サイドストーリー

風の吹く場所

 ある少女と、後に風と呼ばれる事になる少年とのお話。 



     *****



『洞窟に入っちゃ駄目ですよ』 



 久しぶりの帰郷。 

 家族への挨拶もそこそこに、周囲に鬱蒼と木々が生い茂る杜(もり)に隠れるように存在する洞窟前にやって来た。 

 洞窟の入口には、巨大な岩があり、一見するとそこが洞窟である事すら分からないようになっている。 

 子供の頃は、怖くて洞窟のある杜の近くにすら近寄れない程の場所であった。 

 今では、なんという事のない場所でしかないのであるが……。 



     * 



『洞窟に入っちゃ駄目ですよ』 


 そう大人達に言われていたのに、今、瑠璃(るり)と克(まさる)は洞窟の前に立っていた。 

 二人は、克が八歳の誕生に買ってもらったばかりの真新しいボールを追いかけて来たのだった。一緒に遊んでいた他の友人達は、降り出した雨に、我先にと帰っていった。 

 ボールは意思を持った生き物であるかのように、瑠璃達がつかまえそうになると、変なバウンドをして手をかわしてしまう。 

 そうこうしているうちに、二人は思ってもみなかった場所に辿り着いていた。洞窟前である。 

「あっ!!」 

 何時もは大きな岩で閉ざされているそこが、その日は何故か子供一人が通れるくらいの隙間が開いていた。その隙間を縫って、有り得ないバウンドを繰り返し、ボールは入って行ってしまったのだった。 

 瑠璃はボールを追い掛け勢いよく駆けて行き、洞窟の前で立ち止まった。 

 瑠璃の目の前に広がる洞窟が、不気味にその口を開けていた。本来、閉じられている筈の洞窟が。 


『洞窟に入っちゃ駄目ですよ』 


 大人達の言葉が不意に二人の耳に蘇る。 

「る、るりちゃん、もういいよぉ。ぼ、ぼく、もうボールなんかいらないよぉ」 

 明らかにその顔に未練の色を残しつつも、洞窟に近付く事が出来ないでいる克が、大声で瑠璃を止めようとした。 

 しかし、ずっと前から克が欲しがっていた本物のサッカーの試合で用いるボールである事を、瑠璃は知っていた。 

「る、瑠璃ちゃーん!!」 

 ニッコリ笑うと克の制止を振り切り、洞窟の中へと瑠璃は歩みを進めた。 


 ガガガーッ!! 


「瑠璃ちゃんっ!!」 

 瑠璃の両足が、洞窟の内側に入るや否や、口を開けていた筈の洞窟の岩が、素早く大きな音を立てて閉まってしまった。人間の力だけでは動かせない程の巨大な岩が、である。 

 克は、先程までの怖さも忘れ、洞窟に駈け寄ると、岩をドンドンと叩きながら、瑠璃の名を呼び、泣き叫ぶ事しか出来なかった。 


 と、その頃、洞窟の中では、瑠璃が呆然と立ち尽くしていた。 

 洞窟の外で大騒ぎしている筈の克の声すら聞こえない、全くの静寂の中にいた。 

 ただ瑠璃の呼吸する音と、未だにボールの跳ねる音だけが、不気味に響くだけだった。 

 不思議と怖いとは思わなかった。 

 ただ、帰った時に、大人達に怒られるのではないかという事しか、頭に浮かばなかった。 

 暗闇の中、瑠璃はゆっくりと音のする方へと歩いて行く。ジャリ、ジャリ、という瑠璃の歩く音が洞窟内に響き渡る。 

 暗闇に慣れてきた目に、ぼんやりと白い影が音にあわせて上下しているのが見えてきた。 

 ボールだ。 

 瑠璃は同じ場所で何度も上下にバウンドを続けるボールをつかもうと、更に足を踏み出した。 

「あ……」 

 ボールをつかまえようと大きく広げた腕は、虚しく空を切った。 

 もう一度ボールを掴もうと、じーっとボールを見詰める。 

 そして、彼女は気が付いたのだ。 

 誰かがいるという事に。 

「ここに入っちゃいけないんだよ」 

 無意識に瑠璃はそう言い、両腰に手を当てた。 

 みるみる内に、人影は光を帯びて、はっきりとその姿をとらえる事が出来るようになった。 

 それと時を同じくして、ボールも発光し始める。しかも跳ねる速度が一気に上がった。 

「もー! 怒られたって、知らないんだからね!」 

 尚も腰に手を当てて口を尖らせる瑠璃に、姿を現した人物は、彼女に対して、不思議そうな視線を向けただけだった。 

 年は、一見すると瑠璃達よりも更に二歳程下に見える少年だった。しかしその目は全ての物を見通すかの如く老齢な色を宿していた。 


「もー、いい加減、大人しくしなさいってばぁ!」 

 目の前でバウンドを繰り返すボールに、何度目かの挑戦を挑んだ後、息を切らせて彼女は言った。 

 少年は、そんな彼女を不思議そうに見詰めていた。 

「あんたも見ていないで少しは手伝ってくれればいいのに」 

 少年のそんな様子に気が付いて、瑠璃はボソリと呟いた。 

「んもー、怒った! 絶対につかまえてやる!」 

 服の袖を捲り上げ、ボールにジャンプして飛び付いた。 

 ……筈であったが、結果は予想通り、瑠璃の手に掠(かす)った後からかうようにテンテンと軽やかな音と共に擦り抜けて行った。 

 そんなボールの姿を瑠璃は顔を上げチラリと見ると、そのまま地面に突っ伏した。 

 と、瑠璃は気配を感じ、ふと顔を上げた。 

 先程から人形のように全く動こうとしなかった少年が立ち上がり、瑠璃の側で彼女を不思議そうに覗き込んでいた。 

 少年は、瑠璃とボールとを交互に見ると、その場にしゃがみ込んだ。 

 すると瑠璃は自分の顔面に向かってボールが拡大されて行くのに気が付いた。コロコロと自分に向かって転がって来たのだ。 

「はりゃあ?」 

 ボールは瑠璃の額にぶつかって止まった。 

 身体を起こしペタリと座ると、恐る恐るボールに触れてみた。 

「えーっとぉ……」 

 触れてみても、特に逃げ出す様子をみせないボールに、そっと両手で掬い上げた。 

「良かったぁ!」 

 瑠璃は手にしたボールを両腕で抱え、頬擦りをした。 


『洞窟に入っちゃ駄目ですよ』 


「あ! 急いで帰らなきゃ!」 

 不意に大人達の言葉が彼女の耳に蘇った。 

 慌てて立ち上がると、しっかりと両手でボールを抱いたまま元来た場所へと帰ろうとした。 

 しかし数歩進んだ後、はたと立ち止まると、今だぼんやりと佇(たたず)んでいる少年に手を差し出した。 

「ほら、行くよ!」 

 けれど差し伸べられた彼女の手を、少年は不思議そうに見るだけだった。 

「もー! ほら、立って!」 

 無理矢理少年の手を掴むと、引っ張って立たせる。少年は、抵抗するでもなく、素直に引かれるまま彼女について歩き出した。 


「あ、私ね、瑠璃って言うの。榊田 瑠璃(さかきだ るり)。あんたは何て名前?」 

 思ったより洞窟の奥に来てしまっていたのか、歩いても歩いても、二人の行く先に出口が見えて来なかった。 

 瑠璃自身、その事に気付いていたのか否か。ボールを取り戻した事に安堵した為か、のんびりと歩いている。 

 大人達に怒られる心配は、この際忘れられていた。新しく出来た年少の友達と仲良くなる事の方に、意識が向かっていただけかもしれない。 

「もー、名前は? あんた、名前無いの?」 

 立ち止まり、彼女につられるように立ち止まった少年が、相変わらず不思議そうに彼女を見ている。 

「名前、無いの?」 

 まさか、彼女自身無いと思っての質問ではなかった。 

 しかし尋ねられた少年は瑠璃の質問に答えるのでもなく、繋いだままの手にぎゅっと力を入れただけだった。 

 瑠璃にはそんな少年の態度が、本当に彼には名前が無いかのように思えたのだった。 

「だったらねえ、私が名前をつけてあげる」 

 再び歩き出した瑠璃は、ぶらぶらと握ったその手を上下させながら言った。 

「えーっとねえ……」 

 不意に意味も無く『いつき』という言葉が瑠璃の脳裏に過(よ)ぎった。 

「いつ……き?」 

 立ち止まり、問い返すように口にする。 

 その言葉を聞いた少年は、気に入ったとでも言うように、握った瑠璃の手に再び力を込めた。 

「ん? 気に入ったの? じゃあ、イツキね」 

 少年に向かってニッコリ笑い掛けると再び二人は歩き出した。 

 そして、瑠璃の意識は何故かそこでプッツリと途切れたのだった。 


 次に気が付いた時には、瑠璃は自宅の自分の部屋のベッドにいた。 

 あの後、克が呼んで来た大人達の手によって、洞窟の中で倒れていたところを発見されたらしい。 

 大人達には散々怒られた。 

 彼等の説教が終わる頃、イツキの事を尋ねてみたが、誰も彼を見た者はいなかった。 

 その数日後、本家に呼び出され、瑠璃は自身が知らぬ間に風と風師としての契約を交わしていた事を知らされるのだが、当時の彼女には分かろう筈もなかった。 



     * 



「やっぱり、ここか」 

 懐かしい声に振り向くと、そこには克が立っていた。 

 昔の泣き虫な面影等全くうかがえないその大人になった容貌に、瑠璃は一人微笑した。 

 本家の跡継ぎになる事が決まっている彼は、それまでの猶予期間として、海外を渡り歩いていると聞く。 

 そんな経験が彼を逞しくしたのだろうか、とも瑠璃は思った。 

「久し振り。元気そうじゃない」 

 言いながら、今までぼんやりと眺めていた洞窟の入口――岩に塞がれ木々に覆われている為、一見してそうとは分からない――から身を翻(ひるがえ)すと、彼に向き直った。 

「まあな。そう言うお前の方こそ元気そうじゃないか」 

 と、克はニヤリと笑った。 

「ところで、樹(いつき)はどうしてる?」 

 元来た道を戻りながら、チラリと洞窟を振り返り克が問うた。 

「相変わらず。いるのかいないのか、よく分からないんだよね」 

 本当に困った子なんだ――そう言う瑠璃の表情が、酷く優しくなるのを彼女自身は知っているのだろうか? 

 克は苦笑すると、彼女の手を握った。 

「克?」 

 驚いたように名を呼ぶ彼女に答えず、克は一人新たに決意する。 

 何時か必ず、彼女を風から開放してやらねば、と。 

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