第7の鍵 ―風の慟哭―

本当のところ、彼女ルイは恐ろしかった。とてつもなく。


全身の血管という血管が……縮み上がりそうだったのだ。

うしなってしまうかもしれない” という恐怖に。



―――何を?


―――、だ。もちろん。



もしも、戻って来るのがではなかったら……?



苦痛だった。

そう想像することさえ。



味わったことがない。

こんな……

まるで、ひとりっきりで、地獄の入り口に置いてけぼりにされたような……

こんな、恐ろしさは。




―――なぜ?




決まってる。

大きすぎるからだ。失うものが。



ああ、いま、私が赤ん坊なら?

ふつうの家の……そして、アルビノでなければ!



そう……受け止めてもらえる。

自分のすべて……


生まれ落ちた瞬間に、多くの赤ん坊はそうなる。



けれども、プログラムのバグなのか……そうならないケースがある。

それが、自分だ。


受け入れてはもらえなかった。

は。


親から……自分をこの世に生み出したものから。



『おまえは俺の子じゃない』

『失敗作だった』

『俺の言うことを聴かないなら親でも子でもない』



存在の否定。

あるいは、の愛。



それらがもたらす、緊張と恐怖の連鎖れんさ

安心を得ることがないのだ。一瞬たりとも。



でも……



―――私は知ってしまった。

ただひとつだけ、そこから抜け出す方法を。

それは、まさに奇跡としか呼べない。ほとんど起き得ないことだから。



が起きたからこそ、彼女ルイにはわかる。

がどれほど “あり得ない” ことなのか。

どれほどの……天文的な確率なのか。



だからこそ、のだ。

それを喪うかもしれないという恐怖には。



―――あと何十分?

―――何分?



が迫るにつれ、彼女ルイの中で、恐ろしさのほうが大きくなっていく。





―――蒸発していく感じ。落ちていく感じ……


関節から……あちこちから。

何が抜けているの?

何? 血?

血が……収縮した血管から、血が抜け落ちていくみたい……






―――来た!





最初に見つけたのは、執事だった。


皆の間に、動揺が走った。




「……今朝の服を、お召しですな……」



これまでの例では、どこかで着替えて帰って来ることもあれば、そのままの時もあったらしい。

つまり、服装だけでは区別がつかないのだ。



「どんな顔?」


ルイは、たずねた。誰へともなく。



「さぁ……ここからは……」


部屋係が目を細める。


「なんとも気難しそうな……でも、はっきりとは言えませんわね」


それは “7日間のルイ” なのか、それとも “359日間のルイ” なのか……




そのとき、止まった。その人の足が。

館に向かうのをやめて、こちらに顔を向ける。


しかし、100メートルも向こうだ。

目の悪い彼女ルイには、わからない。その表情までは。




ほどなく、その人は、再び歩き始めた。


その足運びは……向かっているようだ。こちらに。

早まっている……足取り。

緑の芝を突っ切るように。




クソメルド……! 一体、誰の許しでそんなものを!」




彼女ルイは、自分の耳を疑った。



聞いたことがなかった。そんな声……低く、太い……脅すような声は。

……この6日間、一度たりとも。



しゃがかかった彼女ルイの視界に、ぼんやりと映る。

芝の葉のようなものが風に舞っている……


恐怖の膨らみが一気に押しのける。希望の残骸を。




退けろ、退けろ! 全部!! さぁ、今すぐにだ!」




―――ああ、7日間だけのルイ。




マリ・マンシーニを愛し、無性愛症に悩む、繊細なルイ。


あなたは……石頭クール・ド・ピエールになってしまったの……? 

そんなにも簡単に? あっけなく?

なぜ?

あなたの魂は……私が見たあなたは……本物のあなたではなかったの……?




あと数十歩で蹴散らされる……と、誰もが思った、そのときだった。




パラソルの下に座っていた彼女ルイが立ち上がった。




いつの間にか、彼女ルイは頭から


屋根裏部屋から運んだ、あの衣裳を。


そして、手にしていたバインダーを開くと、中から一枚の紙を取り出した。




「―――!!」




彼女ルイは叫び、その紙を、急いで挟み込んだ。

目の前のイーゼルシュヴァレカンヴァストワルの隙き間に。



そして、再び、叫んだ。



「……描いてみなさいよ! マリの絵を!! 何度でも!」



“当主ルイ” の目が、見開かれた。何かに撃たれたかのように。



三度みたび、声が響き渡る。

全員が息を呑み、あるいは息を殺す中で、ただひとり、ルイ―――彼女の声だけが。



「いくらでもモデルになってあげる!! マリになるわよ! 私が! なってあげるから!!」



茶色の縦縞の胸当て、生成きなりのレースに、紺のリボン。光を受けてところどころ金色に輝く、綾織あやおりのスカート。


それは、あの絵の衣裳を模したものだ。

マリ・マンシーニの肖像画の。


但し、そこには17世紀にはなかった “ジッパー” がついている。


そのジッパーが開いたまま……襟は大きく開き、彼女ルイの肩からずり落ちそうになり、白いブラウスがのぞいている。

右手には大きなつば広帽子。風にあおられて揺れる髪は、短い。

まるで男の子みたいだ。

そして……顔には



―――なんと頓珍漢トンチンカンな姿だろう!



“当主ルイ” は……ぽかんと口を開けている。

その目は、ただ、見ている。

目の前の “バロック調の衣裳に白い顔、黒眼鏡の女” を。




―――そのとき、ごうッと音がした。

一陣いちじんの風だ……これまでの風がまとまって、一気に襲来したかのような。




ひらり、と、舞い上がった。何かが。



……、だ。


イーゼルシュヴァレから離れた、紙。


そして、滑り落ちた。

“当主ルイ” の足元に。



“当主ルイ” は動かない。

ただ “ドレスのルイ” を見ている。



“ドレスのルイ” は……静かに左手を上げた。

そして、サングラスを外した。ゆっくりと。




長い―――だった。




その場の誰もが微動だにしなかった。


固まって、次に起こることを待っている。


誰もが……魂を封じ込めた人形のように。



動いているのは、木々の間からこぼれ、風と枝葉にあおられて芝生の上を転げまわる、太陽光の軌跡だけ。



突然、モリヒバリラルエット・ルルうたい始めた。



小さな鈴を鳴らすようなさえずり

それが、そこらじゅうに木霊こだましている。


まるでそれが合図であるかのように、“当主ルイ” が唇を開いた。



声は発さず……言葉を探している。



やがて、膝が崩れた。

いや……手を伸ばしたのだ。

自分の足元へ。足元の……紙へ。




「マリ……」




“当主ルイ” は、紙を両手で持ち、じっと見ている。



「いや、違う……」



モリヒバリの声が、高まった。



不意に “当主ルイ” が、顔を上げた。


そのまま大きく上体を反らし、天空を仰いだ。




中天の太陽は、まばゆい。

その強い光が、両眼を射る。

それでも彼は、目を閉じなかった。




やがて、彼のあごが動いた。

大きく……おかに上がった魚みたいに……

いや、溶岩を吐き出すかのように? 世界中の空気を吸い込むかのように?




声は、聞こえない。

その喉からは、何の音も上がらない。



いつの間にか、痙攣けいれんが起きている。

彼の腹のあたりで。


横隔膜おうかくまくが大きく波打ち、腹の底から何かを噴き出そうとしている。

号泣……?


だが、涙もなく、声もない。


口から噴き出るものは何もない。


さながら……無音の慟哭どうこくだ。



突如とつじょ、“当主ルイ” が、上体を戻した。



いま一度……手元の紙を見つめる。



まだ収まらない息だけが、大きくその上半身を揺さぶっている。





―――何秒? 何分? それとも……





“ドレスのルイ” は、まぶたまたたかせている。



パラソルなど、なんの役にも立たない。


射られている。あぶられている。

庭のあちこちで反射する太陽の光に、彼女ルイの網膜が。


自然の攻撃に、容赦などない。




もう、何も見えない。

涙だけだ。自分を守ろうとしてくれているのは……




彼女ルイは、はっと……顎を上げた。ほんの少し。




スカートに、気配を感じた。

何かの……何か、温かいものの気配を。




「…………!?」




突然だった。左腕が掴まれたのは。


指先から……サングラスが取り上げられる。




「なんて格好してるんだ……」




―――叱責しっせき




彼女ルイは一瞬、身構えて……

そして、震わせた。

頬を。


両頬に、触れている……サングラスの


そうだ。サングラスの……


指が……なぞっている。


から頬へ、そして頬から目もと……


大きくて、長い指。

その指に、拭われる。

涙が……伝ったあとまで。





「僕が描きたいのはね……その白いシャツの、きみなんだよ」




ルイは、笑った。

どちらのルイが? どっちでもいい。




「……でもその前に、確認させて。を」




―――戻ったのだ、ついに。

7日間というはこから出て、366日の男へと。




       <了>

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