第30話

 ジーニアスの報告に、ラン改めランティスは苦い笑みを浮かべた。



今夜は仕事が立て込み、随分遅い帰宅となった。それもこれも、連日仕事から逃げていたツケであるので、自業自得である。

仕事よりも婚約者を得ることを優先させたためだが、そこに関しては全く後悔はない。

ただ、煽りを食らった部下により、今日は王城に着いた途端、数人がかりで取り囲まれ、執務室に連れ込まれた。睡眠不足で充血した眼を爛々と、「積まれた書類を全て片づけるまでは帰れません」と迫る部下に常に見張られ、普段の倍は疲れた。


まぁ、自業自得なので仕方ないが。


とうに夕食の時間が過ぎてからの帰宅となったため、今、一人淋しく自室でサンドイッチをつまんでいる。その傍ら、ジーニアスが一日の報告を行っているというわけだ。


二日目から夕食を共にできなかったのは残念だな…なんて、独りごちる。愛しの婚約者殿は、今夜、何をどんな顔で食べたのだろう。



トマトとチーズを挟んだだけの簡単なサンドイッチを手に、にやにやと夢想している主へ、執事が酷薄な視線を投げた。



「宜しかったのですか?」



問いかけに答える代りに、ぱくりとパンへかぶりつく。生地と具材の間に塗られたバターが甘しょっぱくて好きだった。

口の動きに合わせて赤髪を揺らしながらサンドイッチを食べ終えると、指先をぺろりと舐めた。


「ま、仕方ないだろ」と、執事を見やった。



「隠し遂せるもんでもなし。そもそもレディ・ジュジュに口止めすらしてなかったのだからな」


「むしろ、ネフェルティア様の口から伝えて頂いた方が都合がいい…とお考えだったのでしょう」


「はっはっは」



にんまり口元を三日月に笑う。皿の上から次のサンドイッチを取ると、また一口、かぶりついた。



「まぁなぁ、はっきりと『お前の事なんか知りたくない』て言われちまったからなぁ。流石に俺の口から話すのは気が引けて」


「そんなことを気にされるとは思いませんでした」


「突っかかるなぁ、ジーニアス」



早々に二つ目のサンドイッチを平らげると、紅茶の入れられたカップへ手を伸ばす。注がれているのはミルクティー。ミルクと紅茶が半々のそれが、ランティスのお気に入りだった。

一気に飲み干したカップを置くと、二杯目をジーニアスが注いでくれる。

その眉間には、くっきりと皺が寄っていた。



「私がネフェルティア様にお叱りを受けました」



テノールが不機嫌そうに言った。



「一番大事なところを隠して連れてくるなんて、詐欺じゃないか…と」


「違いない!」


「笑い事じゃないです」



切れ長の金眼が、ぎろりとランティスを睨めつける。意に介した様子もなく、注がれた二杯目も一気に飲み干した。まろやかな甘みが舌に優しい。

旧知の間柄であるジュジュ・ネフェルティアが、ふくよかな身体をぷりぷりと揺らしながら怒る様は、容易に目に浮かぶ。

昔から自分は彼女を怒らせてばかりだ。幼い時分から、何度小言を食らわされたかわからない。それでも愛想を尽かさず、何だかんだと力になってくれるジュジュは、今も昔も大切な友人の一人だ。



―――きっと彼女は、ルーヴァベルトの味方になってくれる、はず。



三杯目のミルクティーを差し出すジーニアスを見やり、肩を竦めて見せた。



「次に会う時に謝っておく」


「それがよろしいかと」


「それで、ルーヴァベルトの方はどうだ」


「白目を剥いていらっしゃいました」



淡々と告げられた内容に、ランティスが吹き出す。慌ててナプキンで口元を拭くと「マジかよ?」と破顔した。



「いや、本当、面白い女だな!」


「おかげでその後はほとんど使い物になりませんでしたよ」



ランティスが王弟であることを知るや否や、ジーニアスの元に駆け込んできたルーヴァベルト。執事服の胸倉を掴む勢いで「今回の話は無かったことにして欲しい!」と直談判してきたらしい。

勿論、それをランティスが許すはずないと知っているジーニアスは、その場で否を突きつけた。



「一度お引き受けになった仕事を放り出すのですか」



冷たく言い放つと、悔しそうに下唇を噛んだという。その後、遅れて転がり込んできたジュジュに宥められ、すごすごと部屋に戻ったらしい。



予想通りの反応に、灰青の双眸をすうと細めた。



「…やっぱ、最初から身分明かさず正解だったな」



知れば逃げ出すことはわかっていた。彼女は地位も権力も興味が無い。望むのは、家族との安穏な生活だけだろう。


ルーヴァベルトにとって、「王弟」なんて存在、面倒くさい害悪でしかないことは、明白だ。



「ま、責任感ある奴だから、そこつついたら引き下がるとは思ってたけど、当分は逃げ出さないようによく見張っとけよ」


「本当に囲い込むおつもりですか」


「失礼だな。大切に大切にしまい込みたいだけだっての」



顔に浮かべたのは、蕩けそうに柔い笑み。甘い砂糖菓子のようなその表情は、整った彼の造形を綺麗に際立たせる。


男女問わず人を魅せるそれに、乳兄弟である執事はぞっとした様子で表情を歪めた。


幼い時分から傍に居るジーニアスでさえ、見たことのない顔。それをさせるルーヴァベルトが逃げ出せば、一体この男はどうなるのだろうか、と背中が寒くなった。

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