第31話

 さわり、と葉裏を駆け抜けた風が、頬を撫ぜる。


 新緑の香りが鼻腔を擽り、息を吐き出すと同時に身体の力を抜いた。肩から下へと全身の力が落ちてゆき、足の裏を伝わって地面へ広がっていく気がする。その感覚が、心地よい。



(もうすぐ、ミモザが起こしに来るな)



 たっぷりとした呼吸を繰り返しつつ、頭の隅で考えた。美人なメイドは、毎朝きっかり同じ時間に部屋にやってくると、毎日同じ台詞をルーヴァベルトにかけるのだ。「おはようございます。起床のお時間でございます」と。

 それまでにベッドの中に戻っておかなければ。

 そう思い、ルーヴァベルトはゆっくりと瞼を持ち上げた。

 







 

 王弟殿下の屋敷に来てから、そろそろ一か月になる。


 広すぎる部屋にも、動きにくいドレスにも、面倒な日々の日課に、同じ屋根の下に住む他人にも、随分慣れた。諦めた、と言った方が正しいかもしれない。


 この屋敷の主―――ランティスが王弟であり、厄介な連中から王太子ひいては王へと望まれている、という事実は、一旦聞かなかったことにすると決めた。知らぬ存ぜぬはまかり通らないだろうが、これ以上面倒な情報が耳に入らぬようにと、いわば自衛である。

 幸い、初日以降、ランティスから絡まれることもなかった。何やら忙しいようで、朝食だけは一緒にとるものの、夕食はいたりいなかったり、だ。ルーヴァベルトとしては全く構わない。ランティスのことを考えずに済む。


 何せルーヴァベルトは毎日忙しかった。


 毎日午前中にはレディ・ジュジュの座学の講義が、午後からは鬼教師であるジーニアスのが待っている。歩き方、お辞儀の仕方、ダンスに各種マナー…と、頭も身体も連日酷使され、脳みそが溶けて耳から出るのが先か、足の裏が擦り切れて骨が見えるのが先か…などと考えたのは一度二度ではない。


 当初、全ての日程をこなして部屋に戻ると、そのまま気絶するように寝てしまう日々が続いた。食欲は落ちなかったものの、精神的にはやせ細っていく感覚を覚えた。



 それが一週間も続いた頃、「これではいけない。病む!」と、こっそり早朝鍛錬を始めた。


 以前は朝晩と毎日熟していた日課であったが、流石に夜に部屋を抜け出すと、見つかった時の説明が面倒である。不服ではあるが、とりあえず朝だけ、メイドが起こしに来るまでの時間、部屋の窓から外に出て、人目を忍んで一人身体を動かした。


 自宅から持ってきた着古しのシャツとズボンで、裸足になって呼吸を整える。そこからゆっくりと、エーサンに習った動きで自分の身体を緩めてゆくのだ。まだ柔らかい朝の陽ざしが、肌から沁み込むのを感じる。足裏に触れる土の感触は、履き慣れぬ靴で傷んだ指に優しかった。


 エーサンの故郷での動きは、世界を身体に取り込むのだ、と教えられた。「自分は一部で、世界は自分なのだそうだ」と、のんびりした口調を思いだし、全身が緩むのがわかる。不精髭の先生に会えなくなりそう長くないが、懐かしさと恋しさを感じた。


 できればもう少し、こうして一人でいたい。


 けれど、時は刻一刻と迫っている。ミモザは時間に正確なのだ。



(バレて止めろって言われるのは勘弁だしな…)



 最後に一つ、長い息を吐いた。大きく伸びをし、辺りの様子を伺うと、走り出した。

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