熱 ―見当違い―
この館の使用人の多くは、先代から仕えている。
中でもいちばんの古株は、執事だろう。
彼は寡黙だけれど、単なる無口というのとは少し違う。
表情の変化が極めて少ないだけ。
館の日常を無事に切り回すという役割にひたすら徹している、言わば職人みたいな男だ。
リスクを知らせる場合―――まさに先刻のように―――を除き、
『彼』と僕の身代わりごっこにも、文句ひとつ
だが……
「旦那様……ひょっとして、このままずっと、ルイさんに付き添われるおつもりですか?」
その声に、
その手のトレーには、プレートや飲み物が載っている。
カスクルートとは
今夜、
僕の一歩後ろを歩いていた彼が発した言葉……
僕はそこから、
“悪いことは言わない。おやめなさい” とでもいうような……
僕は、それには答えず、歩く速度を落として彼の横に並んだ。
左手にルイのバインダー。
右手を伸ばし、クロシェをずらす。
サンドウィッチの一片をつまみ上げ、口に放り込む。
口をもぐもぐさせながら
と、彼はやれやれ、という表情になり、それ以上は何も言わなかった。
―――付き添う?
そんな立派なものじゃない。
病気の人、まして女性に対して僕ができることなんて、たかが知れている。
もし、やれることがあるとすれば、
執事の気遣いは、解らなくもない。
だが、僕が今からしようとしていることは、付き添い、というのとは違う。
これは “見張り” だ。
僕の中で、声がするのだ。さっきから。
例の “略奪者” じゃない。僕を突然乗っ取ったヤツでは。
もっと別の次元の……何かだ。
―――目を離すな。彼女から。
彼女に起きる、どんな変化も見逃すな、と。
『金の間』に入った僕たちは、病人を起こさないように動いた。
執事は細心の注意を払って静かにトレーを置き、僕は僕で音を立てないように
もちろん、部屋係が彼女の体を拭いたり着替えさせたりする時には、部屋を出る。
“
やがて、ルイと僕の二人だけになった。
部屋の中に聴こえるのは、眠りの中で体の異変と闘う彼女の寝息だけ。
僕は自分の息を押し殺しつつ、そっと、バインダーを自分の膝の上で開いた。
ルイが『後で渡すから読んで』と言っていた “ネックレス” の研究資料と、さっき僕がそこに挟んだ紙―――土曜日に描きかけていた、あのクロッキー―――を、バインダーの中から取り出した。
それらは、これから僕がここでルイを “見張り続ける” ために必要な、“
僕は……ここでクロッキーに手を加え、彼女の資料に目を通すつもりだったのだ。
考える時間が欲しかった。
ここで彼女の熱を “見張って” いる間に。
なぜ、彼女はここに?
どうして “マリ” の絵を見たいのか?
どんな理由が? 泣いて頼むほどの?
そして……僕だ。僕自身の……
なんで、僕の中に変化が起きたのか?
僕を根底から
彼女の
自分で自分を持て余すような、この混乱が。
―――そう思っていた。この時までは。
しかし、僕はすぐに気付かされる羽目になった。
事態は、そんなに悠長に構えていられるものではなかったのだ。
彼女を襲った原因不明の高熱は、実にしつこかった。
少し下がったかと思うと、すぐにぶり返す。
その繰り返しだった。
日曜の夜からまる一昼夜経っても。
やがて僕は、思い知ることになる。
自分の “見当違い” を。
―――駄目だ。
解決どころか!
ひどくなる……ここに居れば居るほど。
僕の混乱は、むしろ、より大きな渦になり、どんどん手がつけられなくなって行く。
そう気付いた時には、遅かった。
僕は、ここから……逃げ出せない。一歩も。
彼女の……ルイの
熱が上がると、ルイは
ひどく苦しそうに。
その呻き声に、僕はいてもたってもいられない。
熱が少し下がると、ルイはうわごとを
その言葉は、フランス語じゃない。
なのに、答えたくなる。
それが何を意味するのか。
知る方法など、ないのに。
僕は、次第に
ルイに対して、じゃない。
一進一退の、その状況に対して、だ。
いや……葛藤に翻弄される自分自身に。
―――いったい、僕は何をやってるんだ?
なぜ、さっさと呼ばない? 救急車を!
苛立った僕が僕の中で叫ぶたびに、何かが僕に返して来るのだ。
“そうしてはならない理由” を。
“彼女が、それを望んでいないから”
熱は、月曜の夕方に一旦下がったかに見えたが、火曜の朝には再び38度を超した。
そしてその日の午後には、さらに上がった。
もう、とっくに過ぎている。
ドクトゥルの忠告の期限は。
「―――ねえ、ルイ。やっぱり病院に行こう!? 救急車が嫌なら、僕が連れて行ってあげるから……」
とうとう、僕は耐えられなくなった。
ついに、僕は口にした。その言葉を。
何かを……僕の中で引き止める何かを振り切って、
だがそんな僕の勇気を、ルイはいとも簡単にへし折った。
「お願い……やめて……」
きつく目を閉じ、
その言葉が、その表情が……僕を葛藤の渦に放り込む。
あっという間に僕を
なぜ? どうして拒絶するんだ?
救おうと……助けようとしているのに?
理由を尋ねても、彼女は答えない。
はるばるやって来たルイ。
極東の地から……
何かに巻き込まれて、すべて失くしたルイ。
帰る資金も、身分を証明するものも、安心して眠れる場所も。
そんな状態に
自分を手当てすることより……?
また、ルイの苦しみが始まった。
僕は、ハッと思い至った。
ひょっとして……“マリ” の絵を見る機会を優先しているのか!?
いま病院に行ってしまったら、見れなくなってしまうと?
―――バカな!
僕は、その考えを
でも、その瞬間、逆にその不安が膨らんだ。
圧し潰されそうになった。
もしもそうだったら……絵を見せようとしない僕が元凶じゃないか!?
僕は、ベッドに駆け寄った。
転がるように。
「ルイ! ねぇ、ルイ! きみが気にしているのが、マリ・マンシーニの絵を見れなくなるかもっていうことだったら……見せてあげるよ! すぐにでも! だから……」
「ち……違う」
熱に浮かされ、それでもルイは、弱々しく僕を
「……病院は……危ないからなの」
そう言ったきり、ルイは目を閉じ、動かなくなった。
まるで、そのひとことを言うために、体力を使い果たしてしまったかのように。
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