眼鏡男子の日常

きり

第1章 何時もの日常

第1話

 オジチャン、苦シイヨ。助……ケ……テ。


「ゲホゲホゴホ」

 激しく咳き込んで目が覚めた。

 目が覚めた瞬間、どんな夢を見ていたのか全て忘れてしまったが、悪夢には違いなかった。体調の悪い時に見るその正体不明の悪夢に、俺は軽く身震いした。

 習慣的に、枕元にある眼鏡を取ろうとして、はたと気付く。

 やべ。眼鏡、何処で忘れたかなぁ。

 眼鏡が無い事に気付いたのは、ムカムカする胃袋を手で押さえやっとの事で身体を起こした後だった。

 俺、片瀬亘(かたせ わたる)。大学の二年になったばかり。そろそろ、将来を見据えるべきお年頃。

 なのに、そんな事は棚上げにして、昨晩は幼馴染みとも言えなくもない悪友、新山保(にいやま たもつ)に無理矢理朝までラーメンの食べ歩きに付き合わされた。世の中、夜更かし人間のなんと多い事か!

 ……じゃなくて、傷心の保君に無理矢理自棄食いに付き合わされたのだ。で、何軒か店を梯子して、その後……。

 ……だめだ。記憶にねぇ。

 俺は、込み上げる吐き気を宥めつつのろのろと立ち上がると、昨日から着たままだった服を脱ぎ捨てシャワーを浴びた。

 今日は今年の履修を希望する講義の届けを出す日だった。特に拘らなければ、講義を履修する事は可能だろう。が、人気のある講師の講義は、毎年申し込みが殺到する。

 体育会系のクラブに入っていれば、人海戦術で何とかなると聞く。期間限定で今だけ入っておけば良かったと思っても後の祭りだ。

 ……今からじゃ希望の講義申し込みに間に合うかどうか。

 シャワーを浴びて少しはマシになった胃を更に落ち着かせようと、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターをがぶ飲みしながら考える。

 出来る事なら残り僅かな貴重な春休みを無駄骨に終わると分かっている履修届けにわざわざ切符を買ってまで行くのも億劫だ、と思いながらも重い腰を上げた。

 やっぱりここは行くしかないだろ、俺! 奇跡が起きて未だ枠が余っているかもしれないんだぞ、と半ば自分自身でも嘘臭く感じる言い訳を呟きつつ部屋を出た。

 それにしても参ったな。眼鏡をどうすっかな。塩を使うしかないか……。



 やっぱり、今日は一日サボれば良かった。

 大学からの帰り道、重い足取りで繁華街を歩きながら溜め息を吐く。

 当然の事ながら、一番受けたかった人気講義の枠は、とっくに埋まっていた。実際、受け付けの開始直後に埋まってしまったらしい。

 やはり来年は体育会系の部に入るべきかと溜め息を吐く。

 しかもまたしても保に捕まったせいで、自棄食いに付き合わされる始末。何とか五件目に突入する直前に振り切ったはいいが、俺の胃と財布は、もうボロボロだった。

 と言うか、そもそも昨日奴に捕まりさえしなければ、今日の履修届けが上手くいったと思うと口惜しい。

 盛大に溜め息を吐き空を見上げる。すっかり夜の帳が下りていた。

 こんな事なら、安物の眼鏡でも買いに行けば良かった、とまた一つ溜め息を吐いた。

「おわっ!?」

 ぼんやりと脳内で愚痴っていた為に、前方から走って来た少年に気付くのが遅れた。

 咄嗟に避けようとしたが避けきれず、少年とぶつかる……代わりに奴は俺の身体を通り抜けやがった。

 しまった。こいつ、生きてねぇ。

 くっきりはっきり視(み)えるその少年は、実はこの世の名残、所謂霊体だった。

 成仏したいんだか、誰かを仲間にしたいんだか、そういった輩は視える人間にちょっかいをかけてくるから煩わしい。

 案の定、俺の方をマジマジと見ている。

 視えない視えない。こっちに来んな!

 心の中で呪文のように唱えながら、何事も無かったかのように足早に歩を進める。

 しかし、一度見付けた獲物を彼等のような輩が見逃してくれる訳もなく……。

 気が付けば、繁華街を物凄い形相をした俺が走っている事となる訳だ。

 ……勘弁してくれ。

 自慢じゃないが、高校時代、県の代表になった事もあるくらいの駿足の俺。ちっとばかし、足には自信があるのさ。

 ……短距離だけどな。

 なので、直ぐにヘロヘロになっていた。情け無い。

 少年はと言うと、彼等の例に漏れず、疲れ知らずな訳で……。ピッタリと俺をマークしたままついて来ていた。

 まずい。まずいぞ、俺。本当なら、使いたくないんだ、塩なんて。俺自身、使った後、彼等がどうなるのか分からない為、出来るだけ使わないようにしている。

 実は俺、子供の頃からこういった連中に出くわす回数が多い。と言うか、多過ぎる。

 でも、そんな事を言ったところで、誰も信じてくれない事も今では流石に自覚してはいるのだが。

 血を分けた実の親にしてもそれは同じ。昔は心配した両親が、色んなカウンセラーに俺を診せに行ったりもしたっけな。『思春期の…』とか、『情緒不安定で…』なんて言葉、何度聞かされたか分からない。

 その内、俺も少しは利口になり、他の人間には彼等が視えないのだという事が分かった。

 そんな時だった。今みたいな状況で、一人の男に出会ったのだ。

 男は、自らの身体を宿主にして、彼等のような存在を一人飼っていた。

 男は彼等から逃げていた俺を助けてくれた上、俺に眼鏡を掛ける事を勧めてくれたのだった。眼鏡を掛けると、殆どの霊体を視る事が無くなった。男が言うには、人工的な物を通すと、何故か彼等のような存在が視え難くなるものらしい。

 気が付かなければ――基本的に自分が彼等に対して何か行動を起こさない限り――特に彼等に何かをされる訳では無いので、普段はそれで事足りる。

 問題は、これが基本的な場合であってそれ以外の場合の対処法として塩を使うように、と言われたのだ。塩で彼等を祓えというのだ。所謂『清めの塩』ってやつ。『清めの塩』と言うと大層だが、要は“塩”でありさえすれば何でもいいのだ。普通の塩、食塩、極端に言えば味塩でも可。その程度の代物。

 で、実際、最初の内は何の躊躇も無くそんな塩を使って祓っていた訳だが、その内良心が疼き出した。責任を負うのが嫌いなんだよ、俺。

 何にせよ、彼等がここに残っているのには彼等なりの何等かの理由がある……のだと思う。転生だとかあの世だとかの有無は分からないが、祓う事によって彼等の存在その物に責任を負いたくないというのが正直なところなのだ。

 しかし、状況は急を要してきたようだ。このままでは、奴は俺に憑きそうだ。

 憑かれるのは勘弁願いたい。死なないにしても、疲れるんだよ。

 外すのもこれまた大変だし、自力で何とか出来なきゃ、所謂御祓いってやつを大枚をはたいてやってもらわざるをえない。

 けど正直貧乏学生にそんな金銭的余裕なんて無いわな。と言うか、そろそろヤバいかも……。いい加減、息があがり、顎も上がってきた。

 俺はジーンズの後ろポケットから、小さなプラケース入りの塩を取り出した。蓋を取り、右の掌にバッと塩をあける。立ち止まり、振り向いて右手を振りかざそうとしたその瞬間、その手を突然誰かに掴まれた。若い男が俺を睨み付けていた。

 しかし、そう思ったのは、ほんの一瞬の事だった。俺が瞬きし、再び目を開いた時には、その人物が先程の男とは似ても似つかぬ華奢な女に変わっていた。

「何!?」

「こっち!」

 軽くパニックに陥っている俺を女とは思えぬ力で引っ張り、彼女は走り出した。

「ちょ、ちょっと待って!」

 バランスを崩しながらも、彼女の走りに必死について行く。それでも何とか走る彼女に告げた。

 だが、彼女はそんな俺に構わず走り続けた。何度も細い路地を曲がり、小さな鳥居を潜る。そして人気の無い神社の境内へと駆け込んだ。

「下がって」

 息吐く間も無く、突き飛ばすように俺の手を放すと、彼女は俺を背にして立った。

『そろそろ、おいでになる頃だぁねぇ』

 と、妙に緊張感のない男の声がした。どう考えても、彼女の声ではなかった。

 それと同時に、彼女の姿がダブって見え始めた。手で目を擦っても、益々、そのダブった姿が鮮明になるだけだった。

 そう、人間である女と、彼女に比べ遥かに長身の男。微妙に透けているところをみると、人にあらざる存在の男。さっき一瞬見たと思ったあの男だった。

 どういう事だと益々混乱をきたす俺の耳が、再びピンチが来たと告げる。

『見付けた』

 少年霊がその姿を現したのだ。

 鳥居を潜り、無表情だった少年霊は、最早人間だった頃の事等忘れたかのような恐ろしい形相に変わり果てていた。目はつり上がり、口は耳まで裂け、中から覗く歯は、まるで獣のそれだった。そして彼は、ヒタと視線を俺に合わせた。

『いらっしゃいましぃ』

 その場のピリピリした空気にそぐわない台詞を男が吐いた。その台詞に俺は軽く拍子抜けしつつも、直ぐにでも逃げ出せるようチラリと左右を確認する。

 しかし少年は、そんな男の声を無視して真っ直ぐ俺の方に向かって駆けて来る。そんな少年を女と長身の男が行く手を遮るように立ちはだかった。

 そして少年は跳んだ。彼は、人間では不可能な跳躍を見せのだ。二人を軽く飛び越えたのだ。

『どうして逃げるの?』

 顔の表情と相反する舌足らずと言ってもいい程のその幼い声に、俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 ……何も視えない。何も視なかった。

 全身を襲う不快感を振り払おうと、俺は両目をしっかりと閉じて、心の中で呪文のように繰り返す。

『おいたはダメですよぉ』

 相変わらずの緊張感の無い男の声がして、俺は我に返った。

 目を開けると、人にあらざる男が、少年の背後から抱き抱えるようにして羽交い締めにしていた。

『そろそろ、楽になろうかぁ』

 ニンマリと笑うと、男は少年霊を抱いた腕に力を込め、俺の聞いた事の無い言葉を話し始めた。それはまるで歌っているかのような美しい旋律で、ぎりぎりと締め上げられ苦しい筈の少年の表情が、恍惚としたそれへと変化していくのが見てとれた。

 そして、少年はいなくなった。いや、正確に言うならば、“消えた”。薄いガラスが粉々に砕け散るかのように、光と共に飛散したのだ。

 後には人にあらざる男と、難しい顔をした女……そして、俺。

『よっしゃー! 終わった』

 男は俺に向かって笑い掛けると、自分の背後にいた女に抱き付こうとした。

「はい、ご苦労様」

 男が抱き付く前に身を躱した女は、何やら両手を組み始めた。次々と違う形に指を絡ませ、ニンマリと笑う。

『あ、ちょっと待て! お前、卑怯だぞ!! ギブ・アンド・テイクという社会の常識を知らんのかっ!!』

「大丈夫。あんたよりはよく知ってるから。だからこうして道を繋いであげてるんじゃない。私から何かあげなくても、あんた、今の坊やにいただいたでしょう?」

 疑問と言うより確認の口調で答えながらも、次々に組み変えられていく指。

「我、道を繋ぐ者が命ず。汝、帰還せよ」

『てンめぇ、覚えてろよーっ!!』

「忘れとく」

 男の捨て台詞にニンマリと意地の悪い笑みを浮かべ、彼女は言った。

 しかし、その台詞が果たして男の耳に届いたのか否か。人にあらざる男は、何かに吸い込まれるかの如く地面へとその姿を消したのだった。

「で、君、何か質問は?」

 男が消えていった地面を呆然と見ていた俺に、女が声を掛けてきた。

「……あの」

 我に返って口を開こうとしたが、それより先に携帯電話の呼び出し音が聞こえた。俺のではないその音の先を手繰ると、彼女がバックから携帯を取り出し耳にあてるところだった。

「あ、ごめん! ちょっと、待っててくれる?」

 そう言いおいて電話の相手と話し始めた彼女は、仕事が片付いた、というような事を話していた。

「ああそれから、一人面白い子を拾ったんだけど」

 そう言って、俺の方を見てニンマリと笑った。

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