースを着せられた。メイドのお仕着せとよく似た色合いのそれに、内心「毎日これがいい…」と思ったが、口には出さなかった。
「痛みますか?」
傷に触れぬよう、前髪をピンで留めてくれたミモザが、顔を覗き込む。綺麗な顔を顰め、一見怒っているように見えたが、心配してくれているのだろう。
白湯を持ってきてくれたマリーウェザーも、不快気に唇を尖らせた。
「女の子の顔に酷い事して」
差し出されたカップに口をつけ、一口、飲んだ。仄かに香る柑橘は、檸檬だろうか。切れた口内に沁みて、ぴりりと引きつる。
確かに顔を殴られたのは痛かった。部屋に戻る前に、あの男の股間を踏みつけてやればよかったなんて思う。
けれど、既に心の内は凪いでいた。
残るは、ただ、痛みと疲労。
(まぁ、殴られるのなんか、初めてじゃないしな)
顔どころか、全身のあちこちに、殴られた経験がある。中には痕が残るものも。
最近はそう多くはなくなったけれど、エーサンについて仕事を覚えていた頃は、酔っ払い相手にうまく立ち回れず、殴られ気絶することももあった。
だからと言って殴られることに慣れるわけではないが、痛い痛いと泣くこともない。
それを言えば、また面倒くさそうなので、ルーヴァベルトは大人しく白湯を啜った。
柔らかな温さは、じんわりと胃に落ちて、ゆっくりと眠気を誘う。次第に重くなっていく瞼に引きずられ、首がゆらゆらと船を漕ぎ始めた。
「どうぞ、横になって下さいませ」
綺麗な女の声がする。ミモザの声だ、とぼんやりした視界に彼女を探すが、眠気に世界が霞んで見つからない。
くすり…小さな笑いと共に、そっと支えられながら身体が横たえられた。ぴんと張られたシーツは少しだけ冷たく、日差しの匂いがした。
「お休みください」
胸辺りにまで薄い掛布団がかかるのがわかった。
その肌触りが心地よくて、眼をしぱしぱとさせながら、甘えた声が「うん」と零れた。
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