第7章 そして何時もの日常

第39話

「あれ? 片瀬君が腕時計しているなんて、珍しいね。いいじゃない。それ、どうしたの?」 

 前期試験、最後のテストが終わったばかりの大教室で帰り支度をしていると、通り掛かった岩久間さんが声を掛けて来た。袖を軽く捲っていた俺の手首を目敏く見たようだ。 

 あの一件から半月程が経ち、すっかり俺達は何時もの日常を取り戻していた。 

 皆、忘れてはいない筈だが、何故かあの保絡みの噂を耳にする事は無くなっていた。 

 去る者日々に疎し、ってやつかもしれない。 

 いや、それ以前に、タイミング良く始まった前期試験にそれどころでは無かっただけかもしれないが。 

 殆ど何の準備も出来ないまま挑んだ俺に至っては、残念な結果になるのは今から目に見えているのが泣けてくる。 

「あ、岩久間さん、ちょうど良かった」 

 俺が岩久間さんの返事に困っていると、彼女の後ろから見た事の無い女子が声を掛けてきた。 

 眼鏡を掛けた、ロングのストレートヘア。その顔にはうっすらとそばかすが見える。地味と言うのではなく、落ち着いた良家のお嬢様とでも言えば分かり易いかもしれない。 

「この間、岩久間さんが探していた本なんだけどね、隣町の本屋なら在庫がまだあるって。一応、取り置き、頼んでおいたけど、良かったかな?」 

 そう言う彼女の姿を思わず失礼だとは思ったが、まじまじと見てしまった。 

 誰だっけなぁ。 

「え? 本当に! 助かる! 何処の本屋さん?」 

「あ、良かったら今から一緒に行かない? 私も欲しい本があるし」 

 彼女ははにかんだように微笑んだ。 

 その時、光に反射して、彼女の胸元で、ペンダントが光った。 

 え? あれって……。 

「本当? やだ、凄く助かる。でも、嶋野さん、迷惑じゃないの?」 

 ……今、何て言った? 

「ううん、全然。今から行ってみる?」 

「いいの?」 

「勿論!」 

 和気藹々とした体で、二人は俺の存在を忘れたかのように、そのまま後ろの扉から出て行ってしまった。 

 嶋野……さん? 

 呆然としていた俺は、ふと我に返る。 

 いかん、いかん。こんな事をしている場合じゃなかった。 

 俺は急いで残った荷物を鞄に詰め込み教室を飛び出した。 

 急いでいた為か、俺は建物を出ようとした所で、障害物にぶち当たった。 

「何だよ、こんな所で立ち止まって。お前等デカいんだから、少しは遠慮しろよ。邪魔だ、邪魔!」 

 しかし、言われた当の本人達は、我関せずの体で、前方を――校門へと続く道を見ている。 

「本当に変わったよなぁ」 

 感心した様子で近藤が呟いた。 

「俺は、今の方がタイプだな。あのお嬢な眼鏡っ子は、ツボだ」 

 涎を垂らさんばかりの勢いで及川が言った。しかも、元からタレ目な目尻を更に下げている。 

 ……大(まさる)さん、お前ってば、おっぱい星人だっただけでなく、眼鏡萌え星人でもあったのな。 

 つか、守備範囲広えよ! 

「……って、誰の事だ?」 

 背後から二人の肩に手を掛けて顔を覗かせた。 

「ん? 嶋野さんだよ、嶋野さん! ほら、イケイケどんどんな彼女。今は憑物が落ちたみたいに、すっかり大人しくなったみたいだけどな」 

 及川の視線の先を追ってみると、そこには、にこやかに話しながら帰って行く岩久間さんとさっきの嶋野さんらしき人物の後ろ姿があった。 

「嶋野さんって、ひょっとして、今、岩久間さんと一緒にいる?」 

 半信半疑で尋ねると、二人はそうだ、と答えた。 

 分かっていた事とはいえ、まさかあそこまで変わっていようとは……。 

 柊さんから後日伝え聞いた話でも、確かに嶋野さんは変わったとの事だった。 

 あの日、自身に憑いていたあらゆる霊体を開放した彼女は、その時の事を一切覚えていなかったらしい。しかも、その時の事だけにとどまらず、魔が彼女を操ったと思われる事柄に関しても、その全てをすっかり忘れてしまっていたのだと言う。 

 部屋に貼られていた保の膨大な量の写真も、誰に言われたわけでもないのに、彼女自ら一枚残らず剥してアルバムに整理したのだそうだ。 

 あの先程目にした偽石のペンダントトップも、後日、彼女の部屋のポストに返したと柊さんから聞かされていた。 

 それにしても、あの厚化粧の下から可愛らしいそばかすが出て来ようとは……。 

 俺も暫く、二人の様子を見送った。 

「あれ? カタやん、その腕時計どうしたんだぁ?」 

 及川の肩に掛かっていた俺の腕を見て近藤が聞いて来た。 

「ん? このブランドって、この間、線路に落ちた一年の女の子に貰った、って言っていたヤツだよな?」 

 こいつ等には前にその事を話していたしな。二人に話しても、問題ないか……。 

「実はさ……」 

 一度は吉元さんに無理矢理返した腕時計だったが、後日、わざわざ大学にまで来た彼女の両親に、是非お礼をさせてくれ、と迫られたのだと言った。それが駄目なら、せめて何らかの形で感謝の気持ちを世間の方にも伝えたい、と。どうやら警察のみならずあの鉄道会社までもが俺を表彰したがっていたらしい。 

 俺は時計を受け取る代わりに、表彰だけは勘弁してくれるよう先方に伝えて欲しいと頼み込み、一度返した腕時計を渋々受け取ったのだった。 

 後で何故、腕時計をくれたのかこっそり吉元さんに尋ねた所、俺が何時も腕時計をしていなかったから、と答えた。まあ、こいつぁ、余談だが。 

「カタやんらしいなぁ」 

「まあ、いいんじゃねぇの」 

 聞き終わった二人は、ニヤリと笑い、俺の背中をバシバシと叩いた。 

 い、いてえっての! 何よ、イジメ? 

「じゃあ、わりいけど、俺、行くわ」 

 そう言って、二人の間を擦り抜けようとすると、二人に肩を両サイドからそれぞれ掴まれた。 

「ちょっと、待て。俺達、お前を迎えに来てたんだ」 

「何?」 

「今夜は君を帰さない」 

 そう言って、及川が背後から俺の腰に腕を回した。 

 って、嫌よ! 私、そっちの気なんて無くってよ! 

「……投げ飛ばしていい?」 

 ボソリと呟くと、及川はパッと手を放した。 

「冗談じゃねえか、冗談! 片瀬君の意地悪ぅ」 

 腰をくねらせ、肘を曲げ両手の小指を立ててイヤイヤをする。 

 ……及川君ったら、キャラ変わってるから。 

「これから俺んちで、手に入れたゲームを徹夜でやるんだよぅ」 

 と、今日、発売されたばかりの大人気の入手困難なテレビゲームのタイトルをあげた。 

「よく買えたなぁ」 

 感心すると、徹夜で並んだと二人して胸を張った。 

 ……徹夜って。君達も試験、捨ててたんだな。 

「なあ、やろうぜ。攻略本が出る前に攻略しようぜ!」 

「ピザを取らないとなぁ。あ、ジュースとお茶うけも必要だなぁ」 

 お茶うけって、近藤君、君の目的は何か間違っている気がするんだが。 

「明日から夢にまで見た夏休みじゃねぇかよ。な、一人でも頭脳が多い方が、攻略がはええって!」 

「確かにそうだけどな。けど、お前等、クラブはどうすんだ?」 

 夏期休暇に入るんだ。尚更練習が入っているだろうに、と首を捻る。 

「俺、腹の調子が悪くてよぅ」 

「私ぃ、女の子の日なの」 

 おいおいおい! 

 腹の調子が悪い人間がピザやお茶うけの心配をするのですか、近藤君! ていうか、次期主将がそんなんで大丈夫なのか、アメフト部よ! 

 つか、何時から女の子になりやがったんですか、大ちゃん! 

「行きてえのは山々だけど、今からってのは無理だな」 

「何? 何かあるのか?」 

「ちょっと野暮用」 

 そう言って目を伏せた。 

「その野暮用は、明日までかかるのか?」 

 尚も及川が尋ねる。 

「いや、夕方には終わるけど」 

 多分、それくらいには上がれるだろう、と頭の中で計算する。 

「だったら、それから来ればいいさ」 

「心配するな。食い物は、俺達で調達しておくから」 

 結局、俺もゲーム大会に参加する事が決定してしまっていた。面倒に思う反面、楽しみでもあった。 

「後、他には誰か来るのか?」 

 今夜は徹夜か。 

 そんな事を考えながら、聞いてみた。 

 すると、保にも声を掛けたが断られたと言った。 

「え? 珍しいな。あいつそのゲームが発売されるの楽しみにしてたんじゃなかったっけ?」 

「いや、確かに来たがってはいたよ。けど、美味いラーメン屋を見付けたとかで、今日、麒翔館大の彼女とデートなんだと」 

 麒翔館大の彼女? やっぱり、内場さんの事だよなぁ。 

 ……けど、彼女、今確かダイエット中だって言っていたよな。 

「多分、保も来る筈だよ。飯、一人分追加な」 

 驚いて互いの顔を合わせている二人に片手を振ると歩き出した。 



「あら、今帰り?」 

 校門を出ようとした所で、今度は内場さんに声を掛けられた。 

 彼女は、うちの図書館で借りていた本を返しに来た所だという。 

「そう言えば、今日、保とラーメンデートなんだって?」 

 からかうように言うと彼女からは、特大の「はあ?」という返事が返って来た。 

「何時、誰がそんな事を言ったのよ! デートなんかしないわよ! 誘われてもいないのに、デートする訳ないじゃない。それにだいたい、何、ラーメンデートって?」 

「ラーメン屋でデートの略」 

「はあ? 食べるわけないじゃない! 今、私、ダイエット中なのよ。ラーメンなんて、食べられるわけないじゃない!」 

 と、息巻いた。 

 保君、ゲーム大会参加決定。 

 心の中で苦笑する。 

「あ、そう言えば、この間はサンキュ。田中さんも喜んでいたよ」 

 麒翔館大の司書である田中さんが欲しがっていたシャドウの守護石。正しくは偽石だったのだが、彼女の姪っ子の中学受験のお守りとして欲しがっていたあれ。 

 結局、シャドウの守護石にはそういった効能がある訳もなく……。 

 そんな話を内場さんにした所、彼女が今時の女子高生の間で流行っているというお守りグッズをタダで譲ってくれたのだ。他人(ひと)から貰った物だから、と。 

 田中さんの話によると、入手困難だというそのグッズを受け取った姪っ子の喜びは凄い物だったらしい。今では勉強にも熱を入れているとの事。 

 ……あの見た目の怖い人形でああも喜ぶとは。女の子って、わっかんねぇ。 

「どう致しまして。お役に立てて何よりよ」 

 と、笑った内場さんは、雑誌で見たままの美人さんだった。 

 うーん、保の審美眼もなかなかのもんかもしれない。 

「あ、そうだ!」 

 感心しつつ、じゃあ、と、歩き掛けた俺は、ふと思い出したように振り返った。 

「なあ、何で仕事の事、榊田さんには秘密なんだ?」 

 俺の言葉に、歩き出そうとしていた彼女も立ち止まり振り向いた。 

「何、あんた未だ気にしてたの?」 

 呆れたと言わんばかりの顔をした。 

「やっぱり駄目か。悪かったな」 

 苦笑し、歩き出そうと足を一歩踏み出した所で、答えが返って来た。 

「彼女とはさ、一生友達でいたいの。ただの、ね。それだけよ」 

 そう言って、微笑んだ。 

「それって、どういう……」 

「あ、内場さん、来てはったんや!」 

 俺の新たな疑問は、保の喜々とした声に立ち消えとなった。 

「あれ? カタやんもおったんか。あ、内場さん、今日暇? 良かったら一緒にうんまいラーメン、食べに行かへん?」 

 保の言葉に、彼女は片眉を上げ、俺に目配せをくれた。 

 俺はそんな彼女に苦笑すると、保の肩を叩いた。 

「今夜、キンちゃんの所で会おう」 

「え? 何?」 

 驚いている保の返事を聞く前に、俺は片手を上げて歩き出した。 



 目的地のある駅に着くと、腕時計をチラリと見る。 

 良かった。予定よりも早く着きそうだ。 

「あれ、片瀬君? こんな所でどうしたの?」 

 榊田さんだった。学校帰りらしく、何時も大学に行く時に持っている大振りの鞄を肩から掛けていた。 

「榊田さんこそ、どうしたの? こんな所で」 

 ここは彼女の通う麒翔館大学の最寄り駅でも、awfの最寄り駅でもない。繁華街と言える程の町並みですらない。 

「私、この近くに住んでいるんですよ」 

「ああ、成る程」 

 納得していると、片瀬君は?、と再び尋ねられた。 

「この近くにちょっと野暮用があってね」 

 言葉を濁すと、彼女は不思議そうな顔をした。 

 その背後には樹の姿があった。 


「今だから言うけど、樹が片瀬君に嶋野さんの中に入るように主張したのよ。彼が自己主張するなんて、珍しいでしょう」 

 あの一件の後、柊さんが言った。 

「樹……さんが?」 

「まあ、比喩的な意味なんだけどね。その事を皆で話し合っていた時に、君がいいとでも言うように、君の写真を指差したのよ。まあ、樹が姿を現した事自体、珍しい事なんだけど」 

 と、ニヤリと笑った。 

 樹が? 

 あの時もそうだった。道に迷っていた俺をあの場に導いたのも、彼だった。 

 あの嶋野さんの一件の後、俺は全てをすっかり思い出していた。忘れていた事すら忘れていた事実を。俺が子供の頃誘拐され、殺されかけた時、樹が俺を――俺の魂を、この世にとどめてくれたのだと。 

 あの世の時間(とき)の流れがどういう物なのかは分からないが、確かにあの時、幼い俺は大きくなった俺に会っていた。そう、あの時会った少年は、俺だったのだ。 

 という事は、樹が俺を二度も助けてくれた事になるのか? 今回、樹が俺を選んだ事にも、意味があったのではないだろうか? 

 あの後、現場にいた風達に尋ねたが、幼い日の俺である少年を見た者は、誰一人としていなかった。……樹を除いて。 


「ふーん。で、野暮用って?」 

「柔道の練しゅ……あっ!」 

 心ここにあらずだった為、うっかり答えてしまった。 

 俺は、あの一件以来、再び柔道の練習を始めたのだ。もっと強くなる為に。もっと確実に誰かの役に立つ為に。 

「へえ。柔道ですか。でもこの辺に道場なんてあったかなぁ」 

 それがあるんだよ、榊田さん。警察署の中に。俺の昔馴染の先生が、今、この近くに赴任して来ているのだよ。 

 ……なんて、面倒な説明は、端折りたい訳で。 

「ははは。ごめん! 時間が無いんでまた今度!」 

 俺は強引に話を打ち切ると、彼女の背後にいた樹に、軽く黙礼した。 

 それを見た彼は、何を感じたのか……。ふっと、掻き消えてしまった。 

 俺は、そんな彼にニヤリとすると、今度こそ歩き出した。 

 目の前を明らかに死んだ人間が歩いている。そんな日常。 

 今の俺には、そんな現実も大した事ではないと思える。 

 柊さんには、常勤としてではなく、バイトとしてなら、とこれからも影見師の仕事を引き受ける事を約束した。 

 先の事は分からない。けど、今はそんな感じ。 

 何時か俺の進むべき道も見付かるだろう。今は、その時の為の準備期間。 

 さあ、急いで、道場に向かおう。 



   了

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