熱 ―見当違い―


この館の使用人の多くは、先代から仕えている。

中でもいちばんの古株は、執事だろう。


彼は寡黙だけれど、単なる無口というのとは少し違う。

表情の変化が極めて少ないだけ。

館の日常を無事に切り回すという役割にひたすら徹している、言わば職人みたいな男だ。


リスクを知らせる場合―――まさに先刻のように―――を除き、あるじに意見するようなことは滅多にない。


『彼』と僕のにも、文句ひとつていしたことがない。


だが……


「旦那様……ひょっとして、このままずっと、ルイさんに付き添われるおつもりですか?」


執事かれにしては珍しい。

その声に、とがめるような調子がある。


その手のトレーには、プレートや飲み物が載っている。

カスクルートとはおもむきの異なるサンドウィッチのプレートだ。

今夜、夕食ディネに出される予定だったロティとサラダに、シェフが一工夫ひとくふう加えて作り直してくれたものだ。


僕の一歩後ろを歩いていた彼が発した言葉……

僕はそこから、懸念けねんを受け取った。


“悪いことは言わない。おやめなさい” とでもいうような……



僕は、それには答えず、歩く速度を落として彼の横に並んだ。

左手にルイのバインダー。

右手を伸ばし、クロシェをずらす。

サンドウィッチの一片をつまみ上げ、口に放り込む。


口をもぐもぐさせながら執事かれの目を見る。

と、彼は、という表情になり、それ以上は何も言わなかった。




―――付き添う?



そんな立派なものじゃない。


病気の人、まして女性に対して僕ができることなんて、たかが知れている。

もし、やれることがあるとすれば、氷嚢ひょうのうを換え、時々水を飲ませるぐらいだろう。



執事の気遣いは、解らなくもない。

だが、僕が今からしようとしていることは、付き添い、というのとは違う。



これは “見張り” だ。

僕の中で、声がするのだ。さっきから。

例の “略奪者” じゃない。僕を突然乗っ取ったヤツでは。

もっと別の次元の……だ。



―――目を離すな。彼女から。

彼女に起きる、どんな変化も見逃すな、と。



『金の間』に入った僕たちは、病人を起こさないように動いた。


執事は細心の注意を払って静かにトレーを置き、僕は僕で音を立てないようにカウチキャナペに陣取る。


もちろん、部屋係が彼女の体を拭いたり着替えさせたりする時には、部屋を出る。

兵糧ひょうろう”は、頼めばいくらでも運んで来てもらえる。



やがて、ルイと僕の二人だけになった。


部屋の中に聴こえるのは、眠りの中で体の異変と闘う彼女の寝息だけ。


僕は自分の息を押し殺しつつ、そっと、バインダーを自分の膝の上で開いた。


ルイが『後で渡すから読んで』と言っていた “ネックレス” の研究資料と、さっき僕がそこに挟んだ紙―――土曜日に描きかけていた、あのクロッキー―――を、バインダーの中から取り出した。

それらは、これから僕がここでルイを “見張り続ける” ために必要な、“玩具ジュエ”みたいなものだ。


僕は……ここでクロッキーに手を加え、彼女の資料に目を通すつもりだったのだ。




考える時間が欲しかった。

ここで彼女の熱を “見張って” いる間に。



なぜ、彼女はここに?

どうして “マリ” の絵を見たいのか? 

どんな理由が? 泣いて頼むほどの?

そして……僕だ。僕自身の……

なんで、僕の中に変化が起きたのか?

僕を根底からくつがえすような……



彼女のかたわらにいれば、少しはこの混乱がほどけるはず。

自分で自分を持て余すような、この混乱が。



―――そう思っていた。は。



しかし、僕はすぐに気付かされる羽目になった。

事態は、そんなに悠長に構えていられるものではなかったのだ。



彼女を襲った原因不明の高熱は、実にしつこかった。

少し下がったかと思うと、すぐにぶり返す。

その繰り返しだった。

日曜の夜から一昼夜経っても。





やがて僕は、思い知ることになる。

自分の “見当違い” を。





―――駄目だ。

解決どころか!

ひどくなる……ここに居れば居るほど。

僕の混乱は、むしろ、より大きな渦になり、どんどん手がつけられなくなって行く。



そう気付いた時には、遅かった。



僕は、ここから……逃げ出せない。一歩も。

彼女の……ルイのそばから、もう、離れられない。



熱が上がると、ルイはうめく。

ひどく苦しそうに。


その呻き声に、僕はいてもたってもいられない。


熱が少し下がると、ルイはうわごとをつぶやく。

その言葉は、フランス語じゃない。

なのに、答えたくなる。


それが何を意味するのか。

知る方法など、ないのに。




僕は、次第に苛々いらいらし始めた。

ルイに対して、じゃない。

一進一退の、その状況に対して、だ。



いや……葛藤に翻弄される自分自身に。



―――いったい、僕は何をやってるんだ?

なぜ、さっさと呼ばない? 救急車を!



苛立った僕が僕の中で叫ぶたびに、何かが僕に返して来るのだ。

“そうしてはならない理由” を。







熱は、月曜の夕方に一旦下がったかに見えたが、火曜の朝には再び38度を超した。

そしてその日の午後には、さらに上がった。


もう、とっくに過ぎている。

ドクトゥルの忠告の期限は。




「―――ねえ、ルイ。やっぱり病院に行こう!? 救急車が嫌なら、僕が連れて行ってあげるから……」



とうとう、僕は耐えられなくなった。


ついに、僕は口にした。その言葉を。

何かを……僕の中で引き止めるを振り切って、


だがそんな僕の勇気を、ルイはいとも簡単に



「お願い……やめて……」



きつく目を閉じ、かたくなに首を横に振る。

その言葉が、その表情が……僕を葛藤の渦に放り込む。

あっという間に僕をくじけさせる。



なぜ? どうして拒絶するんだ?

救おうと……助けようとしているのに?



理由を尋ねても、彼女は答えない。



はるばるやって来たルイ。

極東の地から……

何かに巻き込まれて、すべて失くしたルイ。

帰る資金も、身分を証明するものも、安心して眠れる場所も。


そんな状態におちいっても、何を心配している?

自分を手当てすることより……?



また、ルイの苦しみが始まった。


僕は、ハッと思い至った。


ひょっとして……“マリ” の絵を見る機会を優先しているのか!?

いま病院に行ってしまったら、見れなくなってしまうと?



―――バカな!



僕は、その考えを退しりぞけようとした。

でも、その瞬間、逆にその不安が膨らんだ。

圧し潰されそうになった。

もしもそうだったら……絵を見せようとしない僕が元凶じゃないか!?



僕は、ベッドに駆け寄った。

転がるように。



「ルイ! ねぇ、ルイ! きみが気にしているのが、マリ・マンシーニの絵を見れなくなるかもっていうことだったら……見せてあげるよ! すぐにでも! だから……」



「ち……違う」



熱に浮かされ、それでもルイは、弱々しく僕をさえぎった。


「……病院は……からなの」


そう言ったきり、ルイは目を閉じ、動かなくなった。

まるで、そのひとことを言うために、体力を使い果たしてしまったかのように。

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