第36話

 外からは確認出来ないが、嶋野さんは恩田氏の言う通り、店内にいるのだろう。 

 作戦決行を予定している場所までは、歩いてここから約十分という所だろうか。 

 窓を見ながら、緊張の為、嫌な汗が背中を伝い落ちた。始まってしまえば、何という事も無いのだが、この感覚は柔道の試合前に似ているかもしれない。 

 店の中に三人が入って数分が経った。何時次の行動に移るのか分からない緊張感と苛々感が、嫌な感じだ。 

『出て来るぞ。気を付けろ』 

 電話が鳴り、恩田氏のそっけない言葉の後、直ぐに切れた。 

 俺は、被っていたキャップを目深に被り直すと、更に本に没頭するかのように、身を屈めた。 

 恩田氏の言う通り、直ぐに二人が出て来た。しかも、何故か内場さんが付き合っているかの如く、その手を自然に保の腕に絡める。保は一瞬、驚いた顔をしたが、直ぐに真顔に戻った。 

 ……あの態とらしい顔は、絶対喜んでいるに違いない。 

 俺がそんな保に一人呆れていると、また一人、店から出て来た。嶋野さんだった。 

 彼女を再び保の周囲で見掛けるようになってから気になっていたのだが、彼女のあの変わりようは何だ? 

 服装云々では無く、その形相の変わりようったらなかった。割とタレ目に分類される可愛い感じだったその顔は、別人のように吊り上がり、口には老女のような皺がくっきりと浮かんでいる。そして二人の様子を呪い殺さんばかりの表情で睨み付けていた。 

 ……いや、実際に呪い殺しに掛かっているか。 

 俺は自分で自分の不謹慎な考えに苦笑いを浮かべると、本をポケットに戻し、後をつけるべく歩き出した。 



『そろそろ、二人が例の神社に入るぞ。少年、お前さんは先に結界奥のご神木の陰に隠れてろ』 

 またしても恩田氏の一方的な通話が切られ、前もって教えられていた近道を走り出す。到着する頃には、短距離だと言うのに、軽く息が上がっていた。 

 運動不足か……。 

 軽く自己嫌悪に陥りながら、神社の裏側から敷地内に入る。 

 玉砂利を踏み締め、直ぐに道を外れると、木立ちの中を本殿裏の結界が張られているという場所が見渡せるご神木の陰に落ち着いた。そこは、結界と言う割に、何の変哲も無いぽっかりと開いた空き地だった。剥き出しの土地に、直径五メートル程もあろうかと思われる水溜まりがあるだけだった。 

『あの水溜まりが、結界だよ』 

 不意に背後から声がした。桂氏だった。 

 まだ風が来るには早過ぎるんじゃ……。 

 振り向いた俺は、きっと間の抜けた顔をしていたのだろう。目が合うと桂氏は、必死に笑いを堪えていたが、その目は思いっ切り笑っていた。 

「こんなに早くに来て大丈夫なんですか?」 

 ヒソヒソ声で、話す。 

『大丈夫も何も、だったら君はどうやってターゲットの中に入るつもりだったんだい?』 

 呆れた顔で言われる。 

 確かに、俺が中に入る為には、前もって来ておいて貰わないと困るわな。未だどうするつもりなのか、その方法は全く教えられていなかったが、柊さんに俺が嶋野さんの中に入る際には、風の誰かに手伝わせる、とは聞かされていた。その誰かが桂氏だったとは。当然と言えば、当然か。 

『それにこう見えて、忙しかったんだよ。朝から準備に追われててね。因みにあの結界も俺が作ったんだ』 

 と、彼は目で結界を示した。 

 結界と言われても、やはり単なる水溜まりにしか見えないのだが。 

 思わず思ったままの事を口にしていたみたいだ。 

『入ってみれば分かるよ』 

 彼はニンマリと笑った。 

 入るって、あれに? 

 待てよ。結界ってぇのは、小説やゲームでは、あの中に入ると悪魔や悪霊から身を守れる物だった筈だよな。 

 それじゃあ、嶋野さんの中に入ろうとしている俺が、結界の中になんて入れる訳ないじゃん。嶋野さんなんて、悪霊その物になろうとしてるんだぜ。 

 きっとあの中に保や内場さんを入れて、その間に退治するのだろう。 

 一人、結界の使い道を推理し、納得していると、直後に現れた柊さんに訂正された。 

「あれには、理子ちゃん達じゃなく、君と嶋野さんに入って貰う予定なの」 

「え? けど結界って、悪霊なんかは入れないんじゃ……」 

 俺の言い掛けた言葉は、柊さんの早口に消された。 

「本来の意味はそうね。元々の意味は、仏教用語だし、その辺の事は、特に気にしなくてもいいわよ。便宜的に使っている言葉なだけだから。勿論、仏教用語云々は置いといて、本来の意味でも使っているんだけどね。……そうね、今回の場合、分かり易く言えば、檻って言う方がいいかもしれないわね」 

 と、言いつつ、片手を挙げる仕草で断った後、掛かって来たらしい携帯電話に小声で応対し始める。 

『あいつに、魔を――宿主である女の子の本体を閉じ込めて、一気に霊達を一人逃さず退治するんだよ』 

 だから、あれはまだある意味未完成なのだと、彼女の代わりに桂氏が続けた。 

『彼女をあの結界の中におびき寄せて、あの中に入れたら、即座に出られないようにするんだよ』 

「でもどうやって彼女を中に入れるつもりなんですか?」 

 俺の問いに、桂氏はさあ、と他人事のような返事をした。実行するのは君なのだから、と。 

『来るぞ』 

 と、突然、桂氏が言った。 

 姿を未だ見てはいないが、恐らく、今現在、今回駆り出された風師の全てが、この近くにいる筈だ。影見師じゃなくとも、長年やって来た柔道の経験でその気配を感じていた。 

 神社の境内に、保と内場さん、二人の姿が現れた。 

 内場さんには、今回、二つの指示が出されていた。一つは保をここ、結界のある場所にまで誘い出す事。もう一つは、魔と同化寸前の嶋野さんを怒らせ、隙を生む事。 

 その隙を逃さず、俺は彼女の中に入るという手筈になっている。 

『おいでになったな』 

 二人の後から、隠れるようにして嶋野さんが現れた。 

 あろう事か、彼女の身体からは、あの俺が事故の際に見掛けていた影が、身体から溢れるように染み広がり始めていた。 

「かなり怒っているみたいね」 

 隣で電話を切ったらしい柊さんが、ご神木に片手をあて呟いた。 

「少年、そろそろ出番よ。心の準備はOK?」 

 彼女は、木に触れていた手を俺の肩に置き換え、俺の目を真っ直ぐに見詰める。 

 俺は、無言で目を見詰め返すと、深く頷いた。 

『おっとぉ、始まったな』 

 この男に緊張感は無いのだろうか? 

 横目でチラリと見遣ると、桂氏は嬉しそうにニンマリと笑っていた。 

『ほら、見てご覧』 

 俺が呆れているのを知ってか知らずか、俺に対して、目で見るようにと、促す。 

 釣られてそちらへ目を向けると、内場さんと保が結界を背に俺達から十メートル程の場所を歩いていた。内場さんが指差す先には、何やら小さな祠があった。二人はそこを目指しているらしい。 

 すると、突然、内場さんが小さく叫んで立ち止まった。手を目に当て、痛いと言っている。どうやら、目に何かが入っていると言っているようだ。 

 そんな彼女を労るかのように、保が内場さんの顔を覗き込み、頬に手をあてた。 

 その瞬間、二人から少し離れた場所にいた嶋野さんは、影と言う名の炎に包まれたように見えた。 

 彼女から発せられた影は、一気に保へと飛んで行き、保の身体を一瞬にして覆い尽くした。 

 次の瞬間、保の身体の中に影が消え、代わりに奴の形相が嶋野さんのそれに取って代わった。 

「殺してやるーっ!」 

 保とは思えない低い声で唸ると、保が内場さんに飛び掛かった。そして彼女が避ける間も無く両手で彼女の首を掴むと、ギリギリと絞め始めた。 

『止せっ!』 

 俺は桂氏の制止を振り切り駆け出した。この際、嶋野さんの事等、頭から綺麗さっぱり飛んでいた。 

 保の襟首を掴み、そのまま足を掛け投げ倒した。 

 倒れた保の身体から、黒い影が蒸発するかのように舞い上がっては消えて行く。 

 慌てて内場さんの様子を見ようと向き直ると、今度は嶋野さん自身が、内場さんに飛び掛かろうとしていた。 

 咳き込み、その場にしゃがみ込んだ内場さんを飛び越え、そのまま嶋野さんに飛び掛かった。彼女の力は、人間の物とは思えない程の物だった。 

 けれど、魔に取り付かれているとは言え、格闘に関して彼女は素人も同然。ここは負けるわけにはいかない。 

 無意識に足払いを掛け、彼女の襟を取り、そのまま結界の中へと大きく投げ上げる。しかし、手を離そうにも必死に俺の腕を掴んで倒れまいとしている彼女の指は執拗に絡んで離れなかった。 

 仕方無い。 

 俺は自らの身体ごと彼女に寝技を掛けるかの如く、ぶつかった。 

 ……そして、時が止まった。 



 ――ココハ……ドコダ? 


 毎日、毎日、楽しくない。 

 私はどうしてここにいるのだろう……。 

「あ、ごめん」 

 廊下を歩いていると、団体で歩いている女の子にぶつかられた。 

 通り過ぎて行く、人、人、人。 

 私は軽く困ったような笑みを浮かべると、会釈した。 

 彼女は、そんな私の姿をカタチだけでも確認したのか、直ぐに先を歩いていた友人の波に駆け寄る。彼女はまだ、マシな方。 

 これだけ沢山の人間がいるのに、私は一人。 

 自分が何故、ここにいるのかすら、分からない。 

 見た目が地味だから? 

 そう思い、無理して買った洋服の数々。大学に入る前の私しか知らない人間が見たら、いったい何人の人間が、私の事を見分けられるだろう。 

 派手な服装に派手な化粧。 

 これで何を勘違いしたのか、男の子は沢山私の周りに集まって来るようにはなった。友達でもなく、彼氏でもなく、単なる勘違いした男達。 

 本当は、こんな格好なんか好きじゃない。こんなメイクも好きじゃない。 

 なのに、今更元の――本当の自分に戻る勇気すら、持ちあわせてはいない。 

 本当は、自分の居場所が欲しい。分かってくれる人が欲しいだけ……。 

「ちょっとええかな? 君、先週、この講義出てはった?」 

 そんなある日、彼に出会った。 

 彼の名前は、新山保。彼は、毎週、私が真面目に講義を受講している事に気付いていたらしい。 

 私はと言うと、以前から彼の事は、一方的に知ってはいた。派手な身形の関西人――私の印象は、そんな物でしかなかった。 

 幾ら、私が女友達がいない人間だったとしても、彼女等と話さない訳ではない。そんな会話の中で、彼の名を何度か耳にしていた。 

 けれど、実際には同級生であるにもかかわらず、彼とは挨拶すら交わした事が無かった。 

 しかし、噂に違わずフレンドリーと言えば聞こえはいいけれど、厚かましさと紙一重な位置に属する彼は、初対面である私に対して、無謀にもノートをコピーさせて欲しいと言った。 

 普段の私であれば、鼻であしらっていただろう。けれど、彼の何がそうさせたのか……。 

 気が付くと、私は自分のノートを差し出していた。 

 そのノートをパラパラと捲って見せた彼は、感心したように言った。 

「綺麗な字ぃ、書かはんねんなぁ。それにすっごい、分かり易いわ。……ほんまにコピー、取らしてもろてもええのん?」 

 彼の言葉に、私は頷いた。 

 それが始まり。それが全て。 

 誰もそんな事を言ってくれた事無かった。誰も私という人間を見てはくれなかった。 

 でも彼は……彼は違う。 


 ――ココハ、ドコダ? 君ハ、誰ナンダ? 


 彼には何時も決まった彼女がいた。 

 長続きはしないけど、彼女がいた。 

 別に彼女になりたい訳じゃない。私は彼の友達でいられるならば、それで良かった。 

 私の居場所さえあれば、それで……。 

 そんな時、偶然、ネットであれを手に入れた。入手困難だと言う話は、耳にしていた。実際、それを買う為だけに、列に並んだりもした事さえある。 

 けれど、一度として私は選んで貰えなかった。ここでも私は、誰にも認めて貰えない――そう思った。 

 でも、インターネットのオークションサイトで見付けたそれは、私が現れるのを待っていたのだと思った。 

 このこは、私の物……。 

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